絵のモデルとは
アウグスト殿下の出番がしばらくありませんが、殿下はご無事です。多分。
寝覚めが悪い……。
昨晩、よく眠れるようにローズマリーの精油(※)を振ったのに、あまり夢見も良くなかった。
うーん、嫌な事があった翌朝は、美味しいもので心を癒すに限りますよねー。そうだ、アウグスト様が贈ってくださったハムが、…………。
アウグスト様……。
とんだ別れ方をしてしまった。もう二度と会えないかもしれないのに。せめて、せめて魔物退治が首尾良く終わるよう祈りましょう。
◇◆◇
台所では、すでにタンジー婆やが火を起こしていた。ストーヴの中が真っ赤に燃えている。
「早かったね。今日は卵がたくさんあるよ。焼いても良いし、茹でてやっても良いよ」
「焼いてください。手伝います」
「はン、殻を中に入れるんじゃあないよ」
「気を付けます〜」
ボゥルに卵を割り入れ、掻き器でよく混ぜる。乾酪を削り入れ、塩、パセリ、ニンニクのすり下ろしを少々、山羊乳も少し。それらをふんわり焼くのがタンジー婆やの卵焼きだ。
無発酵のパンをストーヴの上に並べ、冷蔵棚からハムを出す。パンが焼き上がる頃には卵が仕上がっていた。
「ほら、アンタのだ。おあがり」
「あ……」
「今日は鍛練にゃ行かないんだろうと思って、もう用意しちまったよ」
「はい、しばらくは行くのをよそうかと……」
わたしが食卓の皿に目を落としたままそう言うと、タンジー婆やは鼻を鳴らした。そのまま静かに朝食をしたためる。
奥様はまだいらっしゃらない。だから、奥様の分はまた別に作るようだ。そう、いつもはタンジー婆やも、もっと遅い筈。……婆やは、わたしの鍛練終わりに合わせてくれていたのかもしれない。
「さて、久し振りにココでも練ろうかね」
「やらせてください!」
朝食の片付けもそこそこに、わたしは缶からココの粉を計って鍋に入れた。そこに砂糖を潰し入れて、お湯を少々。練って練って、味が均一になるまで練ってから、好みに合わせた濃度に薄めて飲むのだ。わたしはココに山羊乳を少し足すのが好きだ。
「アンタ、昨日は大変だったみたいじゃないか」
「えっ?」
「女の騎士が二人、アンタの服と、壊れた騎士のあれ、持ってきたよ。それは、替わりのもね」
「…………」
「謝ってたよ、その娘ら」
「彼女らは、何も悪くありませんでした……」
「……うん」
「ただ、ちょっと、相手が悪くて……それで……」
「……うん、うん」
「あはは、本当にあんな、よくあるような嫌がらせをされるとは、思いませんでした……」
「うん、ほら、ココでも飲みな」
「あれ、おかしいな……、涙が……!」
「大丈夫、大丈夫だよ。何とかなるさね」
「……っく、はい、ありがとう…ございます…!」
わたしは、手の内の温もりと、タンジー婆やの手の優しさに、涙が勝手に零れて止まらないのだった……。
◇◆◇
「絵の、モデル……?」
「そうよ、お兄様がルべリアを描きたいんですって。仲良くなりたいって仰っていたわ」
「仲良く……ですか」
朝食の席から戻られたギュゼル様は、昨日意味ありげに仰っていた事の内容をわたしに話してくださった。
そう言えば、王太子殿下と初めてお話をしたとき、絵を描かせてほしいとか、なんとか……言っていらしたような、そうでもないような……。
「それで、何故、こんな服を……?」
「綺麗なルべリアを描いてもらいたいの!」
朝食後のお腹にコルセットは無理なので、わたしが着せられたのは『夏の昼下がり用野遊び風ドレス』なのであった。
ええ、確かに、絵の中の女性は大概こんなドレスですね。
肩も胸元も剥き出しの、ひだ飾りがたくさん付いていて、腰だけ皮の太いベルトで留めているドレスですとも。こんなの、白い布を纏うのと大差ないじゃないですか。
スカートだけはふんわり長いので助かります。太股にナイフが仕込めますからね。
ただ、足元が……。
「なぜ、ブーツではいけないのでしょうか!」
「美しくないからよ!」
「……なぜ、また髪を足して纏めるのです?」
「綺麗よ、ルべリア!」
「…………なぜ、奥様の紅玉を耳に着けるのです?」
「オーリーヌが、是非にって貸してくれたからよ」
「モデルとは……」
「あ、向こうに着いたら裸足になるそうよ」
「!!」
は、裸を見せるより恥ずかしいではないですか!!
「ギュゼル様……」
「芸術は厳しいのよ、ルべリア」
なんだか、売られていく山羊みたいな気分になりますよ。うぅ……、わたしの仕込みブーツ!!
◇◆◇
「ルべリア、大丈夫かい?」
「いいえ。っはい、大丈夫です」
ギュゼル様、今、思いきり踏みましたね!?
「楽にしてね? 緊張すると良い絵には仕上がらないから」
「はぁ……」
わたしは今、ギュゼル様と一緒に王太子殿下の部屋に来ています。裸足で。居心地は最悪です!
ギュゼル様は、王太子殿下の助手であるハリエット・リズボンという黒髪の美しい女性と、絵の構図についてお話しに部屋の隅へ行かれた。わたしは王太子殿下と差し向かいで取り残される。
「それにしても……大胆な格好だね」
「う……ギュゼル様に仰ってください」
うっすらと頬を染める王太子殿下。
わたしは逆に、昨日、無い胸を見られてしまったことを思い出してしまって青くなりそうですがね!
「色々と、話を聞いたりしながら絵を描いていこうと思うんだ。今までのギュゼルのこととか、聞かせてほしいな」
「それは勿論です!」
「お兄様、私の話より、ルべリアの事をお聞きになれば宜しいのに!」
ギュゼル様がこちらを振り返って、口を尖らせて抗議なさる。
そんな仕草も、可愛らしさを引き立てるだけですよ。
「そうだ、ルべリアにこれを……」
「王太子殿下、これは?」
王太子殿下の掌に輝いていたのは、小指の先程の紅玉が嵌まった、太陽を模した金の飾りだった。細い金鎖に繋がっている。
「今日、君に着けて貰おうと思ってね。さあ、後ろを向いてごらん……」
「自分でやります」
「良いから、ね?」
金の太陽はちょうど私の鎖骨の間にピタリと収まった。ギュゼル様が感嘆の吐息を漏らすのが聞こえた。確かに、綺麗ではあります。
「殿下、寝椅子も花も、良い位置かと。そろそろ始められても結構でございます」
「ありがとう。さあ、ルべリア、ちょっと座ってみて」
「…………」
「ルべリア、頑張ってね」
わたしは乗り気ではなかったけれど、ギュゼル様に従って寝椅子に腰掛けた。
「私はもう行かなくちゃ。また迎えにくるわ、ルべリア」
「あ、ギュゼル様ぁ……」
「頑張ってね、綺麗に描いていただくのよ?」
不安の大きな仕事だったが、王太子殿下は話上手でいらっしゃって、昼食を三人で、この部屋でいただく頃にはすっかり打ち解けていた。
「まだ、表情が少し硬いかな……」
「そう、ですか。自分では充分緊張も解れてきたつもりなんですが」
「じゃあ、僕のことを王太子殿下じゃなくて、テオドールと呼んでみてくれないか?」
「そ、そんな、恐れ多い……!」
「ほら、また硬くなってる」
王太子殿下は、寂しげな笑顔をお作りになった。
「今はギュゼルが呼んでくれているけれど、役職で呼ばれすぎて本当の名を忘れられてしまったんじゃないかと思うくらい、今じゃ誰も口にしない名だ。
だから、ギュゼルには感謝しているんだよ。僕に温かさを思い出させてくれたから……」
「王太子殿下……」
「ルべリア。どうか僕を、ギュゼルを守る同志としてでも良い、受け入れてくれないかい? こんな風に距離があったら、良い絵は描けない」
「すぐには難しいかもしれません。でも、努めてみます。……テオドール殿下」
わたしが名を呼ぶと、本当に嬉しそうにお笑いになった。
それが心からの笑顔だったので、昨日の出来事で凍ってバラバラになりそうだったわたしの心も、ほんの少し温かさを取り戻したのだった。
※ローズマリーに安眠効果はありません。夜リラックスしたい時はラベンダーとオレンジのオイルを1:1で混ぜ、振ると良いです。
ローズマリーは記憶を留めるとされ、勉強中の合間に嗅ぐのも良いと思われます。
六月一日から、休まず毎日更新します。よろしくお願いします。




