第58話「聖女の噂」
ソフィたちはカサンドラの勧めで、そのままシリウス大聖堂に滞在することになった。帝都で貴族と関わるようになり、腐敗が進んでしまっていたアルカディア大聖堂とは違い、この聖堂には女神シルを信奉する敬虔な信徒が多いようだ。
一般的な神官は起床後に祈りを捧げたあと、朝食を取ると聖堂を維持するための雑務をこなし、昼食後に再び祈りを捧げ、割り当てられている仕事に就く。そして夕食後に再び祈りを捧げる。そんな規則正しい生活を続けているせいか、女神の化身とまで呼ばれる大司教の滞在は、彼らに大いに刺激になったようだった。
神官たちは事あるごとにソフィに会いに来ては、自身の信仰について話していくようになった。これは純粋な信仰心によるもので、敬虔な信徒において信仰について語ることは挨拶みたいなものである。ソフィも一人一人には、それほど時間は取れなかったが熱心に聞いていた。
さらにソフィが滞在しているという噂はあっという間に広まり、彼女を一目見ようとフォレストの街や、その近郊から大量の信者がシリウス大聖堂に押し掛けていた。
その期待に応えるため、現在も聖堂にて神官や信者たちを集めてのソフィによる説法が行われている。いつもの旅用の服ではなく、カサンドラから借りた白い司祭服に、カサンドラのように美しい金の髪を後で網上げていた。
「この北の地では近年まで大きな戦があり、多くの者たちが命を落としたと聞いております。この中には、その戦で愛する者を失った者もいるでしょう……」
ソフィの言葉を聞いて失った者のことを思い出し涙ぐむものや、ひたすら祈りを捧げるものなど反応も様々だが、殆どの者はソフィの言葉に聴衆は静かに耳を傾けている。
このように神の代理人として信者たちに言葉を伝えるのも、ソフィたちの本来の役目の一つなのだ。しかし、これまでは平民が直接大司教の言葉を聞ける機会は少なかった。これは帝都のアルカディア大聖堂の方針で一般市民にまで大司教が対応すれば、その権威が下がるという考えからだった。
つまり特別に選ばれた人物だけ、大司教の言葉を聞けるという付加価値を付けたのだ。これにより帝都近郊の貴族たちは、こぞって教会に寄付をし始めた。
先代大司教もこれには納得していなかったが、多くの者たちを救うためには、教会に資金が必要なのことも確かだったため黙認していた。しかし、ソフィはそのことを黙認せず誰にでも分け隔てなく接したため、教会上層部との対立を招き追放の一因になったと言える。
ソフィによる説法が終わり、彼女が壇上から降りると聴衆の一部がソフィに押し寄せてきた。彼女の護衛に付いていた聖騎士たちが、そんな聴衆とソフィの間に入って押し留める。
「猊下! お願いです。母の……母の脚を見てやってください」
「うちの子の眼もお願いします!」
どうやら彼らはソフィの治癒能力の噂を聞いて、わざわざこの聖堂まで出向いたのだ。周りを見渡すと、同じような人々がたくさんいるようだった。
「他の治癒術士を用意しますので、お下がりください」
聖騎士たちは彼らをソフィから遠ざけようとしたが、ソフィは聖騎士の肩に軽く触れて止めると、押し寄せてきている信者たちに伝える。
「その女性と、そちらの子はこの場で……残りの方は、あとで部屋を用意しますので、呼ばれた順でお願いします。必ず診ますのでご安心ください。貴女たち、部屋の用意と順番の整理をお願いします」
「は……はいっ!」
ソフィの後に控えていたシスターたちは、順番を決めるため慌てた様子で患者たちの容態を聞きはじめた。ソフィはまず脚を患って息子におぶられている老婆に近付く。そして彼女の足から腰に掛けて撫でるように確かめる。
「左脚と腰ですね? 痛めたのはいつ頃ですか?」
「二週間ほど前ですじゃ、猊下」
「そうですか……完全に痛みは消えないと思いますが、多少は良くなるはずです」
ソフィはそう答えると、彼女の腰から脚に掛けて女神シルの息吹を使った。暖かな緑色の光がソフィの掌を包み、老婆の痛みを和らげていく。
光が治まると老婆は目を見開いて、息子から跳び降りると自分の足でその場に立った。
「か……母さん、大丈夫なのかい?」
「おぉぉ、ほとんど痛くないぞ。猊下、ありがとうございますのじゃ」
その老母の様子に観衆は驚きの声を上げた。
「おぉぉぉ、白き聖女の話は本当だったんだっ!」
「女神様だっ!」
続いて母親に連れられた子供を診ることになった。五歳ぐらいの男の子で、両目を隠すように包帯をしている。ソフィは母親に確認するように尋ねた。
「完全に見えてないのですか?」
「いいえ、猊下。光に弱く、日中は目を隠しておかなくてならないのです。どうかお願いします! ヨアを助けてくださいっ」
ソフィは頷くとヨアの頭の上に手を置く。そして優しげに囁くように言う。
「ヨア君、少し暖かくなるけど怖くないからね」
「う……うんっ」
「女神シル様の大いなる慈悲を……女神シルの息吹」
ソフィの掌が一瞬輝くと、すぐにヨアの頭から手を離した。そして彼の母親の方を向いて、終わった旨を伝えるために小さく頷いた。
その処置があまりに短かったため、母親は半信半疑といった様子でヨアの包帯を解いていく。包帯が解かれたヨアの肩に手を置くと、ソフィは彼に目を開けるように伝えた。
恐る恐る目を開くヨアの瞳には、優しげに微笑むソフィの笑顔が映し出される。その瞬間ヨアは目を見開き、後ろを振り向くと母親に抱きついた。
「母さん、見える! 僕の目、明るくても見えるよ!」
「あぁぁぁぁ、ヨア、ヨア! あ、ありがとうございます、猊下っ!」
周りの観衆からは「奇跡だ!」という声が上がり、ソフィを讃える言葉が礼拝堂に響き渡った。そんな観衆を見つめながら、礼拝堂の隅にいたカサンドラは隣にいるイサラに尋ねる。
「こんなことを、帝都でも?」
「はい、猊下は身分に関わらず助けが必要な方に、お力を使うことを厭いませんので」
「そんなところはお姉様にそっくりね。でも、このすぐに人を虜にしてしまう人望と能力……ノイスのハゲや皇帝が、あの子を厭わしく思うのも無理はないわね」
皇帝から見れば、自分に取って代わるかもしれない人格者、ノイスからすれば自分の得るはずだった身分への渇望、そんな自己保身や欲望によって、自分の愛する姪が放浪の旅に送り出されたことが、カサンドラにとって堪らなく許せなかった。
そんな話をしていると、ソフィたちは他の者の治療を行うために、別室に移動を開始していた。しかし、大いに盛り上がった信者たちは歓声を上げており、整理を担当していたシスターたちは悪戦苦闘することになった。
◇◇◆◇◇
そんな出来事があって以降「奇跡を起こせる白き聖女」の話は、瞬く間に北部全域に広がっていった。もっともソフィと言えど全てを治せるわけではない。それでも完治とは言わなくとも、通常では考えられないほど強力な治癒術は、苦しんでいた民衆の心に希望の光を灯すには十分だった。
そして傷を負った者、病を患っている者、一目聖女を見ようとする者などが、次々とシリウス大聖堂に集まってきていた。
そんな集まってきた信者たちに、ソフィは身分に関係なく治癒術を施していったが、治療を待つ長蛇の列は日に日に増えていく一方だった。手の空いた神官やシスターたちは、彼らの整理や滞在のための部屋の用意などで軽く混乱状態になっている。
ソフィの護衛には聖騎士たちがついていることもあり、イサラとマリアは度々別行動を取っていた。イサラはシリウス大聖堂の蔵書で何かを調べているし、マリアはここの修道長に捕まり、シスターの仕事をさせられている。
レオは様々な場所で勝手気ままに昼寝をしているが、時々信者の子供に見つかると追い掛け回されていた。
「猊下、そろそろ休憩しませんと……食事も取っておりませんし」
ソフィの手伝いをしていた老司祭のオリズンは、やや疲れた表情で声をかけてきた。今は昼時をだいぶ過ぎており、ソフィは朝から患者に治癒術を掛けていた。通常であれば倒れているペースである。
「そうですね。皆さんも疲れているでしょうから、少し休憩しましょうか」
手伝いをしていた神官たちは安堵のため息をついた。さすがに疲れてきていたが大司教が働き続けているのに、自分たちが休む訳にはいかなかったのだ。
患者たちにも少し休む旨が伝えられた。一番先頭にいた患者は少し残念そうな顔をしたが、その場に座り休憩が終わるのを待つつもりのようだ。
ソフィたちが休憩を取るために奥へ下がろうとしたときに、部屋に神官の一人が駆け込んできた。
「猊下、大変ですっ! 大階段を転げ落ちた者が頭を打って重傷です!」
大階段というのは、麓からシリウス大聖堂に伸びている長い階段のことである。神官が言うには、そこで一人男性が転んで重傷とのことだった。ソフィを呼びにきたということは、よほどの重傷である。
「わかりました。すぐに向かいますっ!」
報告を受けたソフィたちは、すぐに現場に向かって駆けだした。




