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生き残り錬金術師は街で静かに暮らしたい  作者: のの原兎太
第三章 芽吹き育つもの
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不可視の攻防

 地面を、階層間を隔てる殻を振るわせて、高温のガスが吹き上がる。

 シュゴゴゴゴォと鳴り響く重低音よりも、その温度、そして成分こそが凶器であったろう。


 砂塵をはらんで56階層からもうもうと吹き上がる灰色の煙はたちどころに55階層の天井に到達し、渦を巻いて周囲に拡散していく。

 はなれた場所に立つニーレンバーグに届く異臭。これはと思い至ったニーレンバーグが天から噴出口に視線を移せば、そこには幾人もの兵士たちが倒れ伏していた。


 地響きとともに突如として噴出したガス、充満する悪臭、ばたばたと倒れていく仲間たち。その有様に下階からの攻撃かと混乱する兵士たち。

「階段から離れろ」と叫ぶニーレンバーグの声は、喧騒と噴出音にまぎれて兵達には届かない。倒れた仲間を助けようと駆け寄った一団が、仲間にたどり着くより先に倒れ伏していく。

 急速に魔の手を伸ばす毒ガスに迷宮討伐軍はなすすべもなく、ここで滅びてしまうのか。


《全軍、我に続け!》


 その時、強制力にも似た強い意志が迷宮討伐軍を貫いた。

 声が聞こえたわけではない。具体的な指示が伝えられたわけではない。けれど迷宮討伐軍全員が、“後に続け”と思ったのだ。


 金獅子将軍レオンハルト。彼のスキル『獅子咆哮』は、配下の能力を向上させ、一個の意志を持つ集団として機能せしめる。強烈なカリスマにも似た彼のスキルによって、活路は今見出された。

 瞬時に混乱は収まり、全軍の意志はレオンハルトに集まる。


「ウェイス、塞げ。短時間でいい。ニーレンバーグ、対処はあるか」

 レオンハルトの一言で成すべきことを理解したウェイスハルトは巨大な氷の柱を作りだし、ガスの噴き出す階層階段へ叩き込む。魔力の大半を篭めた円錐形の氷柱は尖塔の先のような巨大さで、切っ先を階下に向けまるで魔物に止めを刺すかのごとく階層階段に突き刺さる。ウェイスハルト配下の魔術師たちも補強するように氷魔法を繰り出して、氷柱を固定していく。


「このガスは水に溶ける。布を濡らして口をふさげ。空気より重いから高台へ避難を」

 ニーレンバーグの端的な説明にレオンハルトがうなずくと、階層階段周辺に倒れる兵士に目を向け「兵を頼む」とニーレンバーグに短く告げた。


「濡れた布でマスクを!治癒魔法使い及び騎兵は負傷兵の救出に向かえ!魔術師兵は風魔法で援護を!残りは我に続け!」

 声にスキルの支配力を載せ全軍に通達するレオンハルト。彼の声に、『全員で助かるぞ』という伝わる思いに冷静さを取り戻した兵士たちは、すぐさま手拭いやマントを生活魔法の《ウォーター》で濡らして口元に巻きつける。特にアーリマン温泉ツアーに行かされていた兵士やアーリマン温泉採取作業を命じられた二軍兵たちは手際がいい。彼らは平静さを取り戻すと同時に思い出したのだ。この臭いは温泉付近で湧き出るガスの臭いだと。


 彼らがアーリマン温泉から持ち帰っていた鉱物は二つ。一つはサソラル石、もう一つは黄色い土塊だった。どちらも殺虫特化ポーションの材料に必要なもので、黄色い土塊の方は溶解液を作るスライムの餌に混ぜられる。この土塊が取れるあたりには無色の毒ガスが噴出していて、においを感じなくなった時にはもう手遅れだと散々言い聞かされていた。採取に当たっての教育も十分に行われていて、ガスの特性や万一の時の対処方法も教わっていた。

 手際よく自分や周囲にマスクを施し、退避行動に移る兵達。風魔法が使える者は救援に向かうニーレンバーグたちの背を押すように風魔法を送り、毒ガスから救援部隊を掩護する。救援部隊は害虫駆除団子を運んできたラプトルたちの背に負傷兵を回収し、回復魔法で応急処置をしていく。


「急げ! 猶予はないぞ」


 排出口を塞ぐ氷柱は噴き出そうとするガスの熱で見る間に溶けているのだろう。排出口と氷柱の隙間を抜けてガスが噴き出し、甲高い音を響かせている。ニーレンバーグら救援部隊が何とか全員を救出し、退避する一団に合流したまさにその時、ドォンという音と共に氷柱が吹き飛ばされ、再びガスが噴き出した。


「走れ! 走れ! 走れ!」

 先駆けた精鋭のハルバードの一閃が行く手を遮る木々を切り倒し、森林に退路を切り開く。草をかき分け道を踏み固めて迷宮討伐軍はひた走る。向かう先はこの階層で唯一小高い丘。走っても走っても臭気は薄くなるどころかますます濃く、見えない魔の手が差し迫っていることがわかる。


 走れ、走れ、走れ。臭いが感じられるうちはまだ大丈夫だ。一兵たりとも脱落者を出してはならぬ。誰ともなく励ましあって目的地の丘を駆け上がる。頂上に続く切り開かれた道の途中には、弓兵が万一の備えで常備している対アンデッド用の銀の矢を打ち込んである。このガスは銀を腐食し黒変させるから目印だ。


「点呼を! 目鼻や呼気の辛いものはポーションを使え!」


 ウェイスハルトの指示に従い丘の上に整列する迷宮討伐軍。彼らは低級と中級ではあるが全員ポーションを携帯している。意識を失わず丘にたどり着いた兵の多くも毒ガスによる不調を訴えていて、治癒魔法使いだけではとても手が足りない。ニーレンバーグと治癒魔法使いたちは高濃度のガスを吸い込み意識を失った兵士たちの治療にあたっている。意識はないが幸いにも命はまだ潰えていない。


 助かった、何とか丘にたどり着いた。そう考える兵士たちと裏腹に、レオンハルトやウェイスハルト、ニーレンバーグの緊張は解けない。

 じわり。丘の裾に穿った銀の矢が黒変する。じわり、じわり。次々と色を変える銀の矢にあふれたガスがひたひたと丘を登り周囲に充満しているのがわかる。


(まだか……)

 この階層に逃げられる場所などほかにない。上の階層に続く階段は噴出口のすぐそばで、最も死地に近いのだ。


(まだか……)

 レオンハルトは祈るように天を仰ぐ。見上げた先に空はなく、灰色の迷宮の天井を日光石が照らすばかりだ。彼の祈りは迷宮の天井に阻まれ天に届くことはないのだろうか。


 最後の銀の矢の色が変わる。

 見えぬ魔の手はすぐ足元まで迫っているのだろう。あれほど感じられた臭気ももはや感じ取ることはできない。


(ここまでか……)

 レオンハルトがあきらめかけたその時。


 タッタタッタタタタタッ。


 大粒の雨が降ってきた。

 仰ぎ見る頭上には迷宮の天井が広がるばかりで雨雲は見当たらない。けれど天井から染み出たかのように、土砂降りの雨が降り注ぐ。上の階層は海水で満ちているのに雨に塩の香りはしない。どういう仕組みになっているのか、そんなことはレオンハルトにはわからない。ただひとつわかることは。


(助かった、のか……)

 このガスは水にとてもよく溶けるという。害虫駆除団子の散布は雨間を縫って行われるから、降雨を見込んでここへ来たのだ。

 土砂降りの中、ぬれねずみになりながら、レオンハルトは深い息を吐く。


(助かりはしたが……、下階はいかなる階層か……)

 迷宮に降る雨は、臭気と共に迷宮討伐軍から笑顔さえも洗い流して行った。



************************************************************



 迷宮討伐軍が辛くも死地を脱し、55階層から撤退した3日後、3人の男と思しき人影が再び55階層を訪れた。3人は背丈や歩き方から男性と思われるだけで、全身は芋虫を思わせるぶかぶかした魔物革の防御服をまとっているし、顔もマスクとゴーグルが一体となったフルフェイスの保護面を付け何者かはわからない。


 54階層の海底洞窟には毒ガスは届いていないようで、いつもと変わらぬ穏やかな安全地帯であったのだが、かつて緑豊かな大森林が広がっていた55階層の階層階段付近は灰が降り積もり、草木は枯れ荒廃した大地が広がっていた。それでも数百mも離れれば灰に汚れくすんではいるものの緑の森が広がっているから、階層主を斃し衰えたとはいえ通常の森にあるまじき再生力の高さと言えた。


 55階層に降立った3人は針の代わりに細いガラスの管がついたシリンジで周囲の空気を吸い取ったり、液体の入った瓶にゴム球でシュコシュコと空気を送り込んだりしては、ガラス管の内容物の色の変わり具合や、液体の様子を確認している。3人の中で最も背の低い男がリーダーなのかガラス管や瓶を受け取って確認しては、何やら帳面に書き付け、持ち帰るためにしまわせる。

 何箇所かで同じ作業を繰り返した3人は、56階層への階段、ガスの噴出口へと近づいた。


 階層主が斃されたときに勢いよく噴出していたガスは勢いを弱め、今ではもわもわと蒸気が立ち昇っているだけに見えるが、温度は非常に高温で、有害な成分も変わらず含まれている。高温の気体というものはそれだけでも十分に脅威となりうる。有害な成分がない唯の水蒸気でさえも200℃程度の温度の物に一瞬触れただけで酷い水ぶくれを生じるほどの火傷を負ってしまうのだ。

 男は決して高温のガスに触れぬように噴出口に近づくと、中に幾つもの鉱物や瓶、金属片を結びつけたロープを投げ入れる。暫らくしてから引き上げるとすぐさま噴出口を離れ、引き上げられた鉱物や金属片の変色具合や瓶の内容物を確認していく。得られた情報に納得したのか、男は帳面に再び記録をすると残る二人に帰るぞと上階への階段を指し示した。


 地下大水道を経由して迷宮討伐軍の基地に戻った3人は、マスクや芋虫のような分厚い防御服を脱いだあと、レオンハルトらの待つ会議室へと通された。会議室ではレオンハルト、ウェイスハルト、ニーレンバーグに加え、数名の側近が険しい顔で待ち受けていた。

 3人のうち一人は迷宮討伐軍の斥候らしき若者で、残り二人、先ほどのリーダーとその助手らしき眼鏡の男が今回調査のために招聘されているようだ。


「ご苦労だったな、ガーク。して状況は?」

「ガス自体は良くある火山ガスだ。マスクさえ揃えりゃ、何とかなるだろうよ。それよりも温度のほうが問題だ。冷まさねぇと話にならねぇ」

 レオンハルトの問に調査リーダーことガーク爺が応える。迷宮で単身採取活動を行える彼は、素材鑑定のスキルと併せて迷宮都市でも屈指の調査能力を誇る。特に魔物より環境面での調査を要する局面で並ぶ者はない。その能力を見込まれて今回の調査を依頼されたのだ。助手らしき男はガークの知り合いだろうか、平均よりは長身だが大柄と言うほどの体格でなく、穏やかそうな表情に眼鏡をかけた学者か教師を思わせる男だった。助手の男はガークのメモを受け取るとウェイスハルトの側近に手渡している。

 側近から受け取ったガークのメモに目をやりながら、今度はウェイスハルトが質問する。


「毒ガスはマスクで無害化できるとして、酸素は、呼吸は出来るのか?」

「息ができるかは冷やしてみねぇと確かな事はいえねぇが……、ガスの割合がちいと気になってな。開いた時に爆発しなかったってぇのと合わせても恐らく息はできるだろうよ。息はな」

 ウェイスハルトの問に応えつつ、含みを持たせた言い方をするガークにニーレンバーグが尋ねる。


「酸素がある、いや、供給されているということか。つまり、あの環境で呼吸をするモノがいると?」

「あぁ……、厄介なのがいそうだぜ」


 55階層でニーレンバーグが立てた仮説をガーク爺が肯定する。『迷宮の気候は、毒ガスや空気の有無さえもその階層に生息する魔物に合わせて整えられている』。

 現状わかっている範囲だけでも、56階層は人が活動できないほどの高温で、有毒な火山ガスが充満し、しかも56階層への階段が開通するまでは通常よりも高圧な条件だった。そんな環境で活動できる、酸素が必要な生き物とは一体……。


「ともかく、やれる事を実行しよう」

 重苦しい雰囲気を破るように、レオンハルトが声を上げる。

「54階層、海岸洞窟の海水を引いて冷却できんか?」

「海に浮ぶ柱の残骸で水撃を再現してみましょう。送水くらいは出来るかと」

「あとはマスクか。ガーク、どのようなマスクが必要か?」

「亜竜の肺で十分だろう。ワイバーンだな。ゴーグルもあったほうがいい。ガラスじゃ強度が心許ねぇな。どうせワイバーンを狩るんだ。翼膜をなめして貼りゃあいいモンに仕上がるだろうぜ」

「ワイバーンか、魔の森だな。ギルドに依頼を。迷宮討伐軍のBランクの訓練にも丁度いい。合同討伐を組め。ニーレンバーグは引き続き重傷者の介護を頼む」

 レオンハルトの指示を受け、一同は各々の責務を果たすべく席を立つ。56階層の全貌は不明なままで、現状では立ち入る事さえも叶わない。それでも、呪い蛇の王(キングバジリスク)に何年も挑み続けた事を思えば、やれることがある今はよほどましな状況と言えた。


「それじゃぁ、俺はコイツを仕込んだら帰らせてもらうぜ。56階層が冷えたらまた呼んでくれや。……いや、下さい、だな」

 口が悪くていけねぇやと、頭を掻きつつ迷宮討伐軍の斥候の若者を指し示すガーク。


「いや、構わんよ。引退したと言うのに世話をかけるな、ガーク爺」

 どこか懐かしさを孕んだ声でガーク『爺』と呼ぶレオンハルト。


「それこそかまわねぇ話だ、レオンハルト将軍。将軍てーのは、何でもかんでも背負わされるもんだろ? 手下にくれぇ、《命令》すりゃぁいいんだよ」


 そう言って、会議室を後にするガーク爺を見送りながら、レオンハルトは小さく感謝の言葉をつぶやいた。





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― 新着の感想 ―
[気になる点] 「不可視の攻防」に登場する毒ガスに関してですが、 >この臭いは温泉付近で湧き出るガスの臭いだと。 と記されている事から考えて、作中の毒ガスの正体として硫化水素ガスを想定しているもの…
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