第一話「文久二年」
徳川体制末期、人命が軽視された時代の物語――。
本文中、一部に過激な表現・セリフが存在しますが、
特定の国家・民族・思想・信条・宗教などを貶めたり
犯罪行為の助長・奨励をするものではありません。
最初に、江戸についての話をしたい。
時期は、文久二年。
幕府政治の最末期にあたり、この六年後、明治維新といういわば革命が発生し、国土を縦断する内戦の末、ついに新時代となる。……という感じに、最初くらいはキメておきたい。
で、江戸――。
文久二年というこの年、世間の話題は薩摩藩であった。
薩摩一色と言っていい。
「薩摩は物凄い」
上は江戸城幕閣から下は百姓町民まで、薩摩をめぐる世論は沸いた。この年の春、西南最大の雄藩・薩摩藩七十七万石は、その最高指導者である島津久光自らの指揮のもと、三千の軍隊をもって鹿児島を出発、途中京都において天子の勅許を得、さらに東進し、ついに江戸に入った。
みな、仰天した。
(なにをしにきたのか)
丸に十字の薩摩軍旗を掲げ、完全武装の精強な薩摩兵を乗せたハーフトラックや装甲兵員輸送車がどんどん城下に入ってくるのを、多くの市民が不安げに見守った。薩摩藩の空母は、二個飛行中隊からなる戦闘攻撃機を江戸上空に飛ばし、八百八町の瓦屋根を軋ませ、まさに飛ぶ鳥を落とす威勢を見せた。
「わしは隠居じゃ、わしは隠居じゃ」
戦になるのではないかと恐れた徳川の旗本からは、軍役を免れるため隠居を声明し、二歳とか三歳とかの赤ちゃんに家督をゆずる者がどんどん出た。ローマ人がゲルマン人を恐れた如く、江戸人は薩摩人を恐れた。
一方、薩摩兵の多くも、自分らが何をしにきたのか、全くわかっていない。その目的を知るものは、彼らの指導者、島津久光のみであった。
薩摩の軍隊は、江戸城大手門の前に分列行進して進むと、その場で整列した。やがて、親衛隊の装甲車とサイドカーに守られた久光の駕篭が見えた。
「国父さまに敬礼ーっ、捧げ用意ーっ、ツツー!」
何百もの薩摩刀と千余の銃剣が一閃し、栄誉礼の形を取った。軍楽隊が「島津久光さまを讃える歌」を演奏し、百五十五ミリ榴弾砲を搭載した自走砲が派手な祝砲を江戸城の上にぼんぼんと発射した。その音のため、江戸城の駐車場に停まっていた車の窓ガラスが全部割れ、盗難防止ブザーがぴゅうぴゅうと鳴った。
「見ろーっ、久光さまじゃーっ」
「あれだ!」
駕篭の屋根を押し開け、久光が立って姿を見せると、周辺の興奮は絶頂に達した。周囲の茶屋やらバス停やらの屋根の上にまで登って行列を見ていた江戸の群衆は、新しい時の人が無愛想に片手を挙げて兵たちに答礼するのを目にした。薩摩兵は、徳川将軍の居城に尻を向けたまま、「久光さま、ここにあり」と叫び、カラシニコフ銃をどんどんどんどん空に乱射した。
少し書きすぎた……。ともかく、そんなような時代だというのを分かってほしかったのである。幕末はメチャクチャだ。幕末はひどい時代だ。私は悪くない。まとめてみた。
結局、島津久光は何のために来たのかというのを書き忘れていた。
彼は、徳川幕府の体制の立て直し、つまり幕政改革を断行すべく薩摩を出てきたのである。
久光は倒幕論者ではなかった。
関ヶ原の戦い以来のいきさつから、薩摩は伝統的に「反徳川」と考えられ、家康も西南の反逆――薩摩藩の決起、を恐れ、警戒を怠るなと遺言したことは知られている。
が、久光に限っては、そういう考えはちりほどもなかったようである。徳川体制破壊という意志が彼の中にあったことは一度もなく、むしろ幕藩体制転覆を目指す藩内活動家を憎み、徹底的に弾圧した。この遠征の途中にも、のちに薩摩をして倒幕陣営の盟主たらしむる西郷吉之助を捕まえ流罪にし、伏見では藩内の倒幕派を粛清している。久光という人は、当時の殿さまの中でも、偏執病的な上下名分論の固執者であり、上は威令をもって下を従わしむるといいう考えの持ち主であったようだ。そのような仁だから、「倒幕」などという上を恐れぬ論は論とも思わず、ばか者の迷夢としか見えなかったのだろう。
また話が逸れてしまった。とにかく久光は、軍を率いて東上、天子の勅許(これ、頭痛が痛いみたいな表現で気に食わないんだけど)を盾に改革案を述べた。その中に、
「江戸オリンピック」
というのがあった。誰がなんと言おうとあったのだ。
「江戸、オリンピックでござる」
江戸城・柳の間において、この無愛想な西南の首長は、居並ぶ諸大名、老中、御一門に向かっていった。どれくらい無愛想な顔かは画像検索で調べてほしい。
「なんですか、それは」
童顔の会津藩主・松平容保がたずねた。ほかの諸侯は、みんな久光の言っていることが理解できず、口を半開きにし、ぽかんとしている。ちなみに容保はこの年二十六歳、すでにアラサーだが明治になるまで少年のような若々しい容貌であった。
久光は四十五歳。唇は厚く、端がたるんでいる。
「わからんのか」
といった。目は細く、月並みな表現を借りれば、糸のようである。
「江戸オリンピックは、江戸のオリンピックである。わかったな」
会津候容保は、久光の不作法な物言いに閉口し、顔面蒼白になった。容保は徳川将軍直接の血を引く親族だから、幕府の潜在敵ともいえる外様藩主が居丈高に話して良い相手ではない。だが久光の場合、それもある意味仕方なかった。もともと久光には斉彬という兄がおり、そっちが島津家当主となるはずだったため、久光の方は江戸城での振る舞い方とか、話し方とか、常識とか、そういうのは何もしつけがないのである。
久光は薩摩弁でしゃべった。
「現在、世界の情勢は、西洋の強国が東洋の弱国を侵犯し、これをして属邦のごとくになし、その情景はあたかも豺狼が羊群を襲うかのごとくである。いま我が国は弱小にして西洋は強大、あえて抗すれば害多く、利少なし。聞くところによれば、西洋は甚だ運動を好み、人民のよく運動するところ、文明ありと見なすよし。されば我ら開かん、運動の祭典を。江戸オリンピックを開き、世界の耳目を我が国に集中せざるべからず」
久光の言葉の意味を訳すと、大体以上のようになる。
みんなわからなかった。薩摩の言葉は難解である。
「土佐どの、土佐どの」
福井の藩主松平春嶽が、個人的に親しい土佐藩・山内容堂の袖を掴んでたずねていた。
「久光はなんと申したのじゃ」
「あ? なんだって?」
飲んだくれの土佐候・容堂はポケットウィスキーをぐびぐびと飲みながら、赤く濁った目を春嶽に向けた。
「久光はなんと申したのじゃ」
「おれが知るかよ。自分で聞いたらいいじゃねえか」
「なあ、おぬし、人間の言葉でしゃべれーっ、とひとつ怒鳴ってくれんか。おぬしは酔ってるし、大丈夫だ」
「だから自分で言えよ。おれは全く興味なんかないんだ、あのサツマイモ太郎めが。どうでもいいんだよ」
「そ、そ、そんな。わしはわしは福井の英明な殿様で上品な徳川一門として知られる高貴なリベラルの身じゃぞ。そんな差別みたいな言葉、い、い、言えんわい。みんなにみんなに怒られるじゃないか、ツイッターやフェイスブックや……」
「ええい、だまらっしゃい!」
諸侯がひそひそと話し続け、結論が出ないでいるのを見ていた勅使の大原三位中納言が、とうとう怒りだしてしまった。
「これは勅命である。天子のお命じあそばされるところに従うように。主上はすでに薩摩殿の建白をお聞きあそばされ、広大無辺の御仁慈をもって、恐れ多くも詔を垂れさせたまい、先日の歌会にみえる和歌の御製にも(中略)とお詠みになり、これは明らかに薩摩殿と、まろに対する賛同であり……」
諸侯はみな平伏した。なんだかわからないけど、そういうことになったんだ。




