アウグストの執着
情熱的な口づけなどを交わすと、気恥ずかしく、相手の顔が見られなくなるものかと思っていたが、そんな風に感じていたのはわたしだけだったようだ。
アウグスト様は全く変わらぬ様子で馬を歩かせていた。
体勢は先程と変わって、わたしはアウグスト様の前に横向きで腰かけていたけれど。
アウグスト様の顔がとても近く、時折、腕が触れるので大変落ち着かない。厩舎に戻る頃には、野遊び会場で昼食を食べ損なったせいでお腹が空いてしまっていた。しかし、お茶の時間まではまだあるし……。
「腹が空かないか? 軽食を用意させよう」
「いえ、わたしは、戻らなければ……」
「少しだけ付き合え」
「はい……」
目を細めたアウグスト様に低い声で命令されると逆らえない。
怖いとかじゃなく……いや、少し、怖い。自分が自分でなくなってしまいそうで。
城に入る際、貴族や王族が利用する化粧室なる場所があるのだが、今回わたしも御一緒させていただいた。
初めて入りましたよ、こんな豪華な下足室!。
白大理石の床には精緻なモザイクで描かれた国章が大きく出迎え、高い天井には鮮やかな春の花と妖精や乙女といった華やかなモチーフが描かれていた。そこで泥だらけのブーツを脱がせてもらい、別の靴に履き替える。わたしの靴は預けていないのでまたしてもアウグスト様の物をお借りすることに……。いたたまれない!
それから部屋に行き、本来はトマス殿が手伝うはずの着替えをわたしが手伝った。わたしの着替えは自分でできたのだが、あの目に耐えられなかった。……睨まないでください。怖いです。
「あの、本当に着替えは……」
「このベルト、固いな」
「失礼します、ただいま戻りました」
「!」
「あ」
「…………」
トマス殿は無言で剣に手をかけた。
「待て、違う」
「少し目を離した隙に……」
「話し合おう!」
「トマス殿、アウグスト様はわたしの着替えを手伝って下さろうとしていただけなのです」
「……ほう」
「馬鹿……」
アウグスト様は片手で顔を覆ってしまわれたが、こういうのは、正直に話した方が良いと思いますよ、アウグスト様。
◇◆◇
結局、着替えの手伝いといっても、後ろで引き絞ったベルトを弛めることの他には自分で全て出来るので、トマス殿に弛めてもらった。
「ルべリア、何かあったのか?」
「いえ、べつに」
アウグスト様に、帰り道でのことや「二人きりのときには名前だけで呼ぶこと」という約束は決して他言しないと誓いを掲げたのだ。
トマス殿の尋問官のような視線を受けると全て喋ってしまいそうなので、わたしは必死に目を逸らした。
やがて重い溜め息が聞こえた。
「きっと後悔するぞ。アウグスト殿下の側にいられるのは、殿下がお前を必要とする内だけだ。道具としてしか共にいられないのに、お前はそれで構わないのか」
「わたしは、アウグスト様の名を汚す真似はしません。わたしが邪魔になるなら姿を消しましょう。引き際は心得ているつもりです」
「……辛くはないのかと、聞いたつもりだった」
「…………」
「今ならまだ引き返せる」
「引き返すも何も、わたしとアウグスト様の間には何もありません」
「……なら、良い」
勝手にしろと言われた方がマシだったかもしれない。
◇◆◇
昼食と午後のお茶を合わせたような、そんな食事の内容だった。しかし、アウグスト様とトマス殿下の間では冷ややかな無言の応酬がなされ、挟まれて食べるサンドイッチは砂の味がした。
帰りたい……。
「ルべリア、葡萄を食べさせてやろうか?」
「イエ、ケッコウデス」
「そうか。ならば私に食べさせてくれ」
にっこりと微笑むアウグスト様……。
可憐ですね、そうですね。ところで、トマス殿の目が鋭くなっているのですが、わたしはどうしたら……。
「どうした? 命令だ」
「ハイ……」
わたしは葡萄の房を持ち、アウグスト様の傍らに立った。指で「座れ」と示されたので跪く。美味しそうな大ぶりの一粒をもいで口許に持っていくと、
「お前が口移しで食べさせてくれ」
「…………」
「ルべリア?」
「っ……はい」
アウグスト様の低いながらも優美な声が耳を打つと、何故か逆らえないのだ。わたしは……、わたしは葡萄を歯で軽く押さえて、アウグスト様の唇まで運んだ。あとは舌で押して……。
「んぅ……!」
カリッと葡萄の皮が弾ける音が聞こえた。
甘い汁が顎まで垂れてくるけれど、アウグスト様が葡萄を受け取ってくださらないので唇を離すことが出来ない。それどころか、彼の舌が葡萄を押し込んでわたしの中に入ってきてしまった。
喉の奥に葡萄が追いやられ、飲み込もうとするのに、口を閉じさせてくださらないので、なかなか飲み込めない。く、くるし……
「ふ、……ぅ、……ぁ……!」
ごくん、と喉を滑り降りていく葡萄。
わたしは情けないことに足から力が抜けてしまって、床にへたり込んで空気を貪るのに懸命だった。
「なかなか美味しい葡萄だったな」
「……っ、はい」
見上げたわたしと目が合うと、アウグスト様は顎に滴った果汁を親指の腹で掬い取りながら、酷薄な笑みを浮かべていらっしゃった。
犬扱いは嫌だと思っていましたが、これはこれで……、あんまりだ……。
苦しくて涙目になってしまっていたのを拭う。
「大丈夫か、ルべリア。少し休んでいくと良い。……まだ帰したくないからな」
「アウグスト様!!」
トマス殿が立ち上がり、アウグスト様を睨み付ける。
アウグスト様も好戦的に口許を歪めて笑っていらっしゃる。これは、いけない。
「どうした、トマス。私の邪魔をするな」
「殿下は何を考えておられるのか。それとも何も考えておられないのか!?」
「部屋の外で待機せよ。これは命令だ、トマス」
「アウグスト様!!」
一触即発だ。何とか鎮めなければ。
わたしは一つ案を思い付いた。しかしトマス殿に相談している隙はない。
「アウグスト様、失礼を……!」
「ん……!」
わたしはアウグスト様の唇に唇を重ねた。足がガクガクするがまだ耐えられる!
アウグスト様は最初、わたしの口づけに呼応するかのように愛撫をしてきたが、段々と力の喪失を感じてきたのだろう、唇から逃れようと顎を逸らし暴れた。しかし、わたしは両手で貌を挟み込んで吸い続けた。
「……やめ、……ルべリア……!」
「すみません、アウグスト様。お休みなさい」
わたしより先に陰の気が尽きたアウグスト様が、力を失い、倒れ込んでしまわれた。わたしはまだ何とか立てる。
「……昨日の逆か。よく考えたな」
「アウグスト様に知られると逃げられますので。……正直、貴方に切りつけられるかと思っていました」
「そんな事はしない。助かった」
「いいえ、わたしが悪いのですから……」
トマス殿はアウグスト様を軽々持ち上げると、寝台に横たえた。ふとガラス越しに外を見れば、もう陽が傾きだしている。
「そろそろ失礼します」
「そうだな。殿下がお前の顔を見れば、きっと帰れなくなる」
わたしは部屋を辞した。
色々なことがありすぎて、今夜は眠れそうにない。




