207:とんでもない依頼(リュゼ視点)
家を出てしばらく、僕――リュゼ・ハークスは馬車に揺られている。
ここ数年で、領内の景色は著しく変わった。
静かな街中には活気が溢れ、荒れた寂しい街道には畑が増え、人々の表情もどことなく明るく感じられる。
王都の学園を卒業してすぐ、僕は領地のために本腰を入れて働き始めた。
辛い日々が、今では遠い昔のことのようだ。
今回の目的地はアスタール伯爵領。リカルドの叔父に当たる人物が助けを求めてきた。
昔世話になった、リカルドの父親も一緒だ。
(僕にできる仕事なら、なんだってしたい。それくらい、彼らには助けてもらったから)
南下して、アスタール伯爵領内へ入る。
ミラルドの一件で領地が半分になっても、様子が大きく変わることはなく、アスタール伯爵領は相変わらず豊かな場所だ。
アスタール伯爵家へ足を踏み入れると、着飾ったリリーが飛び出してきた。
リカルドの従妹である彼女は、僕の前まで来ると、ちょこんと令嬢らしいお辞儀をしてみせる。
「リュゼ様ぁ! お目にかかれるのを楽しみにしておりましたわ」
よくわからないけれど、リリーは昔から僕に懐いているようだ。
それにしても、彼女も大変だと思う。
突然起こったアスタール領の事件、両親に降ってきた伯爵位。
おかげで、リリーは大きく人生を変えなければならなくなった。
余所に嫁ぐはずだったが、婿を取り領地を支える立場になってしまったのだ。
嬉しそうな彼女を、父親がたしなめる。
「リリー、はしゃぐのは後にしなさい。ハークス伯爵――リュゼ殿には大事な用で来てもらったのだから」
「はい、そうでしたわね」
リリーの父親に応接室へ通される。そこには、リカルドの父親もいた。
彼らは現在、兄弟で領地を管理しているのだ。
二人とも、しっかりした人物なので、アスタール伯爵領は大きな問題を抱えることもない。
ただ、跡を継ぐ人間がいない状態だけが、気がかりのようだった。
次期伯爵になる彼女の伴侶に見合う人間が、なかなか見つからないのだとか。
リリーを気に入った相手から声がかかることがあるのだが、全員が能力的に微妙というか……マイナスらしい。
親戚内にも、養子に迎えるに足る人物がおらず、困っているとのこと。
「こうなったら、リリーに頑張ってもらうしかないと思いましてな」
「……と言いますと? ノーラ嬢のように、彼女が女伯爵になるのですか?」
「リリーが伯爵業をこなせるくらいしっかりしていれば、どんな無能が婿に来ても安心です。ええ、仕事ができずとも、余計なことをしない相手ならいいのです」
「そうですか。それで、大事な用とはなんですか?」
「ああ、そうでした。実は、リリーに伯爵業について教えてやって欲しいのです。我々も手を尽くしたのですが……なんというか、上手く伝えることがなかなか難しく。ブリトニー嬢やリカルドを指導しているリュゼ殿なら、良い方法を思いつくかもしれないと思いまして。あなたで無理なら、他に手立てを考えなければなりません」
元伯爵と現伯爵は、揃って険しい顔をしている。
「最悪、リカルドがリリーの婿に収まってくれれば……などと考えるのですが、ブリトニー嬢との仲を思うと、言い出し辛く。それならば、リリーに伯爵向けの教育を施す方がいいと思いましてな。幸い、我々もまだ健在ですし」
「なるほど。僕で良ければ、お二人に協力しましょう」
「かたじけない。我々だけで対処できたら良かったのですが」
二人の物言いは、やや大げさだと思う。
仕方がない、さっさと済ませて領地に帰ろう。
「ではリリー、さっそくリュゼ殿を、お前の執務室へ」
「はい、お父様……って、今は駄目ですわ! 執務室は……」
「いいから、早く行きなさい。リュゼ殿をお待たせしてはいけない」
強引な現伯爵に連れられ、僕とリリーは執務室へ向かった。のだが……
現伯爵が扉を開けた瞬間、ものすごい光景が僕の目に飛び込んできた。
「……っ!?」
うずたかく積まれた書類の山、丸められた紙くずの海、散乱した文房具の丘に、リリーのものと思われる私物の砦。
それらが、執務室中に散らかっている。
「ああ~、お父様の馬鹿! だから言ったのに。リュゼ様に見られちゃったじゃない」
リリーが父親に憤慨している。
(それにしても、今まで、こんな汚部屋は見たことがない)
過去のブリトニーでさえ、ここまで酷くはなかった。
「リリー、どうして仕事部屋にドレスやぬいぐるみが置いてあるんだ」
「そう言われましても、一日の大半をここで過ごすんですもの。紙と文房具しかないのは、落ち着きませんわ」
「ああっ! この書類は……大事な取り引きの契約書じゃないか! 紅茶の染みが……!」
「えへっ」
現伯爵は娘に説教を始めた。前伯爵はそれを眺め、「またか」とため息をついている。
「リュゼ殿、見ての通りです。リリーは社交に優れていますが、壊滅的に書類仕事が苦手なのです。あと、部屋の片付けができません。メイドたちも頑張って片付けてはいるのですが、書類は勝手に見たり手を出してはいけない決まりなので。執務室は散らかっていることが多い」
「意外ですね」
「我々も、それぞれ仕事がありますから、リリーにばかり構っておれませんし。少々荒療治ですが、あなたに注意されれば、リリーもなんとか頑張ってくれるのではと」
「わかりました。やれるだけやってみましょう」
メイドに掃除してもらうにしても、先に書類の仕分けをしなければならない。
「とはいえ、部外者の僕がアスタール家の書類を見てもいいのでしょうか」
「そこにある分なら大丈夫。リュゼ殿なら信頼できるしな」
なら、遠慮なく拝見させてもらおうと思う。
ハークス伯爵領経営の参考になるかもしれないので。
「リリー嬢、書類を仕分けるよ。先に仕事に関係のない私物を外へ運んでくれる?」
「は、はい、リュゼ様!」
相手はリリーなので、身内のブリトニーよりは甘めに指導したほうがいいだろう。
書類仕事は、コツさえ掴めばなんとかなるのだ。
……と予想していた僕は、甘かった。
後悔するのは、そのわずか数刻後のことだった。












