第二話 ジギタリス殺犬未遂事件(10)
おばあさんは、わたしが心の中で『ケーキ屋のクマさん』とお呼びしていたパティスリー・キハラのご主人――正造さんというお名前だったらしいです――のお祖母様だったのでした。
あれから、正造さんは、本当にご家族にリボンのことを聞いてくださったそうなのです。律儀な方ですね。そして、それを聞いたお祖母様は、思い当たる節があって、そのことをわたしに伝えに来てくださったとのこと。
「ご迷惑をおかけしてごめんなさいね……。その花束、うちの人のしわざなんですよ」
『うちの人』って、お祖母さんの旦那様、つまり正造さんのお祖父様でしょうか。お祖父様が、お墓参りに行こうとして、うちの前に花束を落とされたのでしょうか。だったら、ほぼ、わたしの想像どおりの事情ですが……。
おばあさんは、詳しい事情を話してくださいませんでした。ただ、あの花束をうちの庭に置いていったのは、木原さんのおじいさんである正一さんで、正一おじいさんに悪気はなく、そんなことをしたのには彼なりの訳があったのだというだけで。
詳しい事情は、おじいさんからわたしが直接聞いてやって欲しいと言われました。どういうことでしょうか……。
正一おじいさんは、今日の午後から、隣の鶸岡市にある総合病院に入院しているのだそうです。急病で倒れて運ばれたとかではなく、前々から順番待ちをしていたちょっとした手術のための待機入院なので、さしあたっての体調は悪くなく、今朝、おばあさんやお嫁さんたちが忙しく入院の支度をしている間に一人で何かゴソゴソしているのを、邪魔にならなくてこれ幸いと放っておいたら、ちょっと出かけてくる、と、ふいっと出て行って、しばらくして戻ってきたのだそうです。出かける時、何か花束のようなものを持っていたようだったので、そういえば珍しく庭で何かしていたと思って見てみると、ちょうど咲いていたジギタリスが何本か切られていたとのこと。だから、てっきり、花を持って入院前の最後の墓参りにでも行って来たのだろうと思っていたのですが、おじいさんを病院に送り届けて帰ってきてから正造さんの話を聞いて、おじいさんの外出先がお寺ではなくわたしの家だったと知り、その理由に、思い当たるところがあったのだそうです。
その、思い当たった理由というのを、自分の口からではなく、正一おじいさんご本人から直接聞いてやって欲しい、と……。
今日の面会時間は過ぎているので、わたしの次の休日である三日後に、病院に洗濯物の世話をしに行くおばあさんに同行させてもらうことになりました。
おばあさん、もしかしたらスノーウィがジギタリスを食べて中毒したかもしれないと聞いて、ものすごく恐縮してぺこぺこ謝っておられました。本当にジギタリスのせいかどうかはわからないと説明したのですが、知らなかったとはいえ毒のあるものをわんちゃんの鎖の届くところに置いたのは事実だから申し訳なかった、万一のことがあったら取り返しがつかないところだった、お詫びに、わんちゃんにうちの店の予約限定犬専用ケーキをプレゼントするから、とおっしゃってくれて。お砂糖を使っていない、わんちゃんの健康に良いケーキなんですって。パティスリー・キハラ、今はそんなものまで作っているのですね。
そんな話をしていたら、スノーウィが、おばあさんの顔を見上げて、ちぎれんばかりにしっぽを振りはじめました。普段から人懐こい犬ですけれど、今は特別に尻尾の振り方が熱心で、しかも、瞳が期待に輝いて、今にもヨダレが垂れそうです。もしかして、スノーウィ、実は人間の言葉がわかっているのかしら。
というわけで、理由はともかく、あの花束がケーキ屋のおじいさんのしわざだというのは確実なようですし、とりあえず身の危険は心配しなくてよくなったと見ていいでしょう。
反田さんはまだ少し心配そうでしたが、おばあさんが、花束を置いていったのはうちの主人に間違いないからもう心配はないと請け合ってくださって、なんとか納得したようです。
それでもまだ心配だからと、わたしに自分の携帯の番号を教えてくださって、何かあったら夜中でも構わないからすぐ電話するようにとおっしゃってくださいました。そういえば、わたしたちは、まだ、お互いの電話番号やアドレスを交換していなかったのです。わたしも電話番号とメールアドレスをお教えして、お互い、携帯のアドレス帳に登録しました。……琴里ちゃんの事件の時にこの番号を知っていたら、反田さんのお家に電話するのにあんなに悩まなくてすんだのに。
おばあさんを見送って、反田さんも、もう遅いからと家に帰ることになりました。せっかく来ていただいたのに、座っていただくこともなくとんぼ返りさせて、なんだか申し訳ないです。お茶くらいお出ししたい気持ちはあるのですが、もう夜ですし、反田さんのお家でも、お夕飯の時間でしょうし。
考えてみれば、今日一日、反田さんは、ちょっと本を返しに来ただけのはずのわたしの家で、たまたま犬の急病に居合わせてしまったために、動物病院に付き添ってくださったり、パソコンでいろいろ調べてくださったり、木原洋菓子店を訪ねたり、そのせいで家でお昼ご飯を食べそこねてわたしとファミレスでご飯を食べたり、わたしのボディガードを頼むために光也君にパフェをおごったり、店番の後でまたやってきて光也君を家まで送り届け、それからまたうちまでやってきて……と、わたしのために、一日中、行ったり来たり、東奔西走してくださったのです。一人暮らしのわたしを親身に心配して世話を焼いてくださったのです。
それは、ときどき見当違いなことを言い出したり、思い込みや思いつきで行動したりして、内心、ちょっと困惑させられたり、失礼にも若干ありがた迷惑に感じてしまった瞬間もありましたが、多少見当違いだろうとなんだろうと、反田さんは、心からわたしの身を案じてくださっていたのです。そんな反田さんの親切に、わたしは、きちんとお礼を言っていなかった気がします。思えば、わたし、反田さんに甘えていました。
「あの……反田さん?」
帰ろうとする反田さんの背中に声をかけました。
「ん?」と振り向いた反田さんに、照れくさかったけれど、ちゃんと言わないといけないと思って、頑張って言いました。
「あの……今日はいろいろと、本当にありがとうございました。スノーウィのことも、わたしを心配して、いろいろしてくださったことも……。感謝してます」
「いえいえ。また、何かあったらいつでも電話くださいね」
そう言いながら、反田さんは、顔全体で、それはそれは嬉しそうに、大きくにかぁっと笑ってくれました。わたしの言葉でこんな笑顔になってくれたのだと思うとこっちまで嬉しくなるような、良い笑顔でした。こんな良い笑顔を見せてくれる人は、そうそういない気がします。
夕闇の中を帰ってゆく肩幅の広い後ろ姿が、とても頼もしく見えて、ふっと心が温かくなりました。
でも、反田さん、こんなところをあんなふうに金属バットをぶら下げて歩いて、職務質問されたりしないかしら……。




