06
6.
視界の端に揺れる月を入れながら苛立ちと共に山を下る。
幸いにして滝壺の底に彼女はいなかった。周囲にもいなかった。周囲が濡れているような気配も無い。故に、彼女は下流に流されてしまったのではないだろうか。この滝を昇る事はないだろう。けれど、そんな馬鹿な事があるだろうか。いくらおっちょこちょいのイリスだといっても……。じゃあ、どこにいる?その先を想像したくなかった。だから、僕は藁に縋る。
川を流れる藁に縋っているだけの儚い希望に。
焦りが僕を苛立たせる。次第、背負う雪女の重さが不愉快になってきた。なぜ僕はこんな物を担いでいなければならない。彼女を探すためには邪魔でしかない。この場に捨てて行こうか?そんな考えも浮かぶ。けれど、この雪女を助けたことを彼女はきっと褒めてくれるだろう。僕は良い事をしたのだと、そう言ってくれるだろう。だったら、捨てて行くわけにはいかない。あるいは、それもまた藁に縋っているだけなのかもしれない。彼女が無事である事以外を考えたくないが故に、そんな事を考えたんじゃないだろうか。
焦りに思考がぶれる。
熱に侵されたようにとりとめのない事が次々と浮かんでは消えて行く。
「ハァ……ハァ」
吐息が切れる。
作られたこの身体が悲鳴を上げる。HPが減っているわけではない以上、精神的なものに違いない。歩けば歩くほどに蓄積していく精神的な疲れ。それが僕の中にあった希望を奪って行く。
月明かりを頼りに暗がりを歩く。
かさ、かさと音を立てる腐葉土の音にさえ苛立ちを覚え、世界を照らす月の弱々しい明かりにさえ苛立ちを覚え、見つからない彼女にもまた苛立ちを覚え始める。
なぜ、彼女はあの場所に留まっていなかったのだ。
雪女の悲鳴に、危険があるかもしれないと考えた僕は彼女にあの場所で待っているように告げた。にも関らずなぜいないのだ。
僕を置いて流されてしまうなんて、何を考えているのだ。
理不尽な怒りが沸いてくる。彼女だってそんな事を望んだわけではないだろうに。止むにやまれぬ結果、彼女は下流へと流されたに違いない。いいや、けれど、それでももしかすると彼女は僕を置いて何処かに行ったのかもしれない。そんな行動を取る彼女は……僕の言う事を聞かない彼女は不愉快だった。
苛々する。
零れる吐息と相まって頭痛さえ感じるほどに。頭に血が昇っている。あぁ、なぜ、僕が苦しまないといけない。なぜ僕がこんな目に会わないといけない。
ぎり、と歯が鳴る。
ぎりり、と歯が鳴る。
「君の下へと訪れた所為で彼女がいなくなった。なんで悲鳴なんかあげたんだい?そのまま大人しくしていれば僕が彼女と離れる事もなかったのに」
怒りは背負う雪女へと向かう。
怒りは殺したテスターへと向かう。
怒りはこの世界を作り上げた神へと向かう。
主人公とは言わないまでも悲鳴を聞いて駆けつけて、襲われていた彼女を---既に事後だったが---助けた僕に、この世界はどうしてこんな酷い仕打ちをするのだろうか?あぁ、世界を作った神様が人殺しを是とするような嫌な奴だからだから……それも当然か。
ぎり、と更に歯が鳴った。
こんな世界は間違っている。
僕と彼女が離れ離れになる世界なんて、間違っている。
僕をこんな世界へ連れ込んだ『彼』も間違っている。
僕の下を勝手に離れた彼女も間違っている。
僕をこんな状況へ追いこんだ雪女も間違っている。
この世界は間違いだらけだ。
もう、さっさと終わらせてしまおうか?
妙案だと思った。
僕を置いて、僕から勝手に離れて行った彼女なんか気にせず、この世界を終わらせてしまおうか?あと3人。たったそれだけ殺せば終わるのだ。駆けずり周れば10日も掛らないだろう。いいや、そんな事をする必要も無い。城主権限で法令を制定すれば良い。NPCがテスターを殺せるようにすれば良い。出現悪魔のレベルをあげ、集団行動をとらせるようにすれば良い。それだけで人を殺してもいないテスターなんてすぐに死ぬだろう。
あぁ、そうしよう。
そうしてしまおう。
こんな世界など壊してしまおう。
月を見上げ、その奥にいるであろう『彼』に向かって、告げる。
「テストは終わりだよ……僕がすぐに全部終わらせてあげるよ」
答えはない。
鈴虫の奏でる音色に似た音。風にゆれ葉がこすれ合う音。ちろちろと清流が川を下って行く音。時折、魚が飛び跳ねぱしゃんと水の弾ける音。きっと穏やかな気分で聞いていればさぞ聞き心地の良いものなのだろう。イリスと二人で聞いていればきっととても良い音だったと思う。
けれど、もういらない。
それらの音を掻き乱すようにおもいっきり地面を踏みしめ、足音を鳴らす。
がさ、がさ。
不快な音が僕の足から伝わってくる。そう、それで良い。不快で不愉快で汚いこんな世界なんて、さっさと壊してしまおう。
どさり、と背から雪女が落ちた。
いいや、落とした。
振り返り、仮想ストレージからFN P90を取り出し、未だ呆としている表情に向けて銃口を構える。一瞬で柘榴のように弾けるだろう。あんなテスターにどうにかされている程弱い悪魔なのだ。僕の攻撃であれば一瞬だ。僕のレベルはそれだけ高いのだから。
「怨みたかったら、神様と弱い自分自身を恨むんだね」
苦笑する。
全く、思っていない事を告げるこの口が嗤える。
もはや感慨などない。さっさと終わらせる事しか頭には無かった。
引き金に指を掛け、銃口を雪女の白い顔へと向け、それを引こうとした時だった。
「おもちが!おもちがぁぁぁっ!」
どこかで聞いた事のある可愛い声が闇夜に響き渡った。
瞬間、木々に止まり寝ていたであろうスカベンジャー達が闇夜に飛び立った。良い迷惑だと思う。それにしても可愛らしくも、絶叫というか悲鳴とでもいうようなそんな声音だった。
「……まったく」
苦笑を浮かべ、FN P90を仮想ストレージへと片付け、雪女を背負う。そして、その声のする方へと……川沿いへと向かう。
光が見えた。
焚火だった。
その焚火を挟んで影が二つ。
一つは僕の良く知る愛らしい女の子のもの。
「川に流されました……」
うな垂れ、涙さえ流しそうなほどに悲しそうに---思える無表情---を浮かべていた。そんな彼女を見て対面の少女が、
「ほら、おもちならここにもあるわよ!さぁ、奪えるものなら奪ってみるのね!」
そんな事を言い、
「どこにもないじゃないですか!」
イリスの口から響く柔らかくも麗しい声に突っ込まれていた。その言葉に少女の影が首をがくっと曲げていた。どうやらショックだったようである。
「あ、ごめんなさい。……えっと、その、分けましょうか?------くしゅんっ」
慌てたように言い訳をしながら手をわたわたさせていたイリスがくしゃみをした瞬間、影は立ち上がり、イリスに毛布を掛けた。そして、イリスに向かって笑った。その後、再び座っていた場所へと戻り、火を強くすべく焚火に枯木をくべながら、優しげな表情を浮かべつつ元気良くイリスに話しかける。
その少女は、一見すると少年の様だった。
背の低い子だった。
立ち上がった時に見えたのはニーソックスにガーターベルトに更にショートパンツ。曲線を描く事のないフラットスタイルを覆うのはハイネックのノースリーブ。そしてセミロングの黒髪を飾るように帽子を被っていた。
その帽子の方向をくいくいといじりながら、再びくしゃみをしたイリスを慰めていた。NPCにくしゃみという機能を実装している神様の無駄さ加減に再三の苦笑を浮かべながら、その焚火へと近づいていく。
「あ……ネロ様じゃないですか……背中のはお土産ですか?」
「イリスちゃん、こういう時はあれだよ。浮気ですね!浮気なんですね!とか聞くと良いんだよ」
「なるほど。ハタノ様のお言葉、いつも為になります。では、改めて―――ネロ様!浮気ですかっ!浮気なんですねっ!?……どうでしょう?」
「表情が甘いよ、イリスちゃん」
手厳しい奴だった。
「―――イリス。何があったんだ?」
「流されました。おもちと同じ様に流されました。流されて困っていた所をハタノ様に助けられました」
「そうそう。この子、泳ぎ方も知らないみたいで大変だったよ。まったく。泳げない子を一人にするって駄目だよ。ネロ君だっけ?……君が大量殺人者のネロ君だよね?」
くすくすと笑って言う事ではない、と他人事ながら思った。
背の雪女を地面に寝かせながら、僕は仮想ストレージからFN P90を取り出し、構える。
「そこまで分かっていて、良く、この場にずっといたね」
だが、少女は慌てる事もなく、怯える事もなく、何も変わらなかった。変わらず僕を見つめていた。
「ん?あぁ。イリスちゃんがいるなら殺さないという選択肢も少しは考えてくれるかと思ってね」
「僕がそんな事で手を止めるとでも?」
「うん。ねぇ、イリスちゃん。私が死んだら嫌?」
「嫌です」
首を横に振りながら、イリスが僕を見上げる。その瞳は無表情ながらに不満気だった。
「……どう?殺してみる?」
「―――今は殺さない」
「そ。ありがと」
にひひと笑う少女。不愉快な事限りないが、それでもイリスがそう言うのならば、僕は---イリスの声が聞こえるまでは世界を壊そうとしていた事も忘れて―――殺さない事を選択する。あるいは……そう。あるいは、そうだ。テスターが一人でも生き残っていた方がこの世界は継続するだろう。だったら、イリスを助けたこの少女を生き残らせておくのも良いのではないだろうか。
そんな自分への言い訳を考えながら、僕はその場に腰を下ろした。
「ところでネロ様、そちらの悪魔さんは?」
「悲鳴が聞こえた方に行ったら落ちていたから拾った」
「こんなに可愛い子を血で染めて拾ったとか良く言うわ。この子も殺す気だったとか?酷い人ねぇ、ネロって」
「……」
慣れ慣れしい女の声を無視して変わらず呆としている雪女に目を向ける。
確かにハタノの言う様に雪女の白装束は血に赤く染まったままだった。
「ほら、イリスちゃん。手伝って。可愛い子には可愛い服を、よ。覚えておくのよ?」
「はい。覚えました!」
僕を無視して二人が立ち上がる。ふわり、とイリスに掛っていた毛布が焚火に向かって落ち、イリスは慌ててそれを取ろうとするものの火に怯えて手を拱いていた。そんなイリスをハタノが曖昧な笑みを浮かべながら見つめていた。
テスターである彼女は人間だ。イリスと違い、雪女と違い心がある。何を考えているのだろうか。良く分からない笑みだった。
「はいはい。そんな毛布の事なんかどうでも良いから」
焚火の前で呆然と毛布が焼けるのを見ていたイリスに向かってそう言い、自分は雪女の横へ移動して雪女の白装束を脱がせながら、
「じゃ、イリスちゃん。この子を拭いて……あげて……」
喋っていたハタノの声が止まった。
「あぁ、なるほど、そういう事か……こんな世界でも男って奴は……全く。でも、あれね。ネロ、意外と優しいじゃん?」
早口にそう言ったハタノは仮想ストレージから毛布とタオルを取り出しイリスに渡し、指示を与える。湯を沸かしてタオルで身体を拭いてあげなさい、と。
「雪女っぽいから溶けるかもしれないよ」
「あぁ、そうなの。じゃあ川の水で良いか」
言って、イリスからタオルを取り上げ、ハタノは雪女から白装束を完全に脱がせ、それを持って川へと向かう。自らが濡れる事を厭わず、月明かりだけが照らす川に手を入れ、タオルを濡らし、それを絞る。それをイリスにも見せながら、こうやって絞るのよ、と教えた後、今度こそ身体を拭いて頂戴とイリスへと告げる。そして自分は雪女の白装束に付いた血を洗い流し始める。時折、冷たい冷たいと不満を告げながらも、彼女は延々と白装束を洗っていた。
そんな事に意味があるのだろうか。
それこそコンビニでも探して服を手に入れて着替えさせれば良い。全く無意味な事をしている、そう思った。
「何が言いたいのか分からないでもないけれど、意味はあるよ。他の服をあげるのは後よ。正直私にもよく分からないけれど、悪魔だっていうならこの子はこの服を着ていてこそでしょう?そういう所、尊重してあげないとね。他の服に着替えさせるのも良いけれど、それはこの服があってこそよ……死装束だし尚更よ」
そんな事をこの悪魔が気にするわけもない。心という曖昧なものがAIにあるとするならば別だけれど……そんなものがあるはずもない。いいや、甲斐甲斐しく雪女の身体を拭きながら冷たっ!冷たっ!?と騒いでいるイリスにはあって欲しいものだ。あぁ、だったら……まぁ、僕には服どうこうなんて理解できないけれど……そんな風に考えて行動する彼女を止める理由もまた僕にはないな、と思った。
「君は人間だな」
「当たり前よ。ネロには分かんないかもしれないけれどね……ネロみたいな殺人鬼には」
「……そんな言葉で僕が堪えるとでも思っているんだったら間違いだよ」
「堪えると思ってないわよ。堪えるようなら、人を殺して悔やむ様なら、あんなに殺さないだろうし……ね?」
白装束を洗う手を止めてハタノが僕にそう言った。くすり、と笑みを浮かべながら。
全く何を考えているのかが分からない人間だった。
イリスと一緒にはしゃいでいると思えば、僕のような人殺しを前にして冷静にそう告げる。全く分からない。
「良く分からないね、君は」
「ハタノね。一応それが私のキャラ名だから、そう呼んで頂戴」
「……了解」
とても綺麗な月の輝く夜の下、人間、悪魔、NPCが集った。
これから先どうなるかなんて分からないけれど、少なくとも……まだ僕はイリスと一緒に居られると言う事だけは確かだった。
テスターを全員殺さなくて良かった。
「テストは続行だよ」
小さく、月に向かって呟いた。




