脱走術の使い方 3
大切なものってなんだろう?
大切なことってなんだろう?
大切にするってどういうこと?
大切に思うなら、逃げちゃいけない時もある…。
電気を付けることを忘れていた。
カーテンを閉めることも忘れていた。
とっくに乾いている洗濯物も取り込んでいない。
何もしたくなくて、動けなくて、繋がるはずのない携帯も転がったまま、ただ玄関で時が過ぎるむなしさを感じていた。
ぼくのむなしさをなぐさめるかのように、太陽はおはようと姿を現していた。
登校時刻はとっくに過ぎ、ずる休み決定。
脱力感は取れないけれど、重い体をひきずって冷蔵庫から水を取り出して一口だけ飲んだ。
冷たい水は、ぼくの中をさらさらと流れていき、ぼんやりしていた頭をほんの少し潤してくれた気がする。
しばらく冷蔵庫のブィーンという音を聞きながら食器棚にもたれてみたが、太陽が窓をのぞき込んでいて、まぶしくて目を細めた。
今日も暑くなりそうだな。
ちょっとだけベッドで横になろうと、ついでにカーテンを閉めた。
夜中は開けっ放しだったのに、午前中に閉めるなんて、まさに昼夜逆転だな。
昨日から付けっぱなしのエアコンは、ベッドもひんやりと冷やしてくれていた。
誰もいないのと同じなのに、エアコンを付けてる意味もないな。
リモコンを取って電源を切り、そのまま床へ投げ捨てた。
カタンと転がる音にハット気が付く。
こうやってぼくは何の罪もないリモコンにすら、意味もなく投げてしまう。
こんなの、こんなぼくだから誰かを大切にすることの難しさを感じる。
やはりぼくには無理なのかな。
ひとりでいたほうが、周りも誰も振り回さずにすむ。
目を閉じてみると、心の中の黒いものに溶け込むようだった。
ダンダンダンダンダンっ!
ものすごい音で目が覚めた。
玄関のドアをノックしている……というよりたたいている音……。
もしかして茜かなと一瞬脳裏を横切ったが、そんな都合のいい期待は自分を苦しめるだけだろ。
ダンダンダンダンダンっ!
また鳴り始めた。
さすがに近所迷惑並みの騒音なので、おずおずとインターホンをのぞくと、そこには誰も映っていない。
ちょっと気持ち悪いが、鍵音を立てないように、そーっとすこしだけドアを開き外をのぞいてみた。
部屋の外には一冊のノートが落ちている。
いったんドアを閉めて考えたが、激しくたたくノック、誰も映っていないインターホン、得体のしれないノート。
気味が悪くない要素なんてひとつもない。
でも……平べったいノートなら爆発することもないだろうし、カミソリが挟まっていても、拾ってぱさぱさしたら落ちるだろうし……。
気味が悪いことには代わりないけど、拾わなきゃいけない気がして、もう一度ドアを開いた。
自分の手だけが通れるくらいに開いて、そーっとノートを拾った。
考えすぎかもしれないが、一応ぱさぱさとカミソリが入ってないかを確認し、おそるおそるページをめくっていったが、白紙のままだった。
またもや気味が悪くなって、もう一度ドアを開け、何事もなかったようにもとの位置に戻した。
なんだったんだ、とキツネにつままれた気分でドアを閉めると、鍵をかける瞬間に勝手にドアが開いた。
「なにしてるのよ」
ドアが勝手に開いたこと以上に、茜がそこに立っていたことに驚きを隠せない。
「……なんで……」
「髪、乱れてるわよ。さては優雅にお昼寝かしら?」
彼女はノートをぱさぱさとはらい、拾っている。
なにがなんだか分からなかったが、とりあえず言われるがまま髪を手ぐしで整えた。
「はい」
綺麗にはたかれたノートを差し出して彼女が言った。
「え、いや……あの、これ……」
もはや自分が何を言おうとしているのか、何から応えたらいいのか分からずにあたふたしているぼくに、さらにノートをぐいっと差し出す。
「見たの?」
「え、あ、見た……けど、何も書いてなかったから……」
「ちゃんと見なさいよ」
突き出されるがままにノートを受け取り、1ページずつめくってみた。
「……あ」
最後のほうの適当なページにでかでかと二文字書いてあった。
ばか、と。
「これ……」
「お休みしているようだったから、ノートを届けに来たのよ?」
ノートと言われても、ばか以外のページはすべて白紙なんだが……。
意味が分からないけど、彼女なりのギャグなのか?
それとも真剣にばかを伝えるためだけに渡しに来たのか?
「どういう意味?って顔ね、そのままの意味なのに」
「ばか……を届けに来てくれたの?」
「違うわ。ばか、に届けに来たのよ」
「……え」
まだこの状況が全く、何一つ理解できていない。
激しいノック、映っていないインターホン、謎のノートにばかの文字。
なによりここに彼女が立っていることが、ぼくにとって一番の謎なんだけど、これは夢なのか?幽霊なのか?やっぱりキツネなのか?
「入れてくれないのね」
「あっ、あぁ、どうぞ」
彼女はきちんと靴をそろえて部屋に入ってきた。
「スリッパ、新しくしたのね」
「あぁ、うん」
ふたりの名前の通り、ぼくはブルーのを、彼女のは赤いスリッパにした。
小さなことだけど、気が付いてくれたみたいだ。
「相変わらず小さなことにこだわるのね」
「……そうかな」
「嬉しいけれど……、小さなことにはこだわるけれど、夜中にカーテンを開けっ放しにしておくというのはずぼらね」
「何で知って……」
聞くまでもない。
彼女は昨晩、ぼくの部屋の近くまで来ていたから知っているんだ。
「来てたのか……?」
「夜中にカーテンを閉めていないとか、洗濯物を干しっぱなしにしておくなんて、レディのすることではないわよ。それに、泥棒さんを招いてるようなものだわ」
「ごめん」
「それは謝ることではないけど、気を付けなきゃね」
「いや、その……、ばかでごめん」
「そうね、それは否定しないわ」
ちゃんと向き合って話す前に、と彼女にマグカップを渡した。
「ごめん、水しかないけど」
「ありがとう。あなたがなかなか開けてくれないからとても暑かったのよ?何度もインターホンを押したけれど、熟睡していたのかしら?あんまりにも気付かないようだったからドアをたたいてしまったの。ご近所に謝っておいてね」
ぼくが?まぁいいや……。
「寝ていて気付かなかったみたいだ、暑い中ずっと待たせてごめん」
「ずっともいいとこよ。何時間気付いてくれてなかったの?」
「え?」
彼女は水を一口飲んでから言った。
「昨日、電話を切ってからよ。正確にはずっといたわけではないけれど。一度おうちに帰って学校にも行ったし。でも、あなたが無断欠席だと聞いて早退してきたの。だからずっとという言葉は適切ではないわね」
「だって、迎えに行くから来てって言ったらいやよって……」
「私はあなたのおうちに行くと約束したのよ、だから来たんじゃない」
「いやよって言うから……」
「迎えに来てほしかったわけではないもの」
我ながら女心の偏差値が低すぎることに改めて驚くよ。
迎えに行くことがいやよだったのか……。
そんな引っかけ問題、ぼくに出題しても、解けるはずないことくらい知っているくせに、ストイックなんだよなあ。
「夜に近くまで来てくれてたなら、部屋まで来てくれればよかったのに」
「カーテンは開けっ放しだし、電気も付いていないし、初めは私を迎えに出てしまったんではないかと思ったのよ。行き違いになってしまっていたなら、あなたが帰ってくるまで待っていようと思っていたの。でも、いくら待ってもあなたは帰って来なかったから、私を迎えに出かけたのではなくて、ずっと部屋にいるのだわと気が付いたの」
「そっか……、ごめん、なんにも知らなかった」
「何回ごめんというのかしら?もう聞き飽きたわ」
「あぁごめん……あっ」
「ふふっ、口癖のようになってしまっては謝罪の効力が薄くなるわよ?」
「そうだよな、ごめ……ぁ、そんなつもりじゃないんだけど、謝ることがたくさんすぎてつい出ちゃうんだよ」
「このマグカップ、使ってくれてるのね」
「茜がくれたものは大事に使っているよ。飾っておくのももったいないしね」
「私がプレゼントしたら、お揃いがいいって言うから、もうひとつ買いに行ったのよ」
「うん、ふたりの時くらい、ふたりでいるんだってことを感じたいじゃん」
彼女はカップを片手に持ったまま、ぼくを見つめて固まった。
「え、何か変なこと言ったかな、ごめん」
「ふふっ、また謝る」
「だってさ……」
「ふたりを感じていたい、なんて言い出すと思わなかったから驚いただけよ。照れ屋さんなあなたはいつだって私の発言にたじろいでばかりじゃない」
「くさかったかな……、ぼくにしては上手く言えたと思ったんだけど」
「くさくなんかないわよ、嬉しかったの。ふたりの時もそうだけど、ましてや学校ではあなたは決して自分を見せないから、あなたの気持ちが分からないんだもの」
「そんなことないだろ?ぼくは茜みたいに純粋でも器用でもないから、分かりやすいんだと思ってたけど」
「あなたは本当におばかさんね。自分のことも、私のことも、ちっとも分かっていないわ」
「ぼくは茜が分からなくなる時が多々あるけど、特に妬いていることが分からないな。ぼくが茜以外の子に目を向けることなんてないって自信満々なんだろ?自信があるなら妬く必要なんてないじゃないか」
「信じていても、不安になる時くらいあるわ」
「不安?茜が?」
彼女はもう一度マグカップに口付けると、うつろな目でぼくをにらんだ。
「……お子さまね」
「……なんだよ」
マグカップをテーブルにコトリと置くと、ため息まじりにつぶやいた。
その顔は、ぼくにあきれているような、がっかりしているかのようにも見える。
「あなたが私を好きでいてくれる、それだけでいいのに……、たまにあなたの気持ちを確かめたくていじわるをしてしまうの」
「……うん」
「いじわるをして、あなたが私だけを見つめてくれていることを確かめて、満足して……」
「それでいいじゃないか」
「ううん、違うのよ、それだけではないの」
視線はぼくから外れ、例えるなら過去をながめているかのように見える。
「あなたを見ていると、自分が嫌になる時があるのよ。あなたのことが好きすぎて、この手で収まりきれないほど好きで、あふれるのが怖くて、握りつぶしてしまうんじゃないかと不安になるの。そしていつかあなたをこの手で殺してしまいそうで……」
ぼくは全身の血管が一気にどくんとなったのを感じた。
それは、殺されるかもしれないという恐怖にではなく、初めて彼女に会った時と同じ、息を飲み込むほどの緊張感……。
「冷たくしているつもりはないんだ。ぼくだって茜が大切だから……」
「あなたは私のことを純粋だと言ってくれるけれど、あなた以上に純粋な人はいないわ。その純粋さをひた隠しにしてるから感情を表に出せないのも分かっているの。だからわざと感情的にさせようとしてしまうの」
「分かってるよ。ぼくは茜みたいに素直に口に出せないし、感情的になりそうになっても、押し殺すことにいこじになってる。だからいつもいじわるされちゃうんだろ?」
「知ってたの?」
「当然だろ、単なるいじわる女だなんて思ってないよ。ちゃんと意味があるって分かってる」
彼女は現実に驚いたのか、うつろだった目を見開き、そして、テーブル越しに身を乗り出して言った。
「ねぇ」
「なに?」
「私たちって、お似合いな恋人だと思わない?」
「……うん、だと思ってたけど……?今さらなんだよ?」
「今さらだけど、改めて思ったのよ」
「うん、でもぼくは茜に謝ることばかりしているから、不釣り合いなのかもなって思う瞬間もあるんだ」
「そんな不器用なところも好きよ?」
「ほめてんのか、それ」
半笑いなぼくをよそに、真面目な顔を近づけて、さらに身を乗り出してきた。
「ねぇ」
「……なに?」
「たまには蒼からキスして」




