第5幕 夜這いと姦計・1
第5幕 夜這いと姦計
夕餉を終えて、部屋に戻ったディアナはお風呂を使った。本来ならば、夕餉の前に済ませておきたかったが、時間がなかった。
ようやく、ひと息つけた。
寝衣に着替えて、髪を梳いて乾かしている。
一日中、アネットをおろおろさせてしまったので、ディアナは早くにアネットを下がらせた。きっと疲れているだろう。
ひとり、長椅子でくつろいでいると、バルコニーに面した窓がカタカタと音を立てて軋んだ。外は風が強いのだろうか、ディアナは一瞬だけ窓辺に目をやったが、特に関心を払わなかった。たとえ見に行っても、どうせ外は暗い。なにも分からないだろう。まさか、ディアナのしっかり侍女・アネットが施錠を忘れるわけがない。
さして気に留めないまま、ディアナは手紙の文面を考える作業に入った。そろそろ消息を、ついでに天馬のことを詳しく母に尋ねたいと思い、ディアナはペンを走らせようとした。
この国の王太子の結婚については、あらかじめ銀の国には知らせはなかったのだろうか。銀の国から花嫁行列を出す前に結婚の事実が分かっていれば、こんなややこしいことにはならなかった。
今のディアナの立場は、表向きには賓客、内実はやっかいな婿探し。心にはさまざまなことが消えては浮かぶのに、紙にはちっともしるせない。
国王は親書を送ると言っていたが、その返事が届いたような気配もない。もしかして自分、体よくルフォンで軟禁されているのではないか。
再び、窓が鳴った。
カタカタ、カチャリ。
「……カタカタ、カチャリ?」
文に落としていた目線を窓に向けると、押し寄せてきた夜気がディアナの顔を襲った。急な強い風で、部屋の灯りが消し飛ばされ、卓の上の紙も部屋中に散ばった。
「うわっ……と、と」
ひらひらと舞い上がる紙を押さえようとしたが、ディアナの手には追えなかった。何度も、空を切る腕。
代わりに、ディアナの手を捕らえたのは、キールの右腕だった。月明かりに照らされているせいか、いやに青白い。
「こんばんは、ディアナ」
「キ、キール? どうして私の部屋に? ま、魔術?」
宙を漂った紙は、キールの左手のひらの上に一枚ずつお行儀よく降りて来た。まるでキールに操られているかのように。
「恋の魔術、かな。はい、どうぞ。きれいな紙だね」
「ええ。私の国の紙なの。銀が漉き込まれていて。銀紙っていうんだけど……って、それよりキール、どうやってここに入ってきたの?」
キールは、自分の入ってきた窓をそっと丁寧に閉めた。もちろん、カギもしっかり鎖した。
「細かいことはいいじゃないか。今日のディアナは、第二王子とばっかり遊んでいたよね。夕餉の席でも上の空だったし、もう、妬けちゃって妬けちゃって。嫉妬で狂いそうだよ」
「遊んでいたんじゃありません、調査です調査。天馬の調査」
「ふーん。ほんとに?」
強い疑いの眼差しを向けられて、ディアナはうろたえた。書庫の薄闇と、グリフィンの唇の感触が蘇る。
しかも、自分は無防備な寝衣。こんな姿をキールに見られてしまうなんて、恥ずかしいのひとことでは説明ができない。泣きたい。
「……しゅ、収穫もありましたよ、ほんのちょっとは。あっ、明日にでも、キールの馬を見せてくれませんか。芦毛の馬に、大いなる手がかりが隠されているようです」
「アカツキのこと? また馬の話なのか。別にいいよ。まあでもそれは、明日の話で」
キールはディアナに近寄って、マントを脱いだ。マントだけかと思っていたら、キールはベストも脱ぎ、白シャツ一枚の姿になった。
「キール? あの、なぜそんな格好に」
戸惑いを隠せないディアナは、壁ぎわまで後退した。無意識に逃げ道を目で探す。窓は締められてしまったし、廊下への扉も錠が下りていて、すぐには飛び出せない。
「ねんねのディアナ。まだ状況が飲み込めないの? 夜這いだよ、夜這い。聞いたこと、あるだろ。愛しい人のもとへ忍び込む、あれだよ」
「よ、夜這い? よく、私の部屋が分かりましたね」
「わたしは、この国の王子だよ。この前は直接聞き出そうとして失敗したけど、少し調べれば、すぐに明らかになることさ。隣の部屋のベランダからこちらに飛び移るのは、ちょっと大変だったけどね。窓の鍵を締め忘れてくれていて、助かったよ。手荒な真似はしたくなかったから」
おそらく、王子は鍵が締まっていたら窓を破ってでも侵入しただろう。空恐ろしい。
「おいでよ。明日どこに行くか、抱き合いながら考えよう。ふたりの将来のことでもいいし」
我が物顔で、キールはディアナの寝台にごろりと寝そべった。
「ええっ。あのそれ、私の寝台」
ディアナがせいいっぱいの苦情を唱えると、キールは半眼のままで、うろたえるディアナを見上げた。
「ああ、そうだったね。今宵が初主役の、ディアナ姫」
そう言って勢いよく起き上がると、細い体なのにキールは軽々とディアナを抱き上げた。
「やだ、キール? 下ろしてっ」
あたたかいキールの腕の中。ディアナの目の前には、シャツからはだけた白い胸元が、ちらついている。
「ディアナの体、いい香り。髪も。わたしのためにお風呂を済ませてくれたんだね。あぁ、でもまたきっと汗をかくね、そのときは洗ってあげる」
「や、やだ。キールってば。まずは下ろして」
「月明かりが、ふたりを誘っているよ。寝衣もかわいいけど、もっとじっくりとディアナを見たいな」
キールはディアナをお姫さまだっこしたまま、再び寝台の上になだれ込んだ。
「かわいいディアナ。今夜、わたしのものになれ。守り刀を交換して、永遠の愛を語り合おう」
「待って……私、あなたと結婚するなんて、決めていません」
「いやいや、もう決まっているようなものだよ。だいじょうぶ、わたしが全部教えてあげるから任せて」
「教えてあげるって、な、なにを?」
「ディアナは心配性だねー。すぐに馴れるよ」
「待って、お願いだから待って。重いよ、キール」
「いつまで待てばいいの? 一分? 二分?」
すでにディアナは、キールの体にほとんどのしかかられていて、どうにも身動きが取れない。腕もしっかり押さえつけられている。ディアナは必死で身をよじるものの、キールの力は細い体つきのわりに強くて、さっぱり抜け出せない。それでもディアナが左右に細かく動くので、キールはディアナの寝衣のボタンを外すのに手こずっている。
「あの、だから、私たち……そんな仲じゃ」
「これからそういう仲になるんだよ、ずーっとね。恥ずかしいのは、最初だけ。きっとディアナも好きになる。なにより、皆も喜ぶよ。王も王妃も王太子も、わたしと婚礼をして我が国に残ってほしいんだ、ディアナ」
「皆?」
「そう。グリフィンも、ね」
「あのお方も、喜びますか」
「ああ、もちろん。ディアナが銀脈を発見してくれれば、国が豊かになる。軍を強化できる。馬が買えるし、たくさん育てられる。わたしたちが子どもをたくさん生めば、お互いの国が栄える」
果たして、喜ぶだろうか。
グリフィンは、ディアナとキールの結婚をほんとうに喜ぶだろうか。グリフィンにとっては、練習の口づけだったかもしれないが、ディアナにははじめてのことだった。しかも、何度も交わしてしまった。単なる練習だったら一度でいいのに、繰り返したということは、グリフィンにもなにか感情の変化があったと思うのは、勘ぐり過ぎだろうか。
「でも、だめ。こんなこと、私。許されません」
「だいじょうぶだって。王には秘密にしておく。婚礼前に共寝したなんて知ったら、泡を吹くよ。うまくやるから」
「そ、そそそそんなこと言って、今まで何人の娘さんを騙してきたの? 私、偶然見たのよ。遠乗りに出かけた先の宮殿で、キールと王太子妃が激しく、く……唇を重ねているところを」
「……へえ、あれを見たの?」
キールは初めて、顔に困惑を浮かべた。
「ええ、グリフィンも。あんな場面に遭遇してしまったら、あなたの言うことは信じられないわ。ご自分の兄のお妃さまと、あんなことを」
「ディアナは潔癖だなあ。いいだろう、別にあれぐらい。わたしはあれがないと、生きてゆけない体でね。王太子妃は、治療が上手なんだ。王太子との口づけを見て、お願いしたら快く引き受けてくださって。心の広いお方だよ。なんだい、その不審そうな顔。最後まで契ったわけでなし、ちょっと唇と唇が衝突したぐらいで」
「だ、だめ! ああいうのは、大好きな人とだけです」
『治療』のためとはいえ、許されない……ディアナはそう言いかけた。
「じゃあディアナ、きみがやって。ディアナがしてくれるなら、他の女とはもう二度としないよ」
「えっ」
「ほら早く。今日はディアナとすると決めて、ずっと我慢してきたんだ。だんだん苦しくなってきた。ディアナ、きみの免疫をくれないか。治療を怠れば、わたしは死ぬ」
ほんとうに苦しそうなのだ。息遣いが荒いし、指先がとても冷たい。ディアナは迷った。ここで撥ねつけて、容態が悪くなったらどうしようと考えつつも、唇を重ねたらなし崩し的にキールと朝まで共に……なんて可能性もある。グリフィンとの『練習』でも、ディアナは全身に力が入らなくなってしまって、妙になまめかしい気持ちになってしまったばかりなのだ。負けるわけにはいかない。




