王女の憂鬱
「私、婚約破棄することに決めたの」
麗らかな昼下がり。
王宮の庭で優雅にお茶を嗜んでいるのは豪華絢爛なドレスに身を包んだ女の子。
そして彼女と向かい合っているのは、どんとテーブルを叩いた藍の髪の女の子。エレーユだ。
「婚約破棄って、あのエデンバーグのとこの次男と?エレーユは彼とうまくいってるんじゃなかったかい?この間の観劇もまあまあ盛り上がったって」
「……ごめんね、メリエーヌに貰ったチケットなのに全く盛り上がらなかったなんて言えなくて、嘘ついてたの」
「おやまあ」
嘘をついていたことをカミングアウトしても怒る事も驚くこともなく、エレーユの前でズズズっとお茶を啜っているのは王国の第三王女、メリエーヌ・ローデンワイズだ。
彼女こそがエレーユの幼馴染で、腐れ縁の友人だ。
「本当は、エルフリート様は私といる時全然楽しそうじゃないの。一回も笑った顔を見たことがないし、いつも早く帰りたそうなの」
「そうなんだ。クールなんだねえ」
「クールというか、エルフリート様は私の事が嫌いなのよ。だから笑ってくれないし、私に興味もないんだわ」
「なんだそりゃ」
メリエーヌはティーカップをソーサーに戻して、話の続きを促した。
「エルフリート様は、話しかけても『ああ』とか『そうか』とかしか返してくれないの」
「うーん、それは割と適当な相槌だね」
「それから、手紙を送ったけど無視された事もあるわ」
「手紙は来たら3日以内には返したいけどねえ」
「私の事は未だに名前で呼んでくれないし。私の名前なんて覚えてないのよ、きっと」
「それは流石にないだろうさ」
「あり得るわ。ついこの間エルフリート様は、私とは『カップルなんかじゃない』って言ったのよ。普段何も喋らないのに、そこだけやけにはっきり高速で言ったの。私とカップルだと思われるのが相当嫌だったんだと思うの」
「うーん」
溜息を吐いたエレーユの隣にやって来たメリエーヌは、よしよしと背中を撫でてくれた。
「それからね、真実の花の展示室で『私の事が好きですか』って聞いたら『ああ』って言ったけど、花が閉じたの。それが嘘だってわかっちゃったわ」
「あらら。そんなことを聞いちゃったのか」
「ええ。だから帰り際、エルフリート様がポケットゴソゴソし始めて、私の顔も見たくなさそうだったから、『もう来なくていいですから!』って言ってやったわ」
「それで、エデンバーグの次男は何て?」
「何も言わなかったわ。理由だって聞いてくれなかった。エルフリート様は、話し合いもする気がないの。もう、婚約破棄した方がいいんだわ」
エレーユはぎゅっと両手を握り締めた。
「エレーユはそれでいいのかい?」
「別にいいわ」
「本当?エデンバーグ次男に少しでも未練があるなら、もう少し頑張ってみるのはどうかな?」
「それは絶対ないわ。エルフリート様なんて、全然、好きなんかじゃないもの」
今日は婚約破棄を友人に宣言して決意を新たにするつもりで来たのだ。
メリエーヌが用意しておいてくれた高級なマカロンをガブガブと口に入れ、未練を断ち切るようにそれらを噛み砕いた。
「だから絶対婚約破棄するんだから!エルフリート様以上に素敵な男性見つけて、これから滅茶苦茶すごい恋愛するんだから!」
パンパンと頬を叩いたエレーユは、吹っ切れたように椅子から立ち上がった。
「メリエーヌみたいに、すごい恋愛をする!」
「でもエレーユは選り好みが激しいからねえ。エデンバーグの次男と婚約する前は、あの人もこの人もみんな違うってずっと言っていたじゃないか」
「もう言わないわ。私、エルフリート様以外なら誰でもいい!ねえメリエーヌ、クライス様に誰か優しい男性を紹介してくれるよう頼んでおいて!」
「うーん、頼むのはいいけれどねえ」
足を組みかえて目を細めたメリエーヌの婚約者はクライス・コールドノイズ。騎士団長の息子である。
将来は騎士団長になると有望視されていて、顔もかっこいいし背も高い。
飛竜騎士の部隊長をしていて、王女であるメリエーヌと婚約するために階級を上げて、国王陛下に認めてもらう為に武術大会で優勝もした。
かっこよくて強い上に、一途で情熱的でメリエーヌを溺愛している。
まさに物語の王子ように理想的な恋人なのである。
「私、頑張って尽くすから、クライス様のような素敵な男性を紹介してくれるように頼んで!お願い」
「わかったよ」
「本当にありがとう!持つべきものはやっぱり素敵な婚約者がいる親友ね」
「全く、調子が良いね」
「うん、だって切羽詰まっているんだもの。お願いよ、メリエーヌ」
「はいはい、わかったよ」
エレーユは呆れ顔のメリエーヌの手をガシッと握り、ブンブンと振った。
婚約破棄して自由の身になって、エレーユを全力で愛してくれる人を探す。
エレーユは男性の結構好みがはっきりしているし理想も高い自覚はあるけれど、もう選り好みはしない。
好きだと言って優しくしてくれるなら顔は中くらいでいいし、身長だって低くていい。身分も高くなくていいし、名誉ある仕事をしていなくてもいい。
最低条件は、『エルフリートで無い人』だ。
エレーユの相手がエルフリートでなければ、皆が幸せになれる気がする。
そんな事があった数日後。
王女メリエーヌは丁度、婚約者のクライスと食事をしていた。
飛竜騎士隊の隊長を務めるクライスは、隊の異動に伴って現在フレール渓谷の砦の守護に従事している。
フレール渓谷魔物が多く出ることを除けば、王国で三大観光地の一つに数えられる美しい渓谷で、近くに大きな観光都市もある場所だ。
王都から馬車で半日の遠い場所にあるので、わざわざ王都まで会いに来てくれてご苦労とクライスを労わると同時に、メリエーヌは友人のことを思い出した。
「時にクライス。エレーユっているだろう?私の親友の」
「ああ、エレーユちゃんがどうした?」
クライスは綺麗な青い目をメリエーヌに向け、食事の手を止めた。
「あの子の婚約者、クライスと仲が良かったね?」
「エルフリートだな。仲はいいぞ。あいつは優秀で良い奴だ」
「そうか、では単刀直入にいこう。その彼だけど、実はエレーユとの婚約をよく思っていないのではないかな?」
顎を撫でたメリエーヌがそう質問すると、クライスは驚いた顔をした。
予想外の質問に、「まさか」と声を上げる。
「エレーユちゃんのことをよく思っていない?エルフリートが?なんで?」
「彼は、エレーユとはカップルではないと本人の前で言い切ったらしいぞ」
「ええ?なんだそれ。あいつちょっと天然で口下手なところがあるけど、それにしてもそんなこと言うか?いやでも、あいつがそんなこと言うとは思えないな」
「でもエレーユから聞いてる限り、彼はエレーユの事を良く思ってないみたいだよ」
「え?うーん、それは流石にないような気がするけどな」
「根拠は?」
「まあ色々あるが、たとえばこの間なんか……」
クライスが話し始めたそれは、一か月ほど遡ったある日のこと。
クライスは警備の手薄な日にちの、穴埋め要員を探していた。
そこに丁度、エルフリートが歩いてくるのが目に入った。
「いいところにエルフリート。お前来週末、休日を返上して出撃できるか」
「来週末?」
歩くエルフリートの前を遮り、クライスは声をかけた。
エルフリートとは年も近くて仲良くしているから、多少無理を言っても聞いてくれるという算段だった。
しかしエルフリートは首を振った。
「駄目なのか?」
「ああ」
「お前に断られるのは珍しいな」
「すまない」
「何か特別な理由があるのか?」
「別の日なら問題ない」
「いや、俺は何で駄目なんだって聞いてるんだが」
「それは」
「何でだよ。教えろよ」
「……婚約者と会う」
エルフリートは、ふいっとクライスから目を逸らした。
「ほーん、成程ねえ」
「なにをニヤニヤしているんだ。もう行っていいか」
そそくさと立ち去ろうとするエルフリートの腕をガシッと掴み、クライスはエルフリートの顔を覗き込んだ。
相変わらずの無表情に見えるが、クライスは友人の勘で何となく察した。
これは、婚約者に会うのを相当楽しみにしているのではないだろうか。
「離してくれるか」
「いや、すまんすまん」
クライスはニヤけ顔を引っ込めて、パッと手を離した。
しかしその瞬間、はたとあることに気がついた。
「でもお前の婚約者って、王都にいるよな?来週末は連休でもないのに、フレール渓谷から王都まで往復するつもりなのか?」
「ああ」
「いや、いくらお前でも結構きついだろ。次の日は別働隊との合流もあるし休憩もろくに取れない日になるかも知れないぞ?」
「大丈夫だ」
「いやいや、やっぱり別の日にしてもらったらどうだ」
「彼女がその日がいいと言っていた。俺は大丈夫だ」
「そうか、お前がいいならいいけどさ。まあ、婚約者に会えると思えばそれくらい苦ではないか」
「……ってこともあったぞ。フレール渓谷に異動になってから長い間手紙が来ないとかで毎日朝晩ポストを確認していた時もあったみたいだし、あいつは普通にエレーユちゃんに惚れてると思うけどな」
メリエーヌはクライスの話を聞いてから、ゆっくりと首をひねった。
「話に聞いてるのと随分違うね。彼は嫌いな相手と会う為に遠路はるばる訪ねる人間だろうか?」
「いいや。誰だって、嫌いな相手とはたとえ隣に住んでいようと会いたくない。好きな相手であれば地の果てにでも会いにいくけどな」
「そうだね、私もそう思う。しかしエレーユの話を聞く限り、やはりエデンバーグ次男はエレーユを好いてはいない」
メリエーヌはエレーユから聞いた、いかにエルフリートがエレーユに興味がないかを表すエピソードを簡単にクライスに話して聞かせた。
静かに聞いていたクライスは、話がひと段落したところで小さく頭を抱えた。
「やっぱり、エルフリートはエレーユちゃんに興味がない……?いや、絶対そんなはずはないと思うけどな……」
「エレーユの話ではエデンバーグ次男は非常に冷酷で、愛されている気はおろか気にかけてもらえている気さえ微塵もしないらしい」
「いやでも、俺にはエルフリートがエレーユちゃんを蔑ろにしているようには見えなかった……何かの誤解じゃないか?エルフリートはちょっと口数は少ないし不愛想に見えるかもしれないけど、俺の目から見たら普通にエレーユちゃんに惚れてる」
「クライスはそれを本人に直接言葉で聞いたのかい?」
「……いや。そう言う話はあまりしない。特にエルフリートとは」
「そうか。エレーユの方ははっきりと言っていたよ。婚約破棄をしたい、とな」
「え?」
メリエーヌの言葉にハッと青ざめたクライスは、フォークに刺していた野菜を取り落とした。
落ちた人参のグラッセが、白い皿の上で驚いたように横たわっている。
「婚約破棄?エルフリートのやつ、そんなにエレーユちゃんに嫌われてるのか?そりゃ、色々とやらかしてるなとは思ったけど、でもあいつは悪いやつじゃない」
メリエーヌは落ち着くようにクライスに言いながら、腕を組んだ。
メリエーヌは喋りながら器用に食事を終わらせていて、まだ手付かずの肉を残しているクライスの皿をチラリと見た。
そして、はあとため息をつく。
これは残っている肉に対してではなくて、ままならないもどかしさへのため息だった。
「私はね、エレーユに婚約破棄の暁には、クライスの友人を紹介してくれとも頼まれたんだよ。エデンバーグの次男よりいい男をお願い、とね」
それを聞いたクライスは眉を寄せ首をブンブンと振った。
「いやいやいや、そんな簡単に紹介できない。それにだ。何よりもまず、エルフリートよりいいやつなんて、そうそういないぞ?」
「そうだね。竜騎士団のエースで家柄も申し分なく、何より顔がいいエデンバーグの次男以上なんてそうそういないと言うのは私も同意見だよ。あの面食いのエレーユが唯一『まあまあ』と言った相手だ」
「顔もそうかも知れないが、エルフリートは穏やかで責任感があって、無言実行をするような真面目な男だ。性格も申し分ないと俺は思う」
友人の贔屓目もあるのだろうとメリエーヌは熱弁するクライスを受け流し、続けた。
「私はエレーユと赤子の頃からの仲だから彼女のことはよく知っている。ああ見えて素直ではないエレーユが言う『婚約破棄』はそのままの意味ではないと思う」
「ん?じゃあどんな意味なんだ?」
「あの子はね、きっとエデンバーグの次男に惚れてるんだよ。だから本当は婚約者でいたい。でも、好かれていないから、これ以上傷つかないように自分から諦めようとしている」
元々ガードが堅くて、どの男性に対しても「興味ない」「好みじゃない」と言っていたエレーユが、唯一エルフリートだけは「まあまあ」と言っていた。
「まあまあ顔が良くて、まあまあ穏やかで、まあまあ雰囲気が良かったわ」
エレーユが「まあまあ」というなんて、きっと相当好みだったのだろうと思った記憶が在る。
そして相手が素っ気ないことにヤキモキするのだって、その相手に好きになってもらいたいからに他ならない。
どうでも良い相手との婚約破棄なら友人に宣言するまでもなく、婚約破棄の書類を送りつけて終わりにすればいいだけの話なのだから。
「私はね、エデンバーグ次男がエレーユを想ってくれているのだったら、これ以上に理想的な結末は無い、エデンバーグ次男がエレーユと結婚してくれたらいいなと思っているんだよ。エレーユには、好きな人と結ばれてほしいんだ」
メリエーヌがクライスを好きになった時にエレーユが全力で助けてくれたように、メリエーヌもエレーユには幸せになって欲しい。
「だけど、エデンバーグ次男がエレーユのことをどうしても愛してあげられないと言うのなら、はっきりと振ってあげてほしいとも思っている」
「エルフリートがエレーユちゃんを振るなんてことはない……はず……でもメリエーヌの話を聞く限りだと……うーん」
クライスは渋い顔をして考え込んだが、しばらくして、あっと顔を上げた。
「来月、剣武祭がある!」
「それがどうかしたのかい」
「エルフリートは飛竜部隊の代表者だ。大会で優勝すれば宝剣の授与があるだろう!」
「ああ、あれか。クライスが優勝して私からの宝剣の授与を望んでくれたことが思い出されるね。君は私との婚約を陛下に認めさせるために、あの公のイベントを使ったんだ。優勝者は一番大切な人を宝剣の授与者に指名できるのだから」
「そうだ。エルフリートは目立ちたがらないが、実力的には優勝候補だ。だから、エルフリートは優勝すれば絶対、エレーユちゃんに宝剣を渡してほしいと頼むと思う」
「そうだろうか。彼はエレーユをそこまで想っているのかな?」
「想って、いると思う……いや、どちらにせよ、エルフリートが優勝すればはっきりするはずだ。エレーユちゃんのことを大好きなのか、そうではないのか」
興奮気味のクライスを静かに見ながら、メリエーヌは不安そうに頷いた。
「それは……残酷なまでにはっきりとしそうだね」




