第8話「化け物の噂」
翌朝ソフィが目を覚ますと、隣に幸せそうに眠っているマリアの顔があった。
「……聖女さま~おいしいですぅ」
「あはは、何か楽しい夢でも見ているのかな?」
ベタな寝言を漏らしているマリアを、可愛く思いながらソフィは天幕の外に出た。川辺で開けているとはいえ森の中ということもあり、まだ陽が低いため全体に薄暗い。
ぼんやりと揺れる灯りを見つめると、石を積み上げた簡易的な竃に火がくべられお湯が沸かされていた。ソフィはその近くで動く影に声を掛ける。
「先生、おはようございます」
「おはようございます、猊下。お早いですね、まだ眠っていても大丈夫ですよ?」
「いえ、手伝います」
朝食の準備をしていたイサラを手伝おうとするが、彼女は首を横に振って答える。
「こ……こちらは大丈夫です。お茶でも用意しますから、座っていてください」
イサラは布を敷いた岩にソフィを座らせると、鞄からポットやカップなどの道具、そして茶葉の瓶を取り出す。
そしてポットの中に茶葉を入れると、沸かしていた鍋からお湯を注いだ。少し蒸らしてから茶漉しを通して、カップにお茶を注ぐとカップをソフィに渡す。ソフィは微笑みながらそれを受け取って、お礼を言ってから口にした。ふわっとした湯気と共にお茶の良い香りで、目が覚めていくのを感じていた。
「今日はアリストの街にまでいけるかな?」
「はい、何事も無ければ、日暮れまでには辿り着けると思います」
イサラは司祭職についているが、ソフィたちの教育係でもある。勉学やマナーもそうだが、ソフィの使う格闘術も彼女が教えたものだ。若い頃は神官兼冒険者として先代大司教の護衛に付き、各地の巡礼に付いていくこともあったが、数年前に脚を怪我したため一線を退き、故郷に戻ろうと考えていた。しかし先代大司教に請われて、ソフィの教育係を務めることになったのだ。
その為、他の二人に比べて旅慣れており、どちらかといえば世間知らずのソフィやマリアが、この旅を続けていけるのは彼女のおかげである。方向音痴のマリアが何とか先導役をやれるのも、彼女が度々修正しているからだった。
しばらくしてマリアが寝ぼけた顔で起きてくると、イサラは呆れた顔で首を横に振る。
「シスターマリア、遅いですよ。早く顔を洗ってきなさい」
「はーい」
マリアは瞼を擦りながら川に行くと、顔を洗って戻ってきた。
三人は鍋を囲みつつ朝食を取り始めた。朝食もイサラが用意したもので、薄く切ったパンに焼いた干し肉を挟み、それを香辛料で味付けした物と簡単な汁物だった。
「相変わらず、イサラ司祭の料理は美味しいね~」
「次の野営では、貴女の番ですからね?」
「あっ、次は私が……」
ソフィが目を輝かせながら小さく手を上げようとすると、マリアがその手を掴んで首を振る。
「わ、わたしが頑張りますからっ!」
◇◇◆◇◇
川辺の野営地を引き払った三人はもう一度街道に出て、アリストの街へ向かう道を歩いていた。よく晴れた日で空も高く感じる。
しばらく歩いていると、隊商と思われる一団が立ち往生していた。馬車に繋がれた馬が座り込んでおり商人と下男と思われる者たちが、その馬車から他の馬車に荷物を移動している。
「どうしたんだろ?」
「おそらく、馬が潰れてしまったようですね」
ソフィが首を傾げているとイサラが答えてくれた。確かに彼女の言うとおり、座り込んでいる馬は立てない様子だった。ソフィたちは彼らに近付くと、隊商の主と思われる中年の商人に向かって声を掛ける。
「あの……大丈夫ですか?」
「んっ? おぉ、これはシルフィート教の神官様ですかな?」
「はい、何かお困りならお手伝いしましょうか?」
ソフィが再び尋ねると、商人は苦笑いを浮かべて首を横に振る。
「いや、大丈夫でさぁ。どうも馬が骨折しちまったようで、馬車の荷を移してるところです。全部は移せないでしょうが仕方がありませんや」
「骨折ですか?」
ソフィはきょとんとした顔をすると、苦しそうにしている馬に近付き商人に尋ねる。
「折れたのは左の前脚ですか?」
「どうやらそうみたい……って気が立ってますから危ないですぜ」
骨折した脚にソフィが手を差し出すと、荒い息を吐いていた馬は警戒したように嘶く。
「……大丈夫、ちょっとだけ見せてね? 女神シルの息吹」
ソフィが女神シルの息吹を唱えると、眩い光が倒れていた馬全体に広がっていく。馬は大きく嘶くとスクッ立ち上がり、確かめるように地面に蹄を打ち鳴らす。それを見た商人は目が飛び出す勢いで驚いた。
「な……なんだってっ!? まさか治しちまったのかい? もう処分するしかないかと思ってたのに!?」
ソフィは微笑みながら馬の首を撫でる。
「えぇこの子は、まだ頑張れるって言ってますよ」
「おぉ、ありがたい! これは謝礼だ、ぜひ受け取ってくれ」
商人は大いに喜ぶと、懐から出した袋からルスラン金貨を一枚抜き出し、ソフィに手渡そうとする。しかしソフィは慌てて首を振って断った。
「いえ、そんなにいただけません。そんなつもりで治療したわけではありませんし……」
ルスラン金貨一枚は一般的な四人家族でも、一月は遊んで暮らせる額である。
「いや、ぜひ受け取ってくれ。受けた恩は返さなきゃ、ワシの商人としての矜持が揺らぐ、ワシのためと思って受け取ってくだされ!」
商人からすれば馬と荷台、そして破棄しなければいけなかった商品の損失額を考えれば、金貨一枚程度安いものである。それでも治療費にしては高すぎる額に、ソフィは困ったようにイサラに助けを求めた。
「商人殿、私たちは巡礼の旅の最中でこれからアリストに向かうのですが、もしお礼をしたいとおっしゃるなら、街まで私たちも乗せていただけませんか?」
イサラの提案に、商人はニコッと微笑んで大きく頷く。
「もちろんだ、その程度のことお安い御用だ。あぁそうだ、アリストに行くなら滞在中の費用も出させて……」
「いいえ、そちらは結構です。アリストには教会の支部がありますので、そちらに泊まりますので」
どうしても金銭的なお礼がしたかった商人はがっくりと肩を落としたが、しばらくして準備が整った隊商は、聖女巡礼団を乗せてアリストに向かって動き始めるのだった。
◇◇◆◇◇
ソフィたちが乗ったのは、商人が乗っている一番上等な馬車だった。彼の名はトンプという名前で、アリストの街とハンナーの街を行き来している商人らしい。ハンナーは野盗に襲われた村の前に、ソフィたちが滞在していた街だった。ハンナーワインという葡萄酒が特産で、チーズなどが特産のアリストの街とは頻繁に交易を行なっている街だ。
「へぇ、アンタたち帝都から来たのか、また遠いところから来たんですなぁ。ワシもいずれは帝都で商売がしてみたいと思っておりますよ」
問題がない範囲でソフィたちが身の上話をすると、トンプは感心した様子で頷いた。どうやら彼はソフィのことを知らないようだった。どうやら多くの商人と同じく、あまり従順な信徒とは言えないようだった。彼らが教会を頼るのは病気の時か、教会の権力が商売上で必要な時ぐらいである。
「ハンナーからアリストに戻っているということは、荷は葡萄酒ですか?」
「あぁ、ハンナーのは上物だからね。少し飲んでみるかね?」
自分の商品を自慢したいのか、トンプがそう切り出すとマリアは目を輝かせて身を乗り出した。
「えっ、いいんですかっ!?」
「シスターマリア! 少しは懲りなさい。貴女は飲んではダメだと言っているでしょ!」
「うぅ~」
イサラに怒られて、マリアは大人しく後ろに下がった。その様子に苦笑いを浮かべているトンプにソフィが尋ねる。
「アリストの街はどんな街なんですか? 私、行ったことがなくて」
「そうですな……アリストは畜産業が盛んな街です。また交通の要所であるため、いろんな物が集まりますな」
マリアは再び身を乗り出すと、目を輝かせながら尋ねる。
「美味しいものはありますかっ!?」
「はははは、新鮮な魚介を除けば肉も野菜も、美味しいものばかりですな」
「おぉぉ~」
期待に想像を膨らませているマリアに、ソフィはクスッと笑う。
「何か変わったことは?」
「変わったこと……う~む、あぁそう言えばハンナーに向かう前に、牧場の辺りで化け物が出たと騒いでましたな。結構経っているので、もう退治してる頃かと思いますがね」
いきなり物騒な単語が出たため、ソフィは首を傾げて尋ね直す。
「化け物ですか?」
「えぇ、なんでも山のような大きさの化け物で、牛を一頭攫って逃げたそうです」
「山のような大きさですか? この辺りに、そんな怪物はいなかったと思うのですが……」
イサラは自身の経験と照らし合わせて答えると、ソフィはどんな怪物なのだろうと想像を膨らませるのだった。




