253:母子の関係
「……と思っていたの」
ぼそりとした母の声を私は聞き取ることができなかった。
それに気づき、母はもう一度口を開く。
「だから、母親として娘に何かしてあげたいと思っていたのよ!」
意外な言葉が出てきて、私はやや驚く。
「今まであなたに何もしてあげられなかったから。他国とはいえ侯爵と結婚し、ゆくゆくは王妃の侍女になるのが、あなたにとっていいと感じたの……余計なお世話だったでしょうけれど」
「そうですね。公爵夫人の罪悪感を解消するための、一方的な自己満足に巻き込まれても迷惑なだけです」
高位貴族の生まれである母にとっては、他国へ嫁ぐ王女の侍女になるのは、とても名誉なことなのだろう。
だが、私はリカルドとアスタール領で暮らす予定だし、王族の侍女なんてややこしい道は御免被る。
それは私の生き方じゃない。
公爵夫人はショックを受けたような顔になった。今さらそんな表情を見せられても困る。
きびすを返そうとすると、私を呼び止める声が上がった。
「お待ちください」
振り返ると、公爵家の使用人で一番立場が上であろう、執事服の老齢の男性が声をかけてきた。公爵家を訪れた際、いつも母のところまで案内してくれる人だ。
「ブリトニー様、ご無礼をお許しください。ですが、これだけはお伝えしたくて……」
母も驚いた様子で執事を見つめていた。
「ジェシカ様は不器用な方でして、口に出す言葉や手紙の内容と、ご本心が異なる場合がおありなのです」
「ちょっと!」
不本意そうに母が執事を睨む。
「私はジェシカ様がご実家におられる頃から、ずっとお仕えしています。ですので、彼女の考えていることがよくわかるのです」
リカルドが興味を持った様子で執事の話の続きを待っている。
「ハークス家を出た当初、ジェシカ様は大変傷心しておられました。それというのも、あの男……失礼、ブリトニー様のお父上に当たる方が、ジェシカ様を愛するような態度を取り続けていたからです。結婚してブリトニー様が生まれてしばらくしたのち、彼はジェシカ様のお金を持ち逃げしてダン子爵家の人妻と駆け落ちしました」
改めて聞くと、父親の駄目男ぶりがすさまじい。
つまり、父は母を騙していたということなのだろうか。
「一人残されたジェシカ様は酷くプライドや心を傷つけられ、ご実家に戻られたのです……本当はのちにブリトニー様を引き取る予定だったのですが、あなたはハークス家の子。離縁後、不安定な立場になってしまった上に周りの反対にも遭い、結局ジェシカ様はブリトニー様を諦めました」
だとしても、実の娘を放置していた事実は変わらない。
もう親に関する感情は吹っ切れているので、怒りが湧いたりはしないけれど……ここで当時の話を出されても困るというのが本音だ。
「幸い再婚相手である今の公爵様はいい方で、ジェシカ様は前妻のお子様たちとも上手く関係を築くことができました。ですが、やはりあなた様が心配でハークス家に援助を申し出たり、ブリトニー様を公爵家に呼ぼうとしたりされていたのです。しかし、ジェシカ様の性格や言動がことごとく裏目に出て、ハークス側との関係はこじれにこじれ……誤解が誤解を生み、双方の仲は修復不可能になりました」
私は祖父やリュゼが母に悪い印象を抱いているのを思い出した。
執事の言葉を鵜呑みにしていいか迷いはあるが、彼らと母の仲が修復不可能なのには同意する。
「そうして、ジェシカ様は遠くからブリトニー様を見守ることになさったのです。ただ、ブリトニー様の婚約に関しては……アスタール家の評判も聞いていたので、ずっと心配しておられました。二回に及ぶ婚約破棄にミラルド様の事件など不安な要素が多かったですからね」
それで、アクセルとの話を一方的に決めて、私に手紙を送って寄越したようだ。
(心配だからって、何をしても許されるわけじゃないんだけど。全部私の意見を無視してるし)
うろんな表情を浮かべるだけの私とは違い、リカルドは執事の話に誠実に答えた。
「たしかに、かつての俺の行動は浅はかなものだった。公爵夫人が不安になるのも、もっともなことだ。だが、今の俺はブリトニーを心から大切に想っている。誰に何を言われようと、結婚を取りやめる気はない」
リカルドは真摯な目で公爵夫人や執事の方を見据える。
「どうか、これからの俺の行動を見張っていてほしい。決してブリトニーをないがしろにはしないつもりだ」
真剣な彼の言葉に触発され、私もリカルドの手を取って顔を上げる。
「私はリカルドと一緒に未来を歩んでいきたい。私は彼と支え合って生きていきます」
「でもっ……! 今のアスタール領では、あなたは万全に暮らせないわ」
母は身を乗り出した。
彼女の価値観は私とは違う。おそらく、わかり合えないだろう。
だから、私は自分の気持ちをまっすぐ伝えるだけだ。
「あなた方はリカルドの表面上の噂しか聞いていない。もっと彼について知れば、ご理解いただけると信じています。私は別に全てを与えてくれる完全無欠の人物に守られて養われて、用意された万全な道の上を歩きたいわけじゃない。共に支え合って、仲良く歩んでいける相手を必要としているんです……それにね、どこへ行ったって、『万全』が保証される場所なんてありませんよ」
言いたいことは全部伝えた。話は終わりだ。
私はリカルドの手を引いて「帰ろう」と呼びかける。
だが、リカルドは母へ目を向けたままだ。
「気が向いたら、アスタール領へ遊びに来てください。観光地として国内の貴族がよく訪れる場所でもありますので」
何が起きたのかわからない。
ただ、リカルドと母たちの間にあった張り詰めた空気が、多少緩和されたような気がした。
ようやく動いてくれたリカルドを引っ張り、私は公爵家をあとにする。
馬車に乗り込んだ私は、やや憤慨しながらリカルドを見た。
「リカルド、公爵夫人なんて放っておけばいいのに」
しかし、リカルドは苦笑するだけだ。
「そうもいかない。ブリトニーの実の母親じゃないか」
「でも……」
あれだけ酷いことを一方的に言われて、それでも優しくできるリカルドはすごい。
すごいけれど、それを端で見ている私は、母である公爵夫人に腹が立つばかりなのだ。
「公爵夫人は悪意があるわけではないと思う。ものすごく不器用な人だが……」
「不器用だからといって、失礼な行動が許されるものではないでしょう?」
「否定はしない。だが、公爵夫人はブリトニーとの和解を望んでいるんだろう。なんとなく、そんな気がした」
「そうかなあ?」
もし彼の言葉が事実だとしても、実現するのはまだ少し先になりそうだ。
でも、両者の関係を心配するリカルドが、第三者として解決してしまいそうな気もする。
いろいろな可能性を考えつつ、私はリカルドと一緒に馬車に揺られた。












