158:頑張る婚約者
父と祖父の言い争いが徐々に止んできた頃、リカルドの手が私の耳から離れる。
身内の争いを、リュゼは冷めた眼差しで観察しているようだった。
怒鳴り合いを続けていた息の荒い父が、リュゼに問いかける。
「リュゼ君、君はどう思うかね!? 私の帰還に異論はあるのか!?」
熱く尋ねられたリュゼは、冷静に言葉を返した。
「うーん、そうですね。今はお家騒動なんてしている暇、ないんですよねぇ」
ニッコリ。
その恐ろしい微笑みを受け、私とリカルド、そして祖父に戦慄が走る。
(赤信号、まぎれもなく赤信号が灯っている!)
どれだけ父がわめこうが、今の伯爵家は彼の支配下に置かれているのだ。
無責任な元伯爵に従うような者は、私を含めて誰もいない。
だが、本人も主張しているとおり、いくらリュゼが祖父の養子に入っていても、血筋でいけば父が有利。
(とにかく、私はリュゼお兄様の味方だから! 一番大変な時期に行方を眩ませて、領地が潤ってきたら戻ってくるなんて、そんな身勝手な人を迎え入れたくないし。だいたい、リュゼお兄様を補佐にするって……それ、今まで通りに仕事をさせて、自分だけ美味しいところを取りたいと言っているようなものじゃん)
三歳からのブリトニーは、両親が恋しくて暴食に走った。
しかし、目の前にいる父は、恋しがる価値などない人物……本物のロクデナシだ。
沈黙した私たちの中で、か細い女性の声が響く。
「あ、あの……」
父が連れてきた愛人……ケビンの母親だった。
息子には似ず、気弱そうで小動物系の彼女の年齢は、三十代半ばから四十歳くらいだろうか。
ふるふる震えながら言葉を発している様子は哀れみを誘う。
「ごめんなさい。わ、私、知らなくて……こんなにも、歓迎されていないなんて。ソロ様に、心配することないなんて言われたものだから。でも、そうですよね。虫の良すぎる話ですよね」
ちなみに、ソロというのは、私の父親の名前だ。
ケビンの母親は、見るからにやつれていた。よく見てみると、父の顔も年の割に老けていて、今までの苦労が見て取れる。
意地でも、伯爵家にしがみつきたいのだろう。
それには、祖父やリュゼも気がついているようで、とりあえず、屋敷の離れに移り住んで貰うことにし、領主の座については引き続きリュゼが続けることが決まった。
とはいえ、父本人は納得していないようだ。
私たちは、彼が勝手なことをしないか目を光らせることにした。
※
書斎から出た私をリカルドが追ってきた。リュゼは祖父と話があるようで部屋に残っている。
リカルドは心配そうに私の顔を覗き込んだ。
「大丈夫か、ブリトニー」
優しい彼の言葉に、私はコクリと頷いた。今更、父の言葉で傷ついたりなどしないのだ。
「うん、平気」
血は繋がっているが、私にとって父は他人も同然……ただの困ったオッサンでしかない。
しかし、リカルドは、そっと手を伸ばして私の頬に触れた。
「不愉快な思いはしただろう。ちゃんと守ってやれず、すまない……」
「リカルドの立場じゃ、お父様に強く抗議できないよね。私があなたでもそうだよ」
彼は私の婚約者であるが、今は仮の扱いだ。伯爵家の当主はリュゼだし、微妙な立場である。
(きっと、リュゼお兄様がリカルドを認めた理由の一つは、彼がお父様のように伯爵の座を狙うような野心家ではないからだろうなあ)
他の貴族では、私の夫という地位を笠に着てリュゼに喧嘩を売る者もいるに違いない。
そういう馬鹿らしいお家騒動は、今の領地を経営する上で百害あって一理なし。リュゼも私も極力避けたかった。
「俺は、もっとブリトニーに相応しくありたい。早くそうならなければ……」
「リカルドは十分頑張っているよ。慣れないうちの領地で、既にお兄様の片腕になっているもの。焦らなくても大丈夫。それに、私は何度も精神面であなたに助けられているんだから」
たぶん、リカルドに自覚はないだろうが、彼は何度も私の心を救ってくれた。
リカルドのおかげで、私は大嫌いだったブリトニーを受け入れることが出来たのだ。
「ブリトニー……」
ゆっくりとリカルドの顔が近づいてきて、私はそっと目を閉じた。
しかし、いつまで経っても彼の唇が私に触れることはない。
(あれ? キスじゃなかった?)
恐る恐る目を開けてみると、リカルドが直立不動で固まっていた。
そうして、彼の背後には、ニッコリ微笑む悪魔の姿が……!
「リュゼお兄様……!? いつの間に……!?」
リカルドの後頭部をわし掴みにしたリュゼは、傍目に爽やかに映る笑顔で告げた。
「言ったよね、リカルド? 結婚まではブリトニーに手出し無用と……」
「ぐっ……」
どうやら、キスも駄目なようだ。
私たちは、大人しく引き下がることしか出来なかった。リカルドの道は、まだまだ険しい。












