第二十四話「大淀と凛」
朝から、なんだか変な日だった。
大淀がこの里にきて、一週間が経ったある日。
――やれやれ、わたしはまだこの里にいるのか。
目が覚めて、ぼんやり外を眺めた。
空は晴れている。
山々の緑が目に眩しいほど光っており、今日も暑くなりそうである。
「ほあんかーん、ちょっと来てえ」
手桶にとった水で顔を洗っていると、屋敷の奥のほうから少女の声がした。凛である。
大淀はこの数日、橘家の屋敷に寝起きしている。言うまでもなく、保安官事務所が燃えてしまったためだ。
橘家のサの字門のところに、家の表札と並んで「橘ノ庄保安官事務所(仮)」という真新しい看板が掛けてあるのは、そういう事情である。
「ね――、保安官さん!」
丹念に顔を拭いていると、凛がまた呼んだ。まったくうるさい。凛は、自分を橘家の新しい従者かなにかと思っているような気がする。重く嘆息しながら、大淀は廊下を渡っていった。
数日のあいだに、事件がいくつも重なった。
そのため大淀は、連日多忙だった。疲労はたまるし、身動きは緩慢になる。
まず初日に一揆騒ぎがあり、その後もパチンコ強盗、ガソリンスタンドの火事など、江戸ではめったに起きないような重犯罪が毎日おきた。
――ガソリンスタンドは、火付けだな。
歩きつつ、大淀は考えている。
三日間、捜査をしたが、犯人は不明。
強盗をやったのは凛だったので、放火もそうだと思ったのだが、どうも違ったらしい。
(どうしようもない)
と、思う。
大きな警察組織がない地方の幕府領では、数日以内に犯人が捕まらないと、ほぼお手上げの状態になる。
下手人はその間に他領へ逃げてしまうし、そうすると、もう幕府の警察権は及ばない。明治以後の全国的な「警察」とは、そのあたりがちがう。
凛は、居間にいた。
「なんですか、凛。人を犬みたいに呼びつけるんじゃありません」
「でも、幕府の犬じゃないですか」
とは、凛は言わなかったが、大淀をみる顔にそういう表情が出た。大淀はため息をつき、
「で、どうしたんです。いったい」
凛は、テレビが映らなくなった、と訴えた。
「ね、ほら。こんな風になっちゃうんですよ」
凛はリモコンを操作し、チャンネルを回してみせた。
なるほど、どの局も映りがおかしい。緑、黄色、赤といったさまざまな色が、原色に近い濃度で、幕のようになり、画面全体を覆いつつ動いている。
「なんでしょうね。全部の局がだめなんですか?」
大淀は凛からリモコンを受け取り、さらにチャンネルを回してみた。衛星放送で映る局は全滅らしい。
大淀はリモコンの「1」のボタンを押してみた。
馬に乗った徳川家康の銅像と、赤い行書体の文字が映った。
「前進から、前進へ!」
太鼓と金管楽器の大袈裟な軍楽が鳴った。
「十九日! 偉大なる将軍様は、新たに完成した横浜のアイスクリーム工場を親しく現地指導され給い、おかし増産にはげむ労働者戦士に対し、やさしくお声がけをされました! 我が国を、おかしの国にしよう! 偉大なる将軍様は――」
「なんだ、映るじゃないですか」
大淀は画面を指し、凛をみた。地上波しか映らないなんて、と凛は不満げだった。
「幕府チャンネルしか見れないんですよ? ホントありえない」
「いいじゃないですか、それを見ていれば。だいたいケーブルテレビなんて害です。不道徳だし、教育によくない。凛みたいな子が大勢育ったらどうするんです? 日本は終わりですよ」
「はあ? 超むかつく」
凛はテレビを消した。将軍様のことを聞いててもしょうがない。
「アンテナかなんかの問題なのかなあ。保安官、見てきてくださいよ」
「だめです、いまから出かけるんですから」
大淀は衣紋掛けから紋付を取り、ばさっと翻して羽織った。胸に保安官バッジをつけ、十手を帯に差す。
「あなたも来てください」
「え、わたし?」
凛は太い眉を上に動かした。意外そうな顔。
「いいけど、どこ行くの」
「ちょっと見回りにね。トラックが盗まれたって通報があって」
「ああ、ノブさんのやつか」
凛は情報が早い。里で起きたことはたいてい先に知っている。それに大淀は、里のなかの地理をまだよく知らない。
「凛、その銃は置いてきなさい」
「えー、つまんない。むかつくなあ」
凛はカラシニコフを玄関の傘立てにもどして、家を出た。この家には何挺の銃があるんだろう。大淀はパトカーのエンジンをかけながら考えた。
――里にある鉄砲の数、調べないと。
保安官事務所が炎上し、そういう書類も灰になってしまったのだ。
大淀と凛。
盗難車を探し、村のなかを回っている。
「見つかんのかなあ」
コンビニで買ったアイスキャンデーをくわえながら、凛がいった。
パトカーの窓を開け、肘をドアの上に置いている。
「どう思います? 保安官さん」
「凛。見つかる、見つからないは重要ではありませんよ」
そういうことを訊くと、大淀はしゃべる教科書みたいな感じになる。
「わたしたちは公儀に仕えるものとして、良民の安全と財産を守り、社会に奉仕する使命をまっとうしていくんです。そもそも公共とは……」
「ねむーい、かえりたーい、保安官、そろそろ帰りましょう」
「聞いとらんかいワレッ、大体まだアイス買っただけじゃないですか」
「えーっ、だってぜったい見つかりっこないですもん。車泥棒ですよ? 車は走るものなんですよ。そもそも、車とは……」
「わたしの真似しないでください。分かってますって、今ごろ越後か若松あたりに運ばれて、どっかのガレージでばらばらにされてると言いたいのでしょう?」
その場合、大淀には何も打つ手がない。捜査権は、長岡藩、会津藩に移る。引き継いでいるうちに、賊はさらに他領へ飛んでしまう。
「でも、わたしはこの里の保安官です。だから、里でできることをやるまでです」
凛は、ステアリングを握る大淀の顔を横目でみた。起伏の多い砂利道。大淀は無言でパトカーを走らせている。
「ふうん……」
少女は目線を正面にもどした。棒についたアイスをさっと舐めとり、シートに深くもたれる。
「そこの木立を左へ行って。道路がある」
「ん、ここ? 見えないけど」
「いーから、道案内の凛ちゃんを信じなさい」
「分かりましたよ」
大淀は減速し、シフトチェンジ。タイヤが砂を踏む、みしみしという音がして、ゆっくり左へ折れた。しばらく進むと、たしかに道路がある。林道のようだった。
「ねっ」
「ははあ、こういう道になってるわけですか」
「まー、いろんな道があるからね。田んぼ道、木こりの道、石工の道、狩りの道と」
このあたりの山里は、多様な生業を持つ者たちの国である。日常がそれぞれに違えば、通う道も違うのだった。自然のなかに自分で道を通すこともある。あらゆる階層の情報が、橘家に集まる。
「地図ある? 線引いてあげよっか」
「ん……感謝します。グローブボックスのなかです」
「あはは、そういうときはありがとうって言うんですよ。感謝します……ぎゃははは」
「だから、真似しないでってば!」
大淀がいったとき、車輪が地面の凹凸を乗り越えて、パトカーがドスンと揺れた。




