208:とんでもない令嬢(リュゼ視点)
「リリー嬢、書類に適当にサインしちゃ駄目だよ? こういうのは誤魔化しがないか、不当な内容が含まれていないか確認しないと。わからない部分は、ちゃんと自分で調べる。ほら、担当に質問してきて」
「で、でもぉ。いちいち聞いて回っていたら、キリがありませんわよ? リュゼ様は理解できているんですよね? ここで私に教えてくださる方が……」
「自分で動いた方が覚えられるよ。慣れてきたら、早くできるようになるから。いってらっしゃい」
「そんなぁ……」
フラフラと執務室から出て行くリリー。前途多難だ。
……思った以上に、彼女は仕事ができなかった。
まず、令嬢とは思えないくらい字が汚い。外に出す手紙などは、代筆者に依頼していたようだ。
今まで全く関わってこなかったので仕方がないが、仕事の覚えも悪かった。
子供の頃から鍛えられているリカルドや、精神年齢不詳のブリトニー、天才少年執事ライアンと同列に考えてはいけなかったらしい。
(他人の指導って、難しいな)
リリーがいないうちに、手早く書類を仕分けて執務室の片付けを進めていく。
書類の山の中には機密書類なども混じっているため、この部屋は使用人が掃除していないらしい。そのような状態が一年近く続いていたのだとか。
床に落ちている菓子くず、テーブルの上にたまっている埃、棚の下でカサカサと動く黒い虫……
(仕事机の上は一応拭いたけど……よく、こんな部屋で仕事できるよね)
とにかく、一刻も早く機密書類を分け、使用人に掃除に入ってもらわなければ。
あんな黒い虫と同室したくない。ブリトニーの作った、唐辛子スプレーは効くだろうか。
(おちつけ。ここはよその屋敷――昔、お世話になったアスタール家だ。ハークス家の中みたいに本心を言葉に出してはいけない)
僕は自分に暗示をかけた、いつまで保つかわからないけれど。
書類の内容は、簡単な領地内のやりとりが中心だ。
仕分けていると、大きな盆を持ったリリーが笑顔で帰ってきた。
「リュゼ様~、そろそろお茶にしませんこと? 私、メイドにお願いしてお菓子を持ってきましたの」
「そろそろも何も、全く仕事が進んでいないけれど。リリー嬢、さっきの書類の確認はできた?」
「担当者が外出しているみたいなの」
だったら、早く戻ってきて別の書類に取りかかって欲しい。
(なのに、どうしてお茶の準備なんてしているの!?)
何を考えているのかわからない。リリーが未知の生き物に見えた。
裕福な領地で暮らす天真爛漫な貴族令嬢。彼女には、どこか憎めない愛嬌がある。
屋敷の者は全員リリーに弱く、彼女は今まで甘やかされて大事に育てられたのだろう。
どこかへ嫁ぐだけなら、それでよかったのかもしれない。リリーの愛嬌にやられて、その他に目をつむる夫もいるはずだ。
だが、伯爵としての仕事をするなら、甘い考えは捨てる必要がある。
(元伯爵も、現伯爵も、リリーに絆されているんだろうなぁ。この状態をずっと放置していたくらいだし)
可愛がられ、なんだかんだで何をしても許されているリリー。
(面倒な仕事に手を出してしまった)
早く屋敷に帰りたい。そのためには、ひとまず書類の山を片付けなければ。
「ねえ、リュゼ様。ちゃんと休憩しましょ? 仕事にのめり込みすぎるのは毒ですわ」
未知の生き物は、鼻歌を歌いながら埃の積もったテーブルの上に菓子を並べ始めた。
扉の外に待機させているメイドから、ティーセットも受け取っている。
とてもではないが、こんな場所でお茶を飲む気にはなれなかった。
「リリー嬢、僕はキリのいいところまで仕事を終えてしまいたいから、先にお茶していてくれるかな」
「ええーっ……残念ですわね」
リリーはさっさとお茶を入れ、お菓子タイムに突入した。
まだ、仕事が一つも進んでいないというのに……書類の山が増える一方なわけだ。
しばらくして、お菓子タイムを終えたリリーが仕事に戻ってくる。埃まみれのお茶会を回避でき、僕はホッとした。
「リリー嬢、この資料を持ってきてくれるかな」
「はい! これでしたら、私にもわかりますわ! こっちの棚で……きゃああーっ!!」
何もないところで躓いたリリーは、そのまま棚に激突した。本棚に乱雑に突っ込まれた資料が、一斉に彼女に降りかかる。
山に埋もれた彼女を救出した時には、目当ての資料の場所が全くわからなくなっていた。
「まあ、大変! 資料を見つけな……きゃああーっ!!」
今度は資料を踏んづけてバランスを崩し、なんとか踏ん張ろうとテーブルクロスを引っ掴むリリー。
(なぜそこで、テーブルクロスを掴む!?)
もっと大惨事に繋がることが簡単に予想できるのに。
案の定、テーブルクロスごと、お菓子の残りや、お茶セットなどが床に落下して資料を濡らした。
……また、仕事が増えた。












