最終話 俯棺風景
水平線の向こう側から昇る太陽、その輝きに煌めく水面。風に揺れ、白く泡立った。浜辺の砂が風に流れ流され木々の根元へと。朝露に濡れた葉から一滴、砂粒が濡れた。透き通る空には白い鳥、風を切り、風に流され何処かへ。次第、陽は昇り、人々が夢から覚める。動き出し、俄かに世界はざわついた。それぞれに思いを抱え、あちらへと、こちらへと。次第、陽は沈み、人々は夢へと向かう。黒く染まる空には機械の鳥、轟々と音を立てて何処かへ。濡れた砂粒に感傷を。黄金色に輝く天の河、煌めく夜空に思いを馳せる。
返すように月が笑った。
こんなにも綺麗な世界。
こんなにも美しい世界。
だからこそ。
みんな死んでしまえばいいのに。
―――
病院は嫌いだ。
より正確にいえば、嫌いになった。毎日毎日通っても何も変わらない風景をもう何か月過ごしただろう。変わるモノが無いわけじゃない。通っている人達はいつだって違う。ベッドを埋める人の姿も変わる。それは亡くなったり、退院したり、幸せであったり悲しさであったり、どちらかの理由で変わって行く。けれど、変わらないものもある。
隔離病棟。
「……ようやく桜が咲いたよ。部活の方は新入生が何人か入ったの。私の試合を見て入った子とかもいて、ちょっと恥ずかしかったけれど……」
そんな事を口にしながら花瓶の花を変える。枯れた花を新しいモノに変える。最初から枯れると分かっているのだから、変えたって意味はない。そんな物を変えた所で何が変わるわけもない。
そもそもこんなものベッドで眠り姫のように寝ている人は気にしない。
何本ものケーブル。まるでSF世界に出て来る何かみたいなそんな恰好だった。顔だってヘルメットみたいなものの所為で見えやしない。
元々線の細かった身体は以前よりも更に細くなっている。前から私よりも低かった体重が更に低くなったと聞いた。看護師さんがまた痩せたという事を言っていた。
「友達から心配されたよ。最近お兄さんの事言わないって……そんなつもりはなかったんだけれどね」
自然と口数が減ったのは確かだった。
今思えば、以前は周囲に引かれるぐらいの勢いで兄の事を語っていたように思う。ブラザーコンプレックスというわけではない。多分。恐らく。
「良い夢を見ているのかな?そんなわけないよね……そういえば、政府のなんとかって人がまた来たよ。目を覚ましたかって」
そんなわけがないのに。
私は兄が何をしていたのかを知っている。教えてもらった。教えられたと言った方が良いのかもしれない。恨み辛みや何かというのが多分、もっともらしい理由なのだと思う。
デスゲームでサバイバル。
本屋に行けば、そんなタイトルの小説や漫画が以前は良く並んでいた。以前は。今は……その殆どがノンフィクションの場所に置かれている。
『ゲーム終了の合図が政府機関に伝えられてから半年。未だに生存者は名乗りをあげていません』
そんな声がテレビから聞こえて来た。私が暇だろうと思ってお医者様が置いて下さった。
『人権面でいえば、名乗りを上げる必要はないでしょう。彼ないし彼女は被害者なのですから』
『そうはいっても、大量殺人を侵した事に変わりはありません。罪は問われるべきです』
『まったく貴方はいつもそんな事ばかりだ!彼ないし彼女は被害者だ。何の落ち度もない。巻き込まれただけだ。緊急避難が適用されるべき事項ですよっ』
『まぁまぁ、二人とも落ちついて。……こういった議論の前に、政府はすべての情報を公開すべきです。私達一般人は要所の状況しか伝えられていない』
『皆さん、最後に生き残ったのが誰か、それを知りたいとは思いませんか!人殺しには毅然とした対応が必要ではありませんか!』
好き勝手な事を言っていた。いつものようにネットを確認すれば、その番組を揶揄するコメントが多数存在した。煽る者、ネタにする者、正義感から発言する者、あるいは……
『―――俺はやっぱりリンカ様だな』『―――SISTERだろ』『WIZARD一択』などなど。犯人からもたらされた映像情報―――どうやら全員、現実の顔ではなくキャラクターの顔を表示していたらしい―――を元に好き勝手を言っていた。それだけでは飽き足らず、あのゲームを元にした小説が作られ、キャラクターのCGも描かれ……いつしか兄の過ごした場所は、彼らの遊び道具にされていた。
何が楽しい。何が嬉しい。何がそんなに……
苛立ちが沸く。
いつもそうだ。テレビ番組もネットも、他人はいつだって残酷だ。勝手に騒いで、勝手に楽しんで、勝手に喜んで、勝手に悲しんで……そして最後にはその勝者を責め立てる。
きっと兄がそうでなければ、私もその一人だったのだろう。そう思う。けれど、身勝手にも私は思うのだ。
「無理して帰ってこなくて良いよ、静兄ちゃん」
人でなしな兄をそれでも私は愛している。
家族だから。
兄妹だから。
でも、両親は離婚した。私は母に引き取られた。兄の面倒をみるのは私だけだった。母は一度だってここに来た事はない。母はもう兄の事を忘れている。忘れたふりをして新しく出来た恋人と逢瀬を堪能している。父だった人も同じ。そういう所は似ているんだな、なんて皮肉が浮かんだ。
「…………っ」
歯を食いしばる。
兄の名前の様に静かな病室。かしゅん、かしゅんと鳴るポンプの音。ぴこん、ぴこんと鳴る観測器の音。機械の音だけが響いている。
「皆、嫌い……」
兄がどういう想いで人を殺したのかなんて知らない。兄がどういうつもりでその世界を過ごしていたのかなんて知らない。でも、何も知らない他人がそれをとやかく言うのはもっと嫌だった。
政府のなんとかさん達はゲームの勝者が兄である事を知っている。きっと、あと数ヶ月もすればその情報も世間に知れ渡るのだと、思う。人の口に戸は立てられず、きっと皆が兄を責める。
犯人だった人間の居場所は、犯人に教えられて分かったという。最後の置き土産だった、とそう聞いた。そこで見つかったのはやせ細った兄妹の死体だったという。そんな事を私に教えて何が嬉しかったのだろう。なんとかという人は皮肉気に笑っていた。お前の兄の所為だと、そう言わんばかりに。
「嫌いだ……」
皆、嫌いだ。
勝手な事を言う人達が嫌いだ。何も知らず、何も分からずに好き勝手にネタにする人達が嫌いだ。兄を悪し様にいう人達が嫌いだ。
『最近、隈酷いよ?夜遊びしちゃ駄目だよ!』
そんな言葉を掛けて来る友人が嫌いだった。
『最近、成績が落ちているが……確かにご両親が離婚して―――』
親身なふりをして自分の評価を気にする教師が嫌いだった。
『ねぇ、どうして私達がこの人の治療を続けないと駄目なの?この人って例のあれでしょ?』
私に聞こえる場所で姦しく騒ぐ看護師たちが嫌いだった。
「…………静兄ちゃん」
兄は今、何をしているのだろう。誰もいない世界で一人。死ぬ事もなく、どうしているのだろう。
そんな兄を滑稽な存在として、政府の人達は見ているのだろう。神様に代わって、世界を見ているのだろう。神様は死に、何も出来ない新たな神様が産まれた。世界を停止させて兄を殺すわけでもなく、兄を救ってくれるわけでもなく、ただただ箱庭を観察するように。鳥籠の中で足掻く鳥を見るように。
「…………っ」
唇が切れた。
立ち上がり、兄の首に手を掛ける。
「ねぇ、私も一緒に逝くから……」
けれど、そこに力を入れる事なんてできない。
それでも、私は兄を愛しているから。
以前より細い首に手をかけながら、私は咽び泣く。
―――
人の気も知らずに空を飛ぶ鳥達が嫌い……になった。
陽気に咲いた桜の花が嫌い……になった。
幸せそうに退院を祝う人達が嫌い……になった。
花弁散る中庭に置かれた白いベンチが嫌い……になった。
そこに座って俯く自分が大嫌いだった。
さらさらと葉のすれる音と共に淡い色をした花弁がゆらり、ゆらりと揺れながら落ち、私の足元へと。
まるで花弁で出来た絨毯のようだった。
ざり、ざりと絨毯を汚す足音が聞こえた。次第、その足音は大きくなり、
「隣、良いかしら?」
声が聞こえた。
「…………どうぞ」
視線を向ける事もなく、反射的にそう答える。
音を立てず、静々と座る気配を感じた。消毒の匂いがした。病人なのだろう。どうでも良い事だった。
「元気がないわね。何かあったのかしら?」
「…………」
きっと気の良い人なのだろう。私なんかに気を使ってくれる程に優しい人なのだろう。けれど、それに答える気力はなく、鬱陶しいだけだった。
かさかさと花弁が揺れる。
「……ここ、長いの?」
めげない人だな、と思った。
嘆息する。
「……ただの見舞いです」
「あぁ、なるほどね。……こんなに可愛らしい子に見舞われるなんて羨ましい話ね」
「…………」
「私なんて、誰かも分からない変なおじさんしか来ないのよ?長い夢から覚めて、最初に見たのが王子様じゃないだなんて、酷い話よ。可哀そうだと思わない?」
「……別に」
「まぁ、そうよね」
何が楽しいのか、くすりと笑った。夢見がちで、楽しそうで、嬉しそうで、そんな明るい感じの声が酷く不愉快だった。そんな不愉快さに気付きもせず、その人は更に声を掛けて来る。
「ねぇ、貴女。どこかで会った事ない?」
「さぁ、ないんじゃないですかね」
「残念。……なんだか知っている誰かに似ているような気がしたのよ。そんなわけないのにね。ごめんなさいね」
何がそんなに楽しいのか、再びくすりと笑った。そして、『記憶喪失らしいわよ、私』と他人事のように付け加えた。
「そうですか。それは大変ですね」
他人はそう口にした。
「そうなのよ。脳細胞が焼き切れているとか焼き切れていないとかよくわからない難しい事を言われたわ。まぁ、私の事は良いのよ。貴女の事、教えて?」
気の良い人なのだろう。もう一度、思った。同時に、再度、鬱陶しい、とそう感じた。何があったのかは知らないけれど、覚えていないという事は幸せなのだろう。
…………いや、そんな事はない。私は兄の事を忘れたいとは思わない。愛しい兄の事を忘れたくはない。どんな状態になっても忘れたくはない。忘れる事は、忘れられる事は死んだ事と変わらない。
だから、口にしたのだと思う。
「ただの見舞いです。……私が来た所で起きませんけれど」
「あら、それは困った白雪姫ね。きっと王子様のキスが足りないのよ」
「…………そんなわけないじゃない」
言わなければ良かったと思った。
「そうね。そんなわけないわね。でも……待っている人がいるのだから、覚めるわよ」
慰めにもならないそんな言葉。
「掛けられた魔法はいつか解ける。シンデレラみたいにね。そして、王子様が見つけてくれるのよ」
「……っ」
戯言だった。けれど、それぐらいが今の私には丁度良いのかもしれない。そう思った。
「お邪魔したわね。また、会いましょう。シ……?」
横を見る。陽光が眩しかった。
「お姫様みたいですね」
唇に指先を宛て、首を傾げて呆とするその人。愛らしくも感じるその仕草が、どこかの国のお姫様の様だと感じた。それこそシンデレラのような……透き通るように綺麗な人だった。
「そう?ありがとう」
そう言って、その人は去って行った。
腕に巻いた包帯が、酷く記憶に残った。
了




