氷結の戦場 2
あまりにも大きな獣の姿に、集められた勇士たちも度肝を抜かれて棒立ちになっていた。おかげで半数は使い物にならず、結果、沖の船まで行く人数が減った。
ハリーは呆れた表情で雪狼たちをソリに繋いで、アウグストに手を振った。
「準備できましたよ~! もう、他に手は無かったんです? 皆怯えてますよ」
「仕方ないだろう。私に召喚べるのはこいつしか居ないんだから……」
心なしか口を尖らせるアウグストをくすぐったいような思いで眺めながら、用意された防寒の手袋をきゅっと鳴らし、ハリーはソリの手綱を執った。
「さあ、行きますよ!」
ハリーの声に誰もが身構える。アウグストが召喚んだ雪狼の“親”が走り出せば全ての狼がそれに従うのだ。子狼のソリの手綱は役には立たないただの飾りだ。
びしりと乾いた音がして、狼が動いた。ぐんっと強張る体、舞い散り頬にかかる氷の粒、悲鳴すら置き去りにして馬が出す最高の速度でソリは滑っていった。
「ひゃっほ~う!!」
「……ぁ……ぅぷ……!」
喜びの声を上げるハリーの後ろで、ダントンは喉が狭まる苦しみと戦っていた。隣でアウグストも閉口している様子を横目で盗み見て、御者の文官の方が特殊なんだなと安堵する。
まるでサーカスの特等席ではしゃぐ子どものようだ。大人としてはこんな演し物さっさと終わってほしい。
胃袋が限界だとばかりに激しく蠢動しだした頃に、ようやっと終わりが来た。しかしそれは急な横滑りを伴っており、口を押さえることに精一杯だったダントンはソリから投げ出されて宙を舞った。背中を強か打ちつけたと思ったら、地面にも叩きつけられる。だったら最初にぶつかったのは何だと痛む腰をさすりつつ見上げると、霜で白く塗り替えられた帆船だった。
(痛ぇ……。関門での仕返しかよ……?)
頭を振って立ち上がり、ハリーを睨みつけると、「してやったり」と声高に主張する瞳とぶつかった。つまりはわざとか。
(泣かしてやろ……)
この屈辱をよくよく刻み付けておかねば。帰りもどうせ似たような目に合わされるのだ、復讐は二倍の倍で、だな。そう決意するダントンをよそに、こちらは慣れがある分、立ち直りが早かったアウグストが怖々と下の様子を伺っている帆船の乗組員に向かって叫んだ。
「ガイエンのレオンハルト、生きているならば聞け! 私はアウストラルのアウグストだ、今すぐ投降するならば命まではとらぬ。このまま船ごと沈むのとどちらが良いか、よく考えることだ!!」
船が沈む、その言葉に連れてきた味方にも動揺が走る。
この距離でこの大きさのものが沈めば巻き添えは必至だ。しかも、獣の迫力に耐えた猛者たちも、このどぎつい走りの連結ソリには心を折られたようであちこちから呻き声が上がる。見ればまだ起き上がれていない者も居る。
「馬鹿が! 誰が死ぬと分かってのこのこ出て行くものかよ!!」
「ほう。よほど沈みたいようだな! だが私は慈悲深い、聖典に誓ってお前の命を約束してやる!」
「黙れ! セリーヌと結ばれぬのなら、ここで沈もうと同じことだ!」
「…………」
レオンハルトの悲痛な声に、思わず、アウグストですら黙った。
この男はこの男で、セリーヌを本気で愛しているのだ。一歩間違えばアウグストとて、似たような立場に置かれていたかもしれない……そんな思いが一瞬の空白を許した。
「頼む……! 本当に慈悲をかけてくれると言うのなら、ここで俺を殺してくれ! セリーヌが吊るされる様など見たくない!! 頼む……!」
全ての目が、氷の魔王子へと集まる。
「そうは、いかぬ。セリーヌもお前も、死ぬよりも辛い罰を受けることになる。国に背くという事が、どれほどの報いをもたらすのか、しかとその身に刻め……」
「は……! ははは、はははははは! 何が国に背くだ、何が報いだ! アウストラルよ、その驕りが国を腐らせたのだ、お前たちの王は上に立つ器ではないわ!!
我々こそが復讐者なのだ、報いをもたらすのは我々だ! 呪われよ、コルネリウス!」
船べりに足を掛けて大空を仰ぎ、謡うように高らかにアウストラルを呪うガイエンの王子、その姿は痛ましくもあり、また、喜劇的でもあった。アウグストは不機嫌そうに眉をしかめ、口の中で何事か呟いた。その言葉は誰の耳にも届かなかった。
「戯言に興味は無い。咎人を捕らえよ! その口を遊ばせておくな!」
「……はっ!」
「はっ!」
アウグストの命令に、レオンハルトの呪詛に気を取られていた男たちも己の立場を取り戻し、次々に船へ足を掛けた。
半ばまで氷に埋まっている船は傾いでおり、その後方と左側面に登れる場所があったのだ。船の中でも取り残されていたアウストラルの騎士が捕縛に動いており、すっかり戦意を喪ったガイエンの戦士数名がすでに捕らえられていた。
レオンハルトは自害しようとしたところを取り押さえられ、厳重に処置を施された。アウグストとしてはこのまま死なせてやりたい気持ちがないわけではなかったが、セリーヌに罰を与えてこの男に慈悲をくれてやるのでは道理がおかしい。
この一件の黒幕がアウグストの予想通りにダヴェンドリだとすれば、同じ唆されたにしてもレオンハルトの方にこそ重い責がある筈ではないか。
セリーヌはこれからガイエンの王へ嫁ぎ、その血を繋ぐという役割がある。彼女にとって、年の離れすぎた男の妻となることが何よりも辛い罰となるだろう。それが愛する男の実の父親だと言うのだから尚更か。
だが、それが王族の務めでもある。セリーヌへの罰をこの男に告げるべきか、それとも黙っておいてやるのが情けか……。慈悲だ何だと口にしながらも、そんな高尚なものについぞ触れたことの無いアウグストには理解しようにも適わぬ相談ではあった。
「氷の解けぬうちに帰るぞ。ソリの向きを変えよ、必要な全てを載せたら出る」
「はっ!」
人の目を避けるように、アウグストは一人凍てついた帆船へ体を向けた。腹に氷の槍が突き立ったその姿は、傷つき倒れそうなレオンハルトと重なって見える。
己の父親からも見捨てられ、異国で朽ちる定めであることも、この船と彼の王子は似ている。咎人へ罰を与えるのは貴人として当然の務めであったが、何故こんなにも責められているように感じるのだろうか。或いは、責めているのはアウグスト自身かもしれなかった。
「ルベリア……」
今、無性に、あの無邪気な笑顔に会いたかった。
会って抱き締めて、その温もりであたためてほしかった。




