100:原作開始に向けて
北の国を撃退してから半年が経ち、季節は冬になった。
ハークス伯爵専用の仕事部屋は、今やすっかりリュゼの居場所になっている。
古びた棚や机の上には、整えられた書類が山ほど積まれていた。
祖父が伯爵だった時は、書類はあちらこちらに散乱し、見つからないことが多かったけれど。
リュゼの部下たちもキビキビと働き、どんどん書類を処理していく。
かつて私が勉強を教えた使用人の子供――ライアンも、見習いとして仕事を頑張っているようだ。
もうすぐ十六歳になる私は、従兄の仕事部屋を訪れた。
少し前から、リュゼに相談していることがあったのだ。
「ブリトニー。春から王都へ行きたいというのは本気なのかい? あれだけ嫌がっていたのに……」
「はい、アンジェラ様から勧誘がありましたので。彼女と仲良くなることができましたし、お受けしようと思います」
次期領主の地位を失ったリカルドは、アスタール伯爵領での仕事を終えて王都に戻るそうだ。
そこへ行けば、私は彼と会える。
自分から動かなければ、伯爵令嬢である私がリカルドと出会う機会はほぼなくなるだろう。
あんな状態になってしまった以上、用もなしに王都にいる彼に会うのは難しい。
そのまま月日は流れ、私は別の相手と婚約する……という流れになるはずだ。
相手が、どこの領地の誰になるのかまではわからないが。
(リカルドに会えたとしても、婚約は難しい。それは、わかっている)
簡単に彼のことを「好き」だとか、「婚約を諦めたくない」だとか言っても、現実はシビアだ。
けれど、このまま後悔したくない。
(原作で死亡する、マーロウ様のことも心配だし)
かつての従兄は、私が王都へ行こうが行くまいが、どちらでも良いという雰囲気だった。
しかし、今目の前にいるリュゼは、難しい顔をしている。
「話はわかった。で、いつまで向こうにいるつもりなんだい?」
「特に決めていないです」
「ブリトニーの社交デビューのため、どのみち王都に行かなければならないとは思っていたよ。けれど、君はこれからハークス伯爵領で活躍するものとばかり……」
澄んだ青い瞳に見つめられ、私は居心地が悪くなった。
確かに、私にはハークス伯爵領での仕事もあるのだ。
それらを放り出し、ずっと王都に滞在するわけにはいかない。
「そうですよね」
「春から領内の水路の建設が始まるし、アスタール伯爵領から『一緒に新事業を始めないか』という誘いも来ている。あちらの資源は魅力的だよね」
「……確かに」
「ブリトニー、君が望むのなら。ずっと、ハークス伯爵領にいてくれて構わないんだよ? その方が、僕も助かるし」
「お兄様、それは駄目です。私が嫁に行き遅れてしまいますよ」
「行き遅れたなら、僕がもらってあげる」
「また、そんな冗談を」
西の町での、リュゼとミラルドの会話が脳内で蘇り、落ち着かない気持ちになる。
(いやいや、絶対ないから! お兄様が私と婚約したがるなんて、ありえないから!)
年齢は五歳離れているし、従兄は他の令嬢にモテモテだ。
ノーラやリリー、アンジェラまでもが彼にときめいている。
(そんな人物が、白豚令嬢に……なんて、ないない。何を自意識過剰になっているの)
冷静に考えると、ドギマギしているのが馬鹿馬鹿しくなってきた。
私はリュゼの言葉を軽く聞き流す。
「それでは、王都には滞在できませんか?」
「こちらに戻ってもらうこともあるけど、それで良いなら構わないよ。僕も、王都とこちらを行き来することが多くなると思うし」
「住む場所は、アンジェラ様が用意してくださるみたいです。お金はあまりかかりません」
「お金のことは心配しなくていいよ。復興に予算を割くから、贅沢はさせてあげられないけれど。令嬢として恥ずかしくないように、出すべきものは出せるから」
「ありがとうございます」
歯切れの悪いリュゼの同意を得た私は、領地の仕事をしつつ、王都へ向かう準備を始めた。
もうすぐ、私は十六歳になり、春から物語の原作が始まるだろう。
少女漫画の通りなら、危険が待っているかもしれない。
でも、そうではないかもしれない。
リカルドは原作通りになってしまいそうだけれど、違う点もある――リュゼは死んでいないし、アンジェラの性格は改善された。
(大丈夫、私は処刑されない。アンジェラ様も、今ならメリルに意地悪なんてしない……はず)
希望はある。
そう信じつつ、私は再び仕事に取り掛かるのだった。












