触れそうで触れない距離
テオドール殿下は控えている黒術士の女性に言いつけて、食後のお茶を用意させた。野の林檎と何か別のハーブのお茶だ。わたしには全く分からないが、ギュゼル様ならきっとお詳しいだろう。そういえば昨日も、テオドール殿下だけはお茶の種類が違ったような……?
「テオドール殿下、今日は午後のお茶までずっとモデルをした方がよろしいのでしょうか?」
「うん? ああ、休憩しようか。寒そうだしね」
そうです、肩が剥き出しで落ち着かないのです。……テオドール殿下にあんなものを見せてしまったという昨日の失態を思い出してげんなりしますしね。
「テオドール殿下がよろしければ着替えて参りたいのです」
「……まだ硬いなぁ」
「は?」
「もっとリラックスして?」
無理です。
「もういっそ、僕のことはテオドールと呼んでよ。それか、恋人同士のように踊ってみるとか」
「そんな、殿下に対してそのような……!」
「それなら、ギュゼルに命令して貰おうかな、なんて……」
「…………」
「あ、ごめん。本気にしないで」
黙り込んで俯いてしまった私の側に、テオドール殿下がいらっしゃった。ソファに腰掛けているわたしの目線に合わせてか、自然な動きで跪かれ、わたしは驚きに目を見開いた。
「無神経だった。心から謝罪する。どうか……」
「いえ! お立ちになってください、テオドール殿下。わたしが悪いのです、お気になさらないでください」
「でも……」
「どうか、謝らないでください……」
テオドール殿下は悪いわけがない。少し、からかいになられただけだ。平素であればわたしも一緒に笑っていただろう。
だが今は、セリーヌ様のお顔と、あの方の声が……耳に残って……。
「誰を思い出しているの……?」
「!」
顔を上げると、テオドール殿下の穏やかなオリーヴ・グリーンの瞳とぶつかる。心配そうな、いたわるような、優しい瞳……。
わたしは、目が潤んでしまったのを見られないように顔を逸らした。
「アウグスト、今頃は魔物を退治終えて帰り支度に取り掛かっているだろうか。怪我がなければ良いね」
「……っ、……あの方なら、きっと、大丈夫です」
「えっ、ルべリア?」
テオドール殿下が、わたしの頬に流れる涙をご覧になって、驚いたようにハンカチを差し出してくださったが、わたしはそれを受け取らず、指で涙を払い落とした。
「アウグストと君は……、その、本当に恋人のような関係なのかい?」
「いいえ。そのような事はありません。わたしのような下級騎士がアウグスト殿下の寵愛をいただくなど、考えてもいません。お側に呼ばれたのはギュゼル様を害そうとした者の調査を命じられているからに過ぎず、醜聞は事実ではないのです」
「そう……、なら、良かった」
弟御の醜聞など、嫌で堪らないだろうに、それが事実ではないと知って安堵されるとは。
なんて、優しさと公正さに溢れた人格者であることだろう。ギュゼル様があんなになつかれるのも、納得がいくというものだ。
実はわたしは少し、テオドール殿下に嫉妬してしまっていたのだ。許されることではないけれど。あんなにギュゼル様が好意を示されるなんて、実の兄妹とはいえ、親し過ぎやしないかと。いや、わたし以外に抱きついていらっしゃるギュゼル様を見て、わたしはその相手であるテオドール殿下を心憎く思ってしまったのだ。
だから、テオドール殿下から距離を置いていたのだ。その優しさや誠実さを見ない振りをして。
「テオドール殿下、貴方様が素晴らしい人格者だということは、当然のこととしてどの御方の口からも讃えられていることです。今日、貴方様とお話しすることができ、それを深く実感いたしました。今までのわたしの無礼な態度をどうかお許しください」
「そんな……、許すも何もないよ」
「いいえ。わたしは、昨日も優しくしていただいたのに、貴方様が絵のためにわたしに歩み寄ってくださった時も失礼な態度を……お許しくださいませ」
「君が、そこまで言うなら。許すよ。今なら良い絵が描けそうだ。ちょっとこっちにおいで」
「はい、テオドール殿下」
テオドール殿下は、わたしを寝椅子の前に連れていくと、うつ伏せになるように仰った。
「あの……」
「さあ、早く。なんなら僕が手を貸そうか?」
「なります。すぐに」
「いいね。膝を曲げて足を上げて……自然に……」
「え? あの……、えぇ?」
足が丸見えになりそうです。
「手を貸そうか?」
「やります。すぐに」
「ハリエット、スカートを整えて。腕もちょっと動かして」
「はい」
助手の女性がわたしのスカートをばさばさ広げたり、めくったり……恥ずかしいです。足の手入れは騎士の勤めなので、見せられないものではないのですが、裸足というのがちょっと……。せめて靴が欲しいです。
テオドール殿下はキャンバスに向かわれた。
今のわたしは、『寝椅子に腕枕して体を投げ出し、足をばたつかせている女性』というモチーフだそうだ。絵のモデルとは、地味ではあるが筋肉の限界に挑戦するという意味では、鍛練に丁度良いようだ。
わたしがその事を伝えると、テオドール殿下は曖昧に微笑まれた。……それ知ってます。ギュゼル様や奥様がよくお見せになる「困った娘ね」という表情です。
あれ、わたし、呆れられている?
◇◆◇
それからは、ギュゼル様との出逢いについてや、ギュゼル様の成長のご様子、そういった楽しい話を披露した。それから、わたしの話も。
ただ、わたしの子ども時代の話は楽しいものではないので、聖堂教会での授業についてなど、なかなか明かされない聖典の内容について話したりした。
「例えば、世の中で一つのものと一つのものとが、合わさって二つになるのは、それは一つを作り出すためである。とかですね、訳の分からない話ばかりが書いてあるのです。
黒と白の合一を果たしてこそ生命の奇跡を知る、とか。おわかりになりますか? もう、はっきりと書けば良いではないかとわたしはずっと思っておりました」
「は、はっきりって……?」
「仲間を増やさないと社会は成り立たない、黒術と白術の両方を勉強しないと、傷ついた者を癒すことは出来ない、と。
聖典に書かれてあることは、そういった世間の常識の元になったものなんだそうです。わたしは頭の出来が良くないので、父に教えてもらってもなかなか理解出来ませんでした……」
テオドール殿下は、また曖昧に微笑まれた。
……分かっています、わたしは殿下みたいに頭の出来が良くないのです。
「でも、気を操作するのは上手だと誉められました。わたしの温かい手で按摩すると、お年寄りに喜ばれます。よろしければ、殿下も……」
「うーん、それはどうしようかな」
そんな会話をしていて、いつの間にか会話が途切れた。しかし、黒炭を動かす音がしない……?
気が付けばテオドール殿下は、胸を押さえて荒い息をしていらっしゃった。わたしより早く、助手が駆け寄り、黒術を施す。
「王太子殿下、しっかりなさってください!」
「テ、テオドール殿下……。わ、わたしに何か出来ることは……」
「貴女は下がって!! 殿下、落ち着いて息をしてください」
わたしは何も出来ず、一礼してテオドール殿下の部屋を辞した。無力感が私の胸に重くわだかまる。
あの方のために、何かして差し上げられたら……。
「一と一とが出逢い、三を成す」イコール「黒と白の合一」つまり和合でありますね。
魔術の基礎のようなもので、この世界の根幹でもあります。
理解できなくても問題は全くありません。知りたい方は和合の意味をお調べください。
ルべリアは落ちこぼれなので、上の理論やその他魔術の基礎が理解できずせっかくの陽の気も巧く使いこなせずにいます。




