黄金の姫の悩み
ギュゼルはもやもやした思いを抱えたまま、何も言えずにいた。ちらりと彼女の騎士を見る。しかし何も言わない。それをもう何度も繰り返している。
昼食の時間から大きく外れて遅く帰ってきたルべリアは、いつものような覇気がなく、うわの空なのだ。しかも、時々どこかを見て小さく溜め息を漏らしている。そんな仕草がとても艶っぽくてギュゼルはいけない想像をしてしまうのだ。
騎士と姫の禁断の恋を描いた「芥子の華」にも、二人が口づけだけではなく、もっと近付いた描写がなされていた。騎士が、姫の靴を脱がせて裸足の爪先にキスしたのだ。
そんな大胆なことをするなんて、信じられなかった。タンジー婆やに貸してもらった本だったけれども、自分が見てはいけないものを覗き見してしまったような恥ずかしさに、ギュゼルはそれ以上頁をめくることが出来なかった。
美しいけれど冷たい兄のアウグストが、ルべリアを呼び寄せてどんな行為に及んでいるのか、ギュゼルには詳しいことは分からない。それでも、昨日はルべリアにキスをしたのだ。今日はいったい何をルべリアに吹き込んだのか……。
ギュゼルは怒りのあまり頬を紅潮させた。
ルべリアは恋愛面において全くの初心なのだ。そういう知識は私よりもないかもしれない、とギュゼルは思っている。
そんなルべリアをあの兄は騙しているに違いない。もしかしたら立場を利用して言うことを聞かせているのかも……。
だってそうでなくてはおかしい。
いつも颯爽としていて、素敵で、変なこともするけど格好良いルべリアが今日はとてもぼんやりしている。
今も水汲み用の木桶が溢れているのにまた水を足している。台所の水瓶に足しに行くのではないのだろうか。あ、また水を汲んで満杯の木桶に水を入れて……。
「あの馬鹿娘が……。王子様とやらに寝所にでも連れ込まれたかね、ありゃ」
少し離れた場所で聞いていたオーリーヌがぎょっとする。
タンジーもオーリーヌも大方同じ事を考えていたため出てしまった言葉だった。
が、零れそうなくらい目を開いて固まってしまったギュゼルを見て、タンジーは自分の失敗を悟った。口を結び、その場を離れる。
一方、ギュゼルはタンジー婆やの言葉の意味を考えていた。寝所とはつまり秘密の場所である。自分の部屋に誰かを招いたとしても、その奥の寝室に通すことはまずない。男性の客だったら、それがエルンストだとしても自分の部屋には上げない。客間で他の誰かと一緒に彼と会う。それがレディだからだ。
寝室に入れるのは結婚した相手だけ、それがギュゼルの中の常識だ。そこでは大いなる儀式が行われるのだ。聖なる儀式が。だから、つまり……。
ギュゼルは顔を覆って泣き出してしまった。
アウグストお兄様は酷い、とギュゼルは思った。ルべリアはギュゼルの騎士なのに、無理矢理に盗っていったのだ。
(今日はテオドールお兄様が来てくださったの……。一緒にお昼をいただいて、楽しくおしゃべりをしたのよ。夕食会にも迎えに来てくださるの。明日からお城で過ごして……だからルべリアも……)
ルべリアに伝えたかった沢山のことが、涙と一緒に落ちていく。ルべリアの帰りを楽しみに待っていたのに…。テオドールお兄様にもルべリアを紹介したかったのに……。
「ギュゼル様!? いったい、どうされたのですか?」
ルべリアが駆け寄ってきてギュゼルの横に跪く。
温かい手に肩を抱かれても、ギュゼルの涙は止まらなかった。それどころか声を出して泣いてしまった。ルべリアの肩に顔を埋めて、ルべリアを離すまいとぎゅっと抱き締めた。
(渡さない、渡さないもの……! アウグストお兄様になんて絶対に渡さないんだから!)
◇◆◇
オーリーヌとタンジー婆やが温かいお茶を用意してくれていたので、ギュゼルは白磁のカップを手に取り、その香りを含んだ湯気を吸い込んだ。野の林檎の爽やかな甘さが広がる。口に含むと温かさが心を慰めてくれた。
「ギュゼル様、いかがですか?」
「もう大丈夫。ありがとう、ルべリア」
ギュゼルがそう言ってもルべリアはまだ心配そうだ。ルべリアは野良仕事用のシャツとズボンから、普段着ている生成りの麻のシャツに替えていた。先程のものはギュゼルの涙で濡れてしまったからだ。
「ルべリア、ルべリアはアウグストお兄様のことをどう思っているの……?」
ギュゼルはルべリアの気持ちを知りたかった。
ルべリアがもし、アウグストに恋をしているのなら、止めたいけれども口出しはしたくない。もし、嫌々アウグストに従っているのなら、アウグストに手紙を出す。それでも駄目ならテオドールに懇願してでも止めるつもりだった。
「アウグスト様は……」
ルべリアの言葉に思わず身構えるギュゼル。
「美しい方ですね。それに聡明で……少し強引なところもありますが、人の上に立つ方ですから、仕方ないかと。力の制御が上手くなればもっと楽にお過ごしになれるでしょう。今の殿下には制約が多すぎるのだと彼の騎士は言っていました」
「そうじゃなくて!」
「?」
思っていたのとは違う言葉にギュゼルは声を荒げだ。
やっぱりルべリアは恋愛下手なのだ。ギュゼルはちょっとだけ安心した。きっと、アウグストは余計なことはしなかったに違いない。
「男性としてどう思うかよ」
「とても有能でいらっしゃいますし、殿下はこの国に必要な方です。剣の腕前も一度手合わせ……」
「だから、違うの。ルべリアはキスされて嫌ではなかったの?」
「それは……。苦しかったですが……」
「酷い!」
「あの方は、ギュゼル様と私のことを考えてくださっています。良い方ですよ」
「え〜〜」
「ギュゼル様、奥様に叱られますよ」
ギュゼルは栗鼠のように頬を膨らませた。ルべリアはそれを見て苦笑している。
「好きなのか、好きじゃないのかが聞きたいのに……」
「よく、わかりません。なにしろ初めてのことですから」
「ルべリアって、今いくつなの?」
「十九です」
「アウグストお兄様は……確か二十四歳よ」
ギュゼルは年齢が離れすぎているのではないかと思ったけれども、何も言わなかった。
「殿下は確かに私に口づけされましたが、それは疚しい気持ちでのことではないと思います。だから、私も殿下に心を傾けることはしないようにします」
「それは、好きにならないってこと?」
「はい。殿下と私では身分が違いすぎますから」
「そう……」
ギュゼルは国王陛下との許されない恋に身を破滅させた自分の母親のことを考えないように思考に蓋をした。
「ルべリアは、これからもアウグストお兄様のところに通い続けるの?」
「お呼びとあれば」
「そう。なら、もう何も言わないわ」
「ありがとうございます」
そう、ルべリアには何も言わない。
アウグストに手紙を認めるだけだ。
後日、届けられた手紙を見て、アウグストが大笑いすることになるのだが、それはまた別の話である。




