81:溢れ出す……
結局、私は数ある楽譜の中から無難な旋律の曲を選んだ。
とはいえ、音痴な人間にとっては普通に難しく、発声練習の時点ですでに躓いている。
「あー、ああー♪ あー?」
「ブリトニー嬢、腹式呼吸が大事ですよ? 腹式呼吸は気持ちをリラックスさせる効果もありますし、ダイエットにも良いんです」
一言多いルーカスと、ウキウキと楽器を抱えて伴奏するマーロウが、基本的な発声の指導をしてくれていた。
音楽教師も匙を投げるレベルの私に、よく付き合ってくれているなと思う。
リカルドは、じっと私の練習を見学していた。恥ずかしい……
多少声が出るようになったところで、歌を歌ったが……出来の方は芳しくない。
さすがのマーロウも、私の音感を矯正することはできなかった。
歌のエリート、ルーカスは遠い目をしている……
「も、申し訳ないです」
二人の王子の目の前で恐怖のブリトニーリサイタルを開いてしまった私は、練習が終了するとすぐ部屋を後にした。
マーロウとの練習はこれからしばらく続くので、再びこの場所へ戻ることになるだろう。
少しでも歌が上達すればいいなと思う。
城の廊下を歩いていると、後ろからリカルドが追ってきた。
「ブリトニー! この後、時間はあるか?」
「これから、香水の布教活動をする予定だけど」
「可能なら、俺も一緒に回っていいか?」
「もちろん。でも、つまらなくない?」
「いや、俺もブリトニーの香水には興味がある。あと、応援したいと思っている」
王都では例のフェロモン香水が流行っており、リュゼも大きな被害に遭っていた。
リカルドとしても、あの臭い香水を撲滅したい気持ちがあるのかもしれない。
リュゼが声をかけてくれた貴族を中心に、香水の良さをアピールする。
従兄には、学生時代に築いた王都の人脈があるのだ。
(そう考えると、お兄様ってすごいよね。私の人脈なんて、ノーラやリリー、リカルドたちくらいだもの)
領地に引きこもっていた私にとって、多方面で活躍するリュゼは眩しく見えた。
とはいえ、他人を羨んでいても仕方がない。
私は自分にできることをするだけだ。
※
結果的に、香水の布教活動は上手くいった。
フェロモン香水を使用している貴族の奥方や令嬢たちの中にも、薄々「これ、臭いんじゃない?」と思っている、まともな感覚の人たちがいたのである。
しかし、他の貴族女性とのお付き合いもあり、我慢して流行の香水をつけていたらしい。
ハークス伯爵領の香水は、そういう女性たちに喜ばれた。
小さな入れ物に各香りのサンプルを入れ、様々な香りを試してもらうと、彼女たちは香水を大量購入してくれた。
私についてきたリカルドも、臭い香りを纏った人間が減りそうでホッとしている。
(貴族女性たちの購買意欲が上がった理由には、ここにいるリカルドも関係していそうだな)
リュゼやマーロウが身近にいるので麻痺しそうだが、リカルドはかなりの美形だ。
そんな彼が私と一緒に勧める香水……
何もなくても、「一度手に取ってみよう」、「試してみよう」という気が沸き起こったに違いない。リカルド様様だ。
(一応、フェロモン成分も入っているものね!)
ついでに付けまつ毛の宣伝もすると、面白そうだということで若い令嬢たちがこぞって購入してくれた。
既存製品の化粧品の新色や、新しい香りの石鹸なども飛ぶように売れている。
ハークス伯爵領は年々収益を上げており、借金も完済した今は新たな領域に乗り出そうとしている。
水路の建設などがそうだ。
だいぶ前に私が言い出した温泉に関しては、未だにリュゼからスルーされているが、新しく入浴剤なるものを作ったので、温泉のない王都では普通の風呂にそれを入れて使っている。
私の作った入浴剤は、ノーラの領地で取れた鉱石から作り出した重曹に、デンプンを発酵させたものから作ったクエン酸を加え、そこに精油やトウモロコシの粉、そして水を混ぜて練ったものだ。
それを型に入れて乾燥させて保存している。
(こっちも、王都で流行らせたいな)
重曹やクエン酸は、単体で掃除にも使えるので、ハークス伯爵家の使用人たちに好評だ。
現在、メイドのマリアがそれとなく城の使用人たちにアピールしてくれている。
香水の宣伝も終えたので、私はリカルドと喋りながら城の中央にある広い中庭を散策する。
他人の目に触れることが多く、綺麗な花も咲いているこの場所は、恋人同士の逢引の場によく使われるのだとか。
ちなみに、情報の出所は城の住人アンジェラである。
そんな場所で、リカルドと散歩をしていると思うと、ついドキドキしてしまう。
いつの間にか、右手を繋がれているし。
(いやいや、リカルドとは婚約保留中だから。向こうも親切なだけで、私のことをどうこう思っているわけではないから!)
私は、余計なことを考えそうになる自分を戒めた。
(だいたい、こっちだって、リカルドを異性として意識しているわけではないもの……たぶん)
一人で色々と思い悩んでいる私に、リカルドが心配そうな目を向ける。
「ブリトニー、大丈夫か? 仕事で疲れているのではないか?」
「だ、大丈夫! ちょっと、ボーッとしていたみたい。ごめんね」
「責めているわけじゃない。このところ領地関連の仕事をしたり、運動をしたり忙しそうだったから、少し心配になっただけだ」
「ありがとう。大丈夫だよ、運動に関しては自業自得だし」
「そうか……」
と言いつつ、リカルドは私の言葉を信用していなさそうだ。
私の右手を握ったまま、顔を近づけてくる。
綺麗な緑色の瞳に見つめられ、心臓が大きく跳ねた。
「ブリトニー。王女殿下の命令で、お前がダイエットをしているというのはリュゼから聞いた。一ヶ月後の茶会に間に合わせるよう必死だともな。だが、俺は……ブリトニーがブリトニーのままなら、体型は関係ないと思う。お前は、そのままで充分、その、魅力がある」
少し赤い顔のリカルドは、私に向かってそう訴えた。
言葉が尻すぼみ気味なのは、照れているからだろう。
けれど、彼のまっすぐな不意打ちは、ひどく私の胸を打った。
そんなことを言われたのは、生まれて初めてで、思わず息を呑む。
「……リカルド、あ、りがとう。う、嬉しい」
感情が高ぶり、自然と目頭が熱くなった。
そんな表情を見られたくなくて、私は慌てて俯く。
「大丈夫か? 悪い、俺のせいか?」
「違う、リカルドは悪くない。そのままで充分だなんて、優しいことを言ってくれるから。感動して鼻水が出そうなの」
涙だけ出てくれば良いものを。
鼻水の量のほうが多いのは、さすがブリトニーというべきだろう。
リカルドは、無言でそっとハンカチを差し出した。
……男前である。












