第17話 朗報
与する陣営を決めてしまえば、後は冬明けに始まるであろう動乱の時代に向けてひたすらに準備を整えるのみ。この段になると領主のウィリアム自身が動くべきことはほとんどない。季節が冬に移ったこともあり、ウィリアムの日々は穏やかに過ぎていく。
社会の動きは他の季節よりも緩やかで、政務も忙しくはない平和な毎日。しかし、それが嵐の前の静けさであると理解しているからこそ、ウィリアムの心は穏やかではいられない。
「…………うわぁっ!」
ある日の朝。ウィリアムは小さな叫び声を上げながら飛び起きる。
「大丈夫よウィリアム。あなたが見たのは悪い夢。本当には起こっていないことだから」
すぐさま隣から呼びかけてきたのはジャスミンだった。先に起きていたらしい彼女は、目を覚ました直後でまだ混乱している夫に優しく語りかけ、抱き締める。
「ほら、私が一緒にいるわ。何も心配しなくていいのよ」
愛する伴侶の声とほのかな香水の匂い、触れる体温を感じながら、ウィリアムの呼吸は徐々に落ち着く。自分はフレゼリシア城の寝室にいて、今はまだ動乱の時代が始まる前だと理解する。
「……またこの悪夢かぁ。怖かったぁ」
「怖かったわね。だけどもう安心していいのよ、私のウィリアム」
ウィリアムがこうして、未だ来たらない動乱の時代――自身の選択の全てが裏目に出た最悪の未来を夢に見るのは、この数週間で何度目かのこと。だからこそ、ジャスミンも慣れた様子で言う。
「喉が渇いているでしょう? お水を飲む?」
「うん」
ウィリアムが頷くと、ジャスミンはベッドの脇にある、水差しとカップが置かれた小さなテーブルの方を向く。
そして再び振り返ったジャスミンは、手に水を持ってはいない。彼女はそのままウィリアムに口づけし、口移しで水を飲ませる。ウィリアムも、それを当たり前に受け入れる。
喉を潤してほっと息を吐いたウィリアムの、唇から垂れる水滴を、ジャスミンの舌がぺろりと舐め取る。そのまま舌なめずりをしながら、ジャスミンは妖艶な笑みを浮かべた。
「それじゃあ……まだ日も昇っていない時間だから、私と楽しいことをして、そのまま二度寝しましょう。悪夢で目を覚ますのが一日の始まりだなんてあなたも嫌でしょうから、楽しい記憶で上書きしましょう。ね?」
「……うん」
ウィリアムは照れたように笑って頷くと、その身体の上にジャスミンが覆いかぶさる。昨晩の営みを終えたままの、一糸まとわぬ姿で、二人は肌を重ねる。
・・・・・・
そんな日々を送りながら、年が明けた東部統一暦九八五年の一月。
「妊娠したわ。私とあなたの子供よ」
「ほ、ほんとに!?」
喜色満面のジャスミンの報告を聞き、ウィリアムは目を見開く。
「ええ。ちゃんと薬草を使って調べた結果だから、まず間違いないわ」
百年ほど前に確立された妊娠検査の方法として、特殊な薬草を使うものがある。その薬草が稀少なために用いることができるのは一部の富裕層に限られるが、精度は相当に高い。ジャスミンの最近の体調面と合わせて考えると、彼女が新たな命を宿しているのは確定と言えた。
「そっかぁ、僕たちの子供が、ジャスミンのお腹にいるのかぁ……」
「二人でたくさん励んだ甲斐があったわね、ウィリアム」
ウィリアムが感慨深げに呟くと、ジャスミンは夫の視線の先――自身の腹部を愛しそうに撫でながら返した。
「そしたら、これからはできるだけ安静に過ごさないとね。政務は僕が全部やるから、ジャスミンはなるべくゆっくりして――」
「もう、ウィリアムったら。月のものが止まった時期から考えて、この子が生まれてくるのは秋頃よ? お腹が大きくなるのもまだ何か月も先の話なんだから。あまり疲れるようなことは控えるとしても、出産に備えて安静に過ごすには気が早すぎるわ」
「あっ、そうだよね。つい心配になっちゃって……」
あわあわと落ち着かない様子のウィリアムを見て、ジャスミンは可笑しそうに笑った。
出産は女性にとって命懸け。裕福な家では状況は多少ましになるが、それでもウィリアムとしては、母子ともに無事に出産を乗り越えられるか、今から心配せずにはいられない。
「大丈夫よ。お母さんが私を産むときは、周りもびっくりするくらいの安産だったそうだから。私たちの子もきっと素直に産まれてくるわ。身体もだけど、今はまず心を穏やかに過ごすよう一緒に心がけましょう?」
「……そうだね。お腹の子に緊張や動揺が伝わるのもよくないし、そうしよう」
ジャスミンとお腹の子に、穏やかに過ごしてほしい。ならば、アーガイル伯爵領の安寧が続くように自分が頑張らなければならない。
領主として。当主として。夫として。そして父親として。日に日に増していく責任の重さに少しばかり気圧されながらも、ウィリアムは内心で己に言い聞かせ、覚悟を強くする。
・・・・・・
領主貴族家は、領地とそこに暮らす何千何万の領民を支配するため、数多くの家臣を抱える。
その家臣団の中で、武門の頂点に立つのが領軍隊長。最高指揮官たる領主の下で、領軍の運営実務を統括する。
そしてもうひとつ、政治面における頂点に立つのが、家令と呼ばれる役職。
領地領民は領主家の財産であり、貴族領とはすなわち、領主家の巨大な私有地。その管理運営は家政の範囲に含まれる。家政の責任者たる家令は、領主の最側近として、領地運営の実務を統括する役割を持つ。
王家と大貴族家――いわゆる五大名家では領地規模が大きすぎるために、家政と行政を分け、行政専任の実務責任者として宰相などの役職が置かれているが、その他の貴族家では大抵の場合、家令が行政実務までを担う。アーガイル伯爵家もその例に漏れない。
現在のアーガイル家家令であるエイダンは、ウィリアムの祖母が領主の座にいた時代に家令となり、以降二十年以上、ウィリアムまで三代のアーガイル家当主の側近を務めている。能力的には極めて優秀で、性格は真面目そのもの。決して厳格に振る舞うわけではないが、相手が仕える主であろうと臆することなく己の意見を語り、必要とあらば諫言も行う。だからこそ、頼りになる側近として代々の当主から信頼されてきた。ウィリアムも、彼のことは有能な最側近として、そしてまだ若く未熟な己を導き支えてくれる祖父のような存在として頼りにしている。
そんなエイダンは、レグリア王国の情勢の急変に伴い、多忙な状況に置かれていた。彼は平時の仕事をこなす一方で、領軍隊長ロベルトが軍備を整えるための後方支援を行い、さらに王国北部――アルメリア侯爵領とレスター公爵領、その周辺地域の情報収集も統括していた。
両陣営の全容を明らかにするための、およそ半年にわたる情報収集。その一応の最終報告を行うため、エイダンが領主執務室を訪れたのは一月下旬のことだった。
「まず確認ですが、アーガイル家も属するアルメリア侯爵家の陣営については、各貴族領の人口の合計で見ると、およそ百二十万ほどの規模となります」
領主執務室の一角に置かれたテーブルを挟み、向かい合って椅子に座ったエイダンの報告を、ウィリアムは少しばかり緊張した面持ちで聞く。二人の傍らには、補佐役としてアイリーンが控えている。
アルメリア家の陣営の人口規模については、宴に出席した貴族たちの領地人口を合計すればおおよそのところが分かる。ウィリアムはあの宴から帰還して間もなく、アイリーンを通してエイダンより報告を受けている。各貴族領の人口についてはあくまでも推定だが、そう大きく外れる数字ではないものと考えられる。
「対するレスター公爵家の陣営ですが、擁する人口の合計はおよそ百四十万前後になるものと思われます」
レスター家の陣営の規模については、冬を前に中小貴族家の全てが立ち位置を定めたことでようやく明らかとなった。諜報員や商人たちによる調査と、アルメリア家や王都のモンテヴェルディ子爵家をはじめとした他家との情報共有の結果、それまで立ち位置が不明だった貴族家の動向が定まった。
「両陣営の擁する人口には差がありますが、戦争の勝敗を決定的に分けるほどのものではないかと存じます」
「そうだねぇ。軍事力や周りの情勢を考えると、ほぼ互角くらいかなぁ。少なくとも、僕の選択が大失敗ってことにはならなかったみたいだけど……まあ、できればこっちの陣営の人口が多い方がよかったなぁ」
良いとも悪いとも断じることのできない結果に、ウィリアムは微妙な表情で言った。
貴族家の動員兵力は、単に領地の人口規模がそのまま反映されるわけではない。裕福な家、領地が戦場に近い家はより多くの兵力を動かすことができる。経済的に困窮して平時の領地運営で手一杯の家や、領地が戦場から遠い家はその逆となる。
また、領内の治安が荒れている家や、周辺に複数の敵を抱えている家は、それぞれの問題に対処するため軍事力を分割させて動かす必要がある。
アルメリア家の陣営とレスター家の陣営を比べた場合、経済力ではおそらくレスター家の陣営が上回る。しかし軍事力に関しては、武闘派のアルメリア家を中心にまとまり、工業に力を入れている貴族領の多いこちらの陣営も引けを取らないはず。
加えて言えば、レスター家の陣営は人口過密な地域が東側に寄っており、勢力圏の西端まで軍勢を動かし、アルメリア家の陣営と対峙するためにはより苦労する。あちらの経済力をもってしてもこの不利を完全に埋めるのはおそらく困難であり、必然的にあちらが動員できる兵力は、人口規模に対して減る。
そして、アルメリア家の陣営は南の大貴族、ヴァロワール侯爵家の陣営を警戒する必要がある一方で、レスター家の陣営は南北両方を警戒しなければならない。
南のレグリア王家の陣営は今のところ王子王女の派閥争いに注力しているが、だからといってレスター家もそちら側の守りを完全に空けるわけにはいかない。そしてレスター公爵領の北側、エルシオン大陸北部の寒冷地帯には何十という少数部族が勢力圏を並べており、彼らは時おり大陸東部まで南下し、掠奪などをはたらく。レスター家としては、そちらの警備にも一定の兵力を割かなければならない。
両陣営の有利不利を考慮すると、状況はおそらく互角程度。悲観する必要はないが、かといって楽観もできない。
悲観せずに済むのは幸いだが、できることならアルメリア家の陣営の総人口が多くなり、それがひとつの安心材料になってほしかったとウィリアムは考える。
「結局、戦う前に勝ち負けが決まる、みたいな状況には最後までならなかったねぇ。最後は実力勝負かぁ」
「閣下、ここは前向きに、実力をもって勝利に近づく機会を得たのだと考えましょう。アーガイル伯爵領軍も、今まさに鍛えられている徴集兵たちも、この大陸東部で見れば精強な部類です。戦場においてアーガイル家の命運を預ける上で不足はないかと」
「……うん。僕たちが頑張れば勝率が上がる見込みがあるのなら、どうしようもない状況に追い込まれて理不尽に滅ぼされるよりもずっと幸運だよねぇ」
状況は互角。すなわち、戦術を練り、奮戦すれば勝てる。こちらの陣営にはミランダ・アルメリアという頼もしい将がおり、己の下には運命を委ねるに値する将兵がいる。
戦術や奮戦で覆しようのない圧倒的な戦力差をつけられたり、戦う前から謀略などで潰されたりするよりもよほどいい。情勢の主導権を握れるほどには強くない貴族でありながら、ある程度公平な勝負の場を得られるのだから、自分は運がいい。後は腹を括って戦うだけだ。
ウィリアムは自分自身にそう言い聞かせながら、その後もエイダンよりさらに詳細な報告を受ける。




