第二十六話「天明三年七月八日」
大淀は、聞かざるを得ない。
「どうしてです」
御留山です、というのが凛の答えだった。
御留山、というのは、幕府や諸藩によって立ち入りが禁止された山のことで、日本各地にある。
多くは森林保護のためで、在地の有力者が密伐や密猟から山を守っている。
星崎の場合、橘家がそれをしている。
「それに、今あの辺には人は住んでいません」
と、付け加えた。
日本に、言葉のけがれというものがある。
忌まわしいものの名を直接口にするのを避け、あれ、これ、のような指事代名詞を使う。
無意識の働きのひとつである。凛は、あの辺、とか、あそこ、というのを多用した。
「行ってもしょうがないですよ」
ということの理由を、凛はさらに二、三個も挙げた。
大淀は、元刑事である。
「今は住んでない、と言いましたか」
「あっ……」
「じゃ、昔は村があったわけですね。人も住んでいた?」
こう畳みかけてこられると、凛もただの年相応の子どもになってしまわざるを得ない。
「わたしも詳しくは知らないんだけど」
と前置いてから、凛は話し始めた。何十年か前、その村は一夜で全滅した。
当時、崎村と呼ばれていた。
焼畑農耕と狩猟、林業を営む山民の村だったらしい。
「星が落ちてきたんだって、空から」
「星……? 隕石ですか」
「うん、多分ね」
凛が生まれるずっと前のことだから、凛自身も人から聞いたことであり、よくは知らない。
凛は水をぐっと飲み干し、立ち上がった。
「行ってみますか? 大淀さん」
そのときには、もとの表情豊かな少女の顔にもどっている。
「いいんですか、凛? 行っても」
「だめに決まっているでしょう。でも、結界の手前までなら行けるかもしれない。どんな風になってるか、見るだけですよ。やつらがいたら、ぶっ飛ばそう。どうします?」
大淀、しばし無言。
やがて、顔を上げ、うなずいた。
「行きましょう」
「じゃ、出発!」
凛は、さっと店を出た。お勘定、払っといてーっという声が外から聞こえた。
「あのー、領収書ください」
大淀はもはや、慣れたものだ。
以下は、大淀があとで調べて知ったことだが――。
ひとつの村落が丸ごと消滅するという惨事がこの地に起きたのは、八十年前のことであったらしい。
天明三年七月八日。
低地に沿って渓流が流れ込む、吾妻山と浄土山の二つの山のあいだで、深夜、大爆発が起きた。
「太陽が山に落ち、爆発したような」
大音響と青白い光がほとばしり、燃え盛る炎で昼間のように明るくなったという。
山火事が手のつけられないぐらい広がり、三日以内に周辺五カ村が全焼した。
崎村の住民すべてと、消火活動中に落命した者をあわせて、二百人以上が死亡した。この数は当時の橘ノ庄全体の四分の一にあたる。
山火事がおさまると、土地の者が三々五々、崎村の様子を見に行ったが、日暮れになっても帰らず、そのまま行き方知れずになる者が続出した。
あまりにも大きな災害が起きたため、風景が一変し、道がわからなくなり、帰れなくなったのだろうという当時の役人の推測が
「只簑郡史」
にある。
そうやって行方不明になった者が二十六人にものぼった。代官所は崎村へ通ずる道に人数を配置し、通行を禁止した。
七月二十五日、幕府軍、会津藩兵、長岡藩兵を主力とした部隊が只簑郡に来着し、救援の指揮をとった。星崎、という地名が史料に出るのはこのときからである。
「崎に赤い星をみた」
という記録がある。
幕府軍が道案内に雇った土地の者の言葉で、生業は猟師であった。
視力が異常に発達した男で、十里離れた山の上から村を望んで、それをみたという。大きな城のようなものがある。
「ねず色で、形は道具箱のようで四角く、長細い。建屋の天辺に、赤い星の形をした看板があり、よく読めないが、文字らしいものがその周囲にある。開けたところに、変わった形の立像がひとつ建っており、右腕を水平にのばした姿をしている」
と報告したらしい。
「そういうばかなことはない」
幕府軍はこれを持て余し
――あの男、アホとちゃうか?
ということで、一笑に付しておわった。この記録も、陣中の笑い話として残っているのである。
幕府軍は七月末から九月初旬まで、一ヶ月ほど只簑に駐屯した。
軍は、「星崎」に部隊を四度派遣したが、いずれも戻らなかったため、最後には道路を封鎖、立ち去った。
以来八十年、立ち入り禁止が続いている。
大淀と凛は、そういうところに向かっている。
とはいえ、二人とも現在の時点では、そういう詳しいことは知る由もない。
大淀は今さっき話を聞いたばかりだし、凛は、鞍馬天狗の親戚の怪物が引っ越してきて家族を作って住んでいると思っている。
峠をまわり込み、廃道が御留山まで続いている。
凛も、行ったことはない。
出発、と最初は意気込んだものの、里を離れてだんだん山に入っていくにつれて
「銃がない」
といって、ひどく不安がった。
こういうあたりは、凛は田舎の少女である。迷信を信じている。
「はあ、ほんと、ありえない。だからカラシニコフを持ってくればよかったんです。あああああ、ばかな保安官が置いてこいといったせいでわたしは死ぬんだ。人食い天狗が出てきたらどうしますか」
「うるさいなあ、知りませんよ、そんなの」
大淀は、この時代に少しずつ芽生え始めてきた近代合理主義の産湯に浸かり、江戸で育ったインテリゲンチャである。非科学的なことは信じない。田舎の因習とか伝説とか、そういうものを頭からばかにしている。
「石でも投げればいいじゃないですか。さっと身をかわして……」
「そんなのだめです、相手は天狗なんですよ! 天狗を甘くみない方がいい。天狗はこわいんですからね」
そういって凛は、地元の伝承にある天狗の説話を何個も何個も並べた。
すごくこわいらしい。
「そんなに強い天狗なら、カラシニコフなんかも無意味じゃないですか?」
「そういうことを言ってません! 首を引きちぎられたあとじゃ手遅れなんですからね。天狗は人間をミンチにして、ハンバーグにして食べちゃうんです。あっそうだ、アニメの録画を忘れてた。帰らないとだ。すぐ帰らないと」
「凛、テレビは映らなくなったでしょ。まったく意外ですね、天狗より凛のほうがずっとこわいじゃないですか。そんな居もしない怪物がこわいだなんて、どうかしてますよ」
「こ、こわくなんてないですし!」
凛、強がっている。大淀はめんどくさくなった。
「ただちょっと、おそろしいというか、出てきたらこまるっていうか、どうしようって思うだけです」
「はい、わかりました。ところで、凛、グライダーで降下した武装集団のことですが」
こういうのは、話を長引かせると余計よくない。大淀は話題を変えた。凛は、武装集団はこわくない。




