真夏の愛国者
今にも吐き出されそうな湿気だった。
とてつもない湿気に汗ばんだ。太陽光と砂を吸い込んで肌に絡み付いて来た。汗が引いたら腕が黄色くなる想像をしたが、汗は引かなかった。暑い。
「こりゃ、一雨来るな」
亘爺が独り言を言った。いや、僕に話し掛けたのだろうか。どっちかは分からなかったし、どっちでも良かった。いずれにしても僕は口を開くつもりだったからだ。
「それは助かる。シャワーを浴びたい気分だったんだ」
「今じゃない」
「へえ、何時頃?」
「夕方」
無意識に時計を見た。まだ昼の三時だった。僕達二人は、歩道に面した縁側に腰掛けている。強い日差しが僕の肌を焼き続けて止まない。
亘爺の横顔は涼しげだ。あの麦わら帽子はそんなにも効果があるのだろうか?
「亘爺」
「その呼び方はやめてくれ」
祖母が亡くなってから、亘爺は気まぐれにそう言っていた。呼び方を変えろという要求ほど実効性に乏しいものはない。こっちは言葉を覚えて僅かもしない内からそう呼んで来たのだから、多分。
「じゃあなんて呼べば良いの?」
「武内…武内さんだな」
「やっぱおかしいでしょ、それ」
「武内さんが良いな」
祖父の名は守本亘で、結婚前の苗字が武内だったそうだ。
愛していなかったんだな…。
このやり取りをする度、僕は切なくなった。亘爺が祖母を愛していなかったなら、僕の父は望まれた子ではなかったのだろう。僕の父が望まれた子でないなら、その子である僕もまた、望まれた子ではなかったというロジックが成り立つ。僕は望まれた子ではなかった。生まれて来なければ良かった。それは僕自身でも時々考える事ではあった。このまま大した仕事にも就かず、これと言った趣味もなく、ただ飯と金を消費するだけの人間に、一体どんな価値があるだろう。
「で何だい」
亘爺が少し不満そうに聞いた。僕の思考は寒々とした所から、茹だる夏に引き戻された。冷たい想像であったのに、汗はしっかりかいていた。いっそ戻って来なければ幸せだったのかも知れない。
「その麦わら帽子さ」
「やらんぞ」
「いや、くれとは言わないけど」
「貸さんぞ」
「そう」
無理にとは言わない。暑いのは祖父だって同じだ。欧州では、この夏も老人が熱波で死んでいる。それもたくさん。きっとあの麦わら帽子を取り上げたら、祖父はたちまちびっしょり汗をかき、最悪の場合死に至る。それくらいあの麦わら帽子は優れ物なはずだ。なぜなら今は二十一世紀。
テレビのニュースが地球温暖化関連のニュースを告げる度、コメンテーターは地球を心配し、コマーシャルでは地球を気遣った。だが僕達の中で、そういった建前に騙されている者は誰も居ない。
要は、我が身だろ
気温が五度上がっただとか、オゾン層が四割減っただとか、地球からしてみれば大した変化ではなくて、つまりそれは、人間が生き辛くなるというだけ。生き延びる動物が少し変わって、勢力の分布が変わって、流行る病と流行らない病が入れ変わって、もしかしたら冬が無くなる。なんだかんだで人間は生き残りそうだし、なんだかんだで人口も増え続けるだろう。それに結構楽しく生きている。
「亘爺」
亘爺は僕を見た。口元をニヤつかせている。
「頑固だな」
「呼び方を変える気は全く無いからね」
「で、なんだ?やらんぞ」
「もう中に入らない?暑くて」
「俺の若い頃はそんな軟弱じゃなかった」
「へえ、亘爺の若い頃って、何度だったの?平均気温」
「今より五度低い」
「それって百年くらい前でしょ」
「じゃあ丁度それくらいだ」
「嘘ばっかり」
僕は内心、そんな冗談に付き合っている余裕はなかった。このまま外に居ては、死に至るのは間違いなく僕だった。
「あれを見てみろ」
亘爺が歩道を指差した。帽子や日傘で完全武装した人間がパラパラと見える。僕も帽子を被って来るべきだった。
「あの女の人?」
何となく目に留まったのは、背の高い色白な女性だった。ハイヒールで更に背を高く、日傘でより肌を白くしようと努力していた。遠目に、美人だと分かった。
「違う、その先だ」
「その先?」
僕は鳥肌が立った。亘爺は何も無い空間を指差していたのだ。この暑さで幻覚でも見ているのだろうか。亘爺が?それとも僕が?
「蝿だ、蝿」
「え、蝿?」
良く見れば、たしかに蝿が居た。でも、それが何だと言うのか。
「動きが鈍い。さっきから何度も踏まれそうになってる。身重か、手負いか、でなきゃ寿命だな」
「うーん、それが?」
そんな蝿が珍しいとは思えなかった。
「あんな虫けらでも、一生懸命生きてる。一生懸命生きて、そしてあそこにいる」
耳が痛かった。多分タコでも出来ているのだろう。
「だからさ、僕はあの蝿よりも虫けらな訳だよ」
僕は怒っていなかったし、荒い口調で言ったつもりもなかった。つまりはいつもの、亘爺が言うところの無気力な態度で言葉を返した。亘爺も、いつもの事なのでニヤつくばかりだ。
「今のところは、そうなるだろうな」
何となく視線を逸らしたくて蝿を見た。まだ動いている。懸命に安全地帯を探している様にも見えた。そういう意味では、僕と大して変わらないじゃないか。
先程の女性が、蝿に大分接近していた。危ないんじゃないかなと思った瞬間、蝿は踏まれた。高いヒールの、その針のように細い踵で。その踵が次の一歩を踏んだ時、地面に血痕が残った。
「・・・そろそろ、入るか」
「それが良い」
僕達は何となく気まずくなり、腰を上げた。
あの蝿は、あの場所で死ぬ事をある程度覚悟していたかも知れない。しかし、まさかあんなに細い物に丁度踏まれるとは、きっと予想外だったと思う。そのあまりにも高い圧力によって、身重であったとしても蛆ごと潰された様だった。恐らくそれも予想外であったろう。
一方、女性としても、そこに蝿が居て、まさかその蝿を自慢の高いヒールで潰す事になるとは思っていなかっただろう。もちろん人間が歩けば、そこに居る微生物を数知れず潰す事になる。とは言え、目に見えていなかったという点では、あの蝿も微生物も同列かも知れない。
「あの蝿は幸せだったと思うよ」
僕は亘爺を励ます様に言ったが、それは本心だった。僕達二人が注目し、亘爺が僕に例えた事で、人知れず、それこそ踏んだ本人にすら気付かれずに死ぬはずだった蝿が、少しは報われる気がした。
「お前よりもな」
「言えてる」
これも本心だった。あれだけボロボロになれるのは幸せなのだ。僕の様な人間は、ボロボロになる事すら許されない。
「がむしゃらになれ。必死になれ」
僕は答えなかった。それが出来る人間は幸せなのだ。例えば僕が、物凄い借金をしていたとして、借金取りに日夜追い回されたり、ボコボコに殴られたり、借金を返そうと働いたり、過酷労働の旅に行かされたり、それはそれで生を実感出来る気がするのだ。つまりは現在の僕に比べれば、生きているのだ。とは言え、生の実感のためだけに殴られたりするのはかなり嫌だ。
僕達は地下へ続く階段を下りた。数年前から、家の真下に居住空間を作る事がこの国では流行っている。我が家もその例に漏れず、家を建てた時と同程度か、それ以上の金額を使って地下室を作った。我が家は海岸に近いため母親は反対したが、地下室のお陰で夏は快適に過ごせている。
「お帰り。外はどうだった?」
母は当初反対したものの、出来てしまえば真っ先にこの地下室を使いこなした。「津波が来たらどっち道よ」と言うのが最近の口癖だ。それもそうだと思ったし、だったらなぜ反対したのかとも思った。それに一説によると、防水さえしっかりしていれば、地下の方が津波に強いとも言われている。
「ああ、暑かったよ」
亘爺はそう答え、僕の顔を見た。汗だくの僕を母も見て、苦笑いをした。
「みたいね。シャワー浴びたら?」
「そうする。あ、雨が降るって亘爺が」
「天気予報でも言っていたわ。強く降るって」
「心配?」
「え?何が?」
母は自分が地下室建設に反対していたことなど忘れているか、初めから反対などしなかったと思っているのかもしれない。過去に無頓着な人間なのだ。それは知っていた。特に自分の行動に。そういった人間は昨日の就寝直前まで僕を嫌っていても、朝には笑顔で朝食を作られるし、仕事で嫌なことがあっても元気に出勤していくのだ。付き合い易いが、自分には無理だといつも思う。僕はいつまでも根に持つタイプだ。特に食べ物の恨みは。
「浸水とか」
「ああ、でもしたことないでしょ」
「したことないね」
僕は着替えを持って来て、シャワーを浴びた。少しぬる目のお湯で汗を流す。
幸せだなあ。
僕は十分幸せだった。汗をかいてシャワーを浴びる。お腹が空いてご飯を食べる。見たいテレビを見て、寝たいだけ寝る。それに向こうがどう思っているかは別として、僕は家族も好きだ。上手くやっている。地球が暖かいだとか、海面が上昇するだとか、隣の国で革命が起きているだとか、世の中ではいろいろあるみたいだし、それなりに大変らしい。でも、僕は幸せなのだ。亘爺に「必死になれ」と言われても、必死になる理由も、今以上の幸せも、見つけられそうになかった。
シャワーから出て服を着る。地下だから少しは良いが、湿気はやはり酷い。居間に行くと、亘爺と母がテレビを見ていた。何やら真剣な顔で見ている。
「第二段階だって」
「何の話?」
「革命」
「第二段階って何?」
「さあ。鎮圧出来て無い事は確かね」
僕はあまり興味がなかった。不幸せな人間が幸せを求めるのは当然の事で、何かにつけて不幸だと思い込んでは幸福を求める。常に満たされている状態は、実は不幸なのだ。だから世の中が慌しいのは、逆に言えば幸福な状態に思えた。慌しさの無い僕の生活は確かに不幸なのだけれど、日々のちょっとした不快を解消する事によってなけなしの幸福を得て何とか生きている。少なくとも、死にたいと思う程不幸でも無ければ、生きたいと思う程幸福でも無い。
ゾンビだな。
僕は時々そう自虐した。生ける屍。僕にピッタリだった。
昼寝しようと寝室に行きかけた時、母が呟いた。
「これ・・・ちょっとまずいんじゃない?」
僕はテレビを見た。映像には天を衝く幾つもの白煙が映し出され、その内の幾つかはこの国に向けて発射された物である事、直ちに迎撃するらしい事と、国民は一人残らず避難するようにという旨がテロップとアナウンサーの声で伝えられていた。僕は胸騒ぎにも似た、血がたぎる感覚を覚えた。僕にもこんな感覚が、感情が有ったのかと思った。
僕は、ワクワクしていた。
これは死だ。たくさんの死が、たくさんの不幸が来る。不幸は幸福をより甘美に、より濃密にする。僕は幸せになりたいと思った。もっと不幸になれば、あるいはもっとたくさんの不幸を目の当たりにすれば、幸せになれるような気がした。それはゾンビからの脱却である。
僕は駆け出していた。近くの海岸から見えるかも知れない。不幸を満載したあの物体が落ちるその場面を。もし、あの無数の白煙の柱が見えたら、僕は生きられるような気がした。
亘爺は夕方と言っていた雨が、今にも降り出しそうな湿気だった。飽和し切っていた。そのせいも有って、海岸に着いた僕はまたも汗だくだった。シャワーを浴びた意味が全く無いが、もう一度浴びるのも悪くは無い。今なら酸性雨も気にならない。
あの不幸がどういった軌道で飛ぶのか想像も出来なかった。一度大気圏外に飛び出してから降って来ると聞いた事が有った。もしそうだとすれば、ほぼ真上を見ていれば良いのだろう。そう考えて首を上げた時、少し角度の浅くなった太陽よりも真上に、太陽とは別の閃光を感じた。一つ、二つ。どうやらこの国の迎撃が成功している様だ。三つ、四つ。
僕は言い知れぬ幸福感を得ていた。この国に落ちるはずだった不幸を、水際で防いだのだ。到来するはずだった幾つもの不幸が解消されたことで、僕は幸福になっていた。
かなり遅れて爆音が聞こえた。僕は訳も分からず叫んでいた。光と轟音。雷の様だった。もうすぐ降るであろう雨を告げる稲光に、僕は叫び続けていた。
痛い。そう思う暇も無かった。
僕は死んだ。不幸はちゃんと降って来たのだ。その不幸の破片が、僕だけを直撃し、僕の周囲に不幸を振り撒いた。
僕は死んだ。結局僕自身は、不幸も幸福も本当の意味では良く分からないままに死んだ。僕はあのピンヒールの踵に潰された蝿みたいなものだ。まさか自分が潰されるとは思わなかった。不幸も知らずに死んだ分、誰にも見取られずに死んだ分、あの蝿の方がマシだったのかも知れない。それは亘爺も認めていた事だ。
あるいは僕は、大きな不幸を知らずに死ねた事を喜ぶべきなのかも知れない。
一応は幸福感を味わっている最中に意識が途絶えたのは運が良かった。
沸騰した海辺の街は、夏の稲妻と共にやって来た雨で、少しは涼しくなるだろう。




