73:婚約は予期しない方向へ
「……お兄様、今なんと言いましたか?」
十四歳の夏の午後、従兄のリュゼの執務室に呼び出された私は、用心深く彼に聞き返した。
「だから、リカルドとの婚約は保留にしておいたよ」
「……しておいたよ、じゃありませんよ。せっかく婚約の話が出たのに! どうして保留なんですか、理由を教えてください」
真夏でも涼しい顔の従兄は椅子に座ったまま、笑みを湛えた青い瞳で私を見つめる。
(やっとの思いで、彼から婚約してもらえる流れになったのに)
納得のいかない私は、ずんずんと従兄に詰め寄り、彼の前にある執務机に両手をドンと叩きつけた。
(今日は、何を言われようと引かないからね……!)
日頃はリュゼに言い負けることが多いが、婚約の話は譲れない。
なぜなら、私が安全に生きるためには、王都へ行かないのが一番だからだ。
少女漫画の原作の舞台は王都。そして、ブリトニーが悪役アンジェラの罪を押し付けられて処刑されるのも王都。
そんな危険な場所には近づかないに限る。
そして、私が従兄と約束して取り付けた「王都に行かなくてもいい条件」が、「十五歳までに婚約できそうな相手を見つけること」だった。
(ついにそれを達成したというのに、リュゼお兄様はどうして「保留」なんて意味不明な対応をしているの!? 私の二年間の努力は、一体なんだったの!?)
目の前にいる爽やかフェイスの従兄を殴りたい衝動にかられる。
(返り討ちにされそうだから、しないけど……!)
屋敷で働いている年配の兵士が言っていた。従兄は、祖父と同じく強いのだと。
私の両親が揃って領地からいなくなった後、ハークス伯爵領の後継ぎとなったリュゼは、幼い頃からしごかれ、剣の稽古に励んでいた。
「ブリトニー……さっきの質問だけど、理由は単純なことだよ」
脱線しそうになっていた私は、従兄の声で我に返った。
「今のリカルドに、今のブリトニーを渡すメリットがないんだ。彼はアスタール伯爵家の次男だ。本来なら領地を継げない身だし、この先は他の仕事をして生きていかなければならない」
「ですが、リカルドの兄であるミラルド様は病弱で、アスタール伯爵はリカルドに領地を任せる気でいると聞きました」
「それは確定じゃないだろう? ミラルドが元気になれば、リカルドが領地を継ぐ話がなくなるかもしれない。元気にならなくても、アスタール伯爵の気分次第でどうとでもなる問題だ。彼の将来は、まだ不安定。ブリトニーと婚約するなら、そこをなんとかしてもらわないと」
座りながら、器用に私の方へ身を乗り出したリュゼが話を続ける。
「以前なら、僕は喜んでブリトニーを彼の元に送り出しただろう。過去の君は、領地内にいるだけで浪費を繰り返す困った存在だったからね。出て行ってくれるだけで、万々歳だった」
「……お兄様、本音を隠しもしなくなりましたね」
「でも、今のブリトニーは違う。数々の商品を生み出してハークス伯爵家の借金返済に貢献してくれたし、その他の領地経営に関しても、なくてはならない存在になりつつある。そんなブリトニーを、領主でない人物に渡すのは勿体ないと思うんだ。それなら、うちに居座ってくれた方がいい」
「ですが、お兄様は私がハークス伯爵領にいると邪魔なんじゃ……」
「確かに、昨年まではそうだったけれど。両親が捕縛され、お祖父様が引退してしまった今、君は僕の障害になり得ない」
従兄のあまりの言い草に、私は心の中で叫んだ。
(なんじゃそりゃー!)
こっちは必死で痩せて、アンジェラの取り巻きから逃れようとしていたのに。ひどい話である。
「なんで、途中で約束を撤回してくれなかったんですか……?」
「君が元のブリトニーに戻る可能性を警戒していたからだよ。でも、今ならその心配は要らないと思っている。念のため二年間様子を見ていたけれど、浪費家に戻ることはなかったし」
それはそうだ。別人になったわけではなく、前世の記憶が蘇っただけなのだから。
「前にも言った通り、王女殿下の話し相手に推薦することはしないよ。しばらくは、ハークス伯爵家の令嬢として普通に過ごして大丈夫。リカルドにも話を通してあるから」
「えっ……リカルドに言ったんですか?」
「先日、仕事でアスタール伯爵の元へ向かった際に、夏季休暇中の彼に会ったからね」
「そうですか……そういえば、隣の領土にお出かけしていましたね」
アンジェラの取り巻きを回避できてホッとしたと同時に、なぜかリカルドと婚約できないことを残念だと思ってしまう。
私は思いの外、彼を気に入っていたようだ。
「それから……こんな話をした後で悪いんだけど、マーロウ王太子殿下が君を再び城に呼びたがっている、それも長期にわたって。一生とは言わないから、せめて十五歳の一年間だけという条件で王都へ行ってもらえないかな?」
「へっ……?」
「今回は僕も仕事で王都に同行するし、君の将来のことはきちんと考えているから」
「こっちの領地はどうするんですか?」
「管理は大丈夫。代理のお祖父様もいるしね……もし、彼が詐欺に引っかかったり、金の無心をされそうになっても、今なら僕の優秀な部下が阻止してくれるはずだよ。申し訳ないけれど、頼まれてくれないかな。さすがに王家の誘いを切り捨てることは難しくて」
どうやら、大人の事情で王都に行くしかなさそうである。
ブリトニーの処刑は十五歳の時ではないので大丈夫だろうけれど、なんとなく憂鬱な気分だ。
(私、どうしちゃったんだろう)
王都行きよりも、リカルドとのことでショックを受けてしまっている。
気がつけば、私は従兄の執務机に置かれていた菓子に、何度も手を伸ばしていたのだった。












