第8話 農夫の母屋
山すそにそって走る。
しばらく行くと、遠くに川が見えた。
「あれがストルマ川か」
これはザクトが教えてくれた道だ。
村や街をつなげる決まった道を「街道」と呼ぶ。ラボス村から山あいの街道を行けば、コリンディアには着く。でも、それを行くといくつかの村や街を通るらしい。それより、教えてくれた行き方をすれば、ずいぶん早いとのことだった。
ザクトは父さんと昔からの知り合いで、この道を通ってラボス村によく行ったそうだ。
朝から駆けつづけてきたけど、空が赤くなりだした。そろそろ野宿する場所をさがさないと。
川のこちらは、たまに草むらがあるだけの荒涼とした土地だった。樹木も見ない。
むこう側をさがしてみるか。川むこうに、馬車が何度も通ったような轍が見える。おそらく馬車道だろう。
ストルマ川は、それほど大きな川ではない。ザクトの言うように浅瀬で岩が点々とあり、それを飛んでわたった。
馬車の轍にそってしばらく歩いていくと、麦畑がひろがっていた。その麦畑のなかに一軒の農家が見える。
軒先を借りれないだろうか?
ここまで平野で大きな樹もなかった。朝露をしのげる場所で寝たい。
家の前まで来て、敷地に踏みいるのをためらった。家は丸太と木の板でつくられた小さな家だ。その前には畑があり、葉野菜かなにかが育てられている。
これは、勝手に入らないほうがいいかもしれない。
「ぼくはラボス村のアトボロス。だれか、おられますか!」
敷地のまえから大声で呼んでみた。返事はない。もういちど呼んでみようかと思ったとき、木戸があいた。
「この日暮れに何用かの」
姿を見せたのは、犬人のおじいさんだった。
「ラボス村のアトボロスと申します。ひと晩の軒先をお借りできますか!」
おじいさんは、ぼくを見るとぎょっとして再び家に入り、木戸に隠れてこっちを見た。
「え、猿人族か」
やっぱり、まちがえられた。
「ぼくはラボス村、セオドロスの子、アトボロスと申します」
背負い袋をおろし、なかから手紙をだす。父さんが用意してくれた物だ。アッシリア軍への手紙とはべつに、ぼくがラボス村の者だと証明してある。
「ここに、父からの手紙もあります!」
「わしは字は読めん。セオドロスとな」
おじいさんは戸口から出てきた。ぼくを遠目から見つめる。
「似てはおらんの」
「血はつながっていません。赤子のときに拾われました」
父さんを知っている人のようだ。
「男鹿の子というなら、邪険にもできまいて」
父さんの通り名だ。母さんから聞いたことがある。この地では、かつて隣国の猿人族と大戦があった。そのとき雄々しく戦った父さんは「戦場の男鹿」と呼ばれていたらしい。
「わしはヤニスという。ここは、わし独りの家じゃ」
夫婦で麦畑をつくっていたが、二年前に先立たれたと言う。
「ここの納屋をつかいなさい」
小さな納屋に案内してくれた。ひさしの下にある水瓶の水も自由につかっていいと言われた。
ぼくは荷物から水袋をだして補充する。ちょうど水袋は空っぽになっていたところだ。
日は暮れてきた。
おじいさんに礼を言い、納屋にはいった。納屋のなかは鍬や手押し車などの道具がおかれている。
はしに積まれた麦わらを少しひろげ、寝床がわりにした。寝ころがると一日走り続けた疲れがでたのか、急に眠くなってくる。
うつらうつらしていると、物音に目がさめた。
なにかが納屋の上を歩いている。
ぼくは、うっすらと見える闇のなかで弓と矢を手にした。ゆっくり戸口にむかう。音がしないように木戸をあけ、夜の闇に身体をさらした。あの音のぬしはどこだ?
上から黒い影! 弓をぶつける。木の弓が折れた。それならと反対の手にある矢をにぎりしめた。この鏃を突き立ててやる。
「どうかしたかの」
おじいさんが出てきた。手にしたまきには火がついている。
「グールだ、気をつけて!」
おじいさんは辺りを照らした。
「山猫じゃ」
地面に黒い山猫が落ちていた。山猫の首は、あらぬ方向をむいている。
「弓が壊れてしもうたか」
おじいさんは弓を見ようと、ぼくの持っている弓をつかんだ。手を離そうと思ったのに、離れない。手は震えていた。
「ちょっと、こっちに来なさい」
おじいさんはそう言って、母屋の木戸をあけた。
母屋はしっそな造りだった。
部屋のまんなかに石を半円につみあげたものがある。簡単なかまどだ。奥の壁ぎわには寝台がふたつあった。
おじいさんは、かまどの前にある敷物に座った。手にしたまきをかまどにくべる。
「ここに座って、火にあたるといい」
火の明かりを見て、腕の震えがとまった。右手の矢を離し、こわばる左手の指を引きはがす。折れた弓が土間の上に落ちた。
ぼくも敷物の上にあがり、腰をおろす。
「グールと言うたの。さきほど」
ぼくはうなずいた。
「ひさしく見てない生き物じゃ。何かあったか?」
どこから話せばいいだろうか。ここ数日に起こったことを思いだしながら話してみる。
「なんと、ラボス村がの……」
おじいさんが長くなったあごの白い毛をさすった。ぼさぼさの毛の下に見える顔や首は痩せている。
「おまえさん、いつ村を出たんじゃ」
「今日の朝です」
「ラボスの村ぞ! ここから山を三つ超えねばならん」
「走ってきたから」
おじいさんは、ゆっくり腰をあげた。
「なんぞ、腹には入れたか?」
「いえ、今日はまだ」
おなかは空いてない。
おじいさんは鍋をかまどにかけた。次に大きな木の椀で水を入れる。
「ちょっと待っておれ」
そう言ってとなりの部屋に行った。となりの部屋は物置のようだ。しばらく待っていると、小さな麻袋と干し肉を手にして帰ってくる。
「おじいさん、ぼくは結構です!」
いまは秋。これは冬への備蓄だ。ふらりと来た他人が食べていい物ではない!
おじいさんは声を聞かず、麻袋から麦をひとつかみすると鍋に入れた。
「ぼくは要りません。おじいさんが食べてください」
おじいさんは笑った。しわのある目尻がもっと深くなる。
「いまは、わしの腹より、おまえさんの腹じゃ」
そう言うと、干し肉を小さくちぎって鍋に入れた。ひしゃくでかきまわす。
しばらく煮ると、おじいさんは鍋をおろした。まきをつついて崩し、火の勢いを弱くする。
「すこし冷めてから食うがよい」
おじいさんは、もう一度腰をあげ木のさじを取ってきた。ぼくにわたすと、寝台にむかう。
「食べたら、火のそばで眠りなされ。鍋は水を入れておいてくれるかの」
そう言って布団にもぐりこんだ。
「どれどれ、遅うなったわい。眠うてかなわん」
すぐに寝息が聞こえはじめた。ぼくは、かまどのそばに置かれた鍋をとる。
干し肉の入った麦粥だ。さじですくい、口に入れてみる。とくに味のしない柔らかい麦がおいしかった。ひとくち食べて初めて、空腹なんだとわかった。
ぼくは麦をひと粒どころか、ひとしずくの汁も残さずにたいらげた。
鍋を水場に持っていき、水瓶から水を入れておく。
火のそばにもどろうとして、折れた弓に気づいた。拾いあげる。三年ほど前に父に作ってもらった物だ。
弓はまっぷたつに折れている。弦でつながった二本の木をかまどにくべ、火を見つめて座った。
はじめて弓を教えてもらった日を思いだした。父さんだけでなく、母さんも弓が引ける。ラボスという山すその村で生まれ育ったふたりだ。若いころはふたりで狩猟に行ってたらしい。
敷物に落ちるしずくで、自分が泣いていると知った。かまどで燃える弓をのぞきこみながら、ぼくは泣いていた。
涙をふき、火が見えるように横になって丸まった。
あの山猫、殺すことはなかった。明日、埋めてやろう。
このまま眠れそうにないので、ずっと炎を見ておこう。そう思ったが、ぼくはいつの間にか、深い闇のなかに落ちていった。




