始まりの音
スラム街の端、外壁近くのとある廃墟に大規模な工房が開かれた。
工房と言っても急造されたもので、板張りの壁に床は土間のまま。迷宮都市の建築基準を満足していないから、人が居住することは出来ない。スラム街でも外壁近くの魔の森に近い場所は誰も住みたがらないから、広い敷地面積を確保するにはうってつけだった。
その工房には迷宮討伐軍がアーリマン温泉周辺から採掘したサソラル石やスライム溶解液、いくつもの薬品、そして匂いの強い食材が運び込まれていた。運び込まれた材料を処理する係が決まっているらしく、ある者は座ってサソラル石を槌で細かく砕いて桶にいれ、ある者は桶を決められた場所に運んでいた。運ばれたサソラル石の粉をスライム溶解液の入ったタンクに慎重に投入している者もいれば、冷却魔法でタンクの冷却を行っている者もいる。
一口にスライム溶解液と言っても、野生のスライムが吐く溶解液は様々な成分の混ざり合ったものだ。調教されたスライムに決まった餌を与えることで純度の高い単一な溶解液を得ることが出来る。この工房に運びこまれているのは、卵や臭いの強い野菜、温泉で取れる黄色い粉を与えたスライムの溶解液で、水に溶かすと発熱する性質がある。サソラル石は一見乾いた鉱物だけれどスライムの酸で溶かすと水が出るし、溶かすときにも発熱する。放っておくとタンクが加熱して危険な状態になるから、冷却魔法で冷やしながら作業を行っている。
溶かした後の液体も、欲しい成分といらない成分が混ざっていて、濾したあと温度差を利用して分離するという傍目では何をしているのかわからない作業が必要になる。高レベルな錬金術スキルがあれば魔力量に応じていくらでも量産できるものだけれど、スキルを使わないとなると複雑な作業と多くの設備や人手が必要となる。
こういった複雑な作業を監督し、指揮している者達はアグウィナス家で新薬の製造に携わっていた技術者たちだ。彼らの多くは帝都でそれなりに経験をつんだ錬金術師だから、迷宮都市でポーションを作ることは出来なくても知識の面で役に立つことが出来る。そして働いている人たちの半数は赤の新薬の『原料』から生き延びた人たちだった。
工房の片隅ではキャロラインと父ロイスが魔工技師と作業の効率化が図れる魔道具が無いか相談を行っている。魔工技師は『薬製造用の練混機』の開発でお世話になった人だから、キャロラインとも顔見知りで親身に話を聞いてくれている。生き生きと仕事をするキャロラインの様子をマリエラは少し離れた場所で眺めていた。
マリエラがごねたために外注となったサソラル石の処理と食いつきの良い団子の開発は、アグウィナス家が受け負うことになった。マリエラが初めてその話を聞いたとき、自分の我がままのせいでキャル様に迷惑をかけてしまったのかとあせったのだが、キャロラインは少し安心したような笑顔で「ウェイスハルト様がこのお話を持ちかけてくださって、正直助かりましたの」と話した。
アグウィナス家の一件以来、新薬の製造は中止された。ポーションや新薬の販売以外の事業を行ってこなかったアグウィナス家は、収入の大半を失うこととなった。
それでもキャロライン親子と僅かな家人が生活する程度の収入はあったのだが、新薬製造に携わっていた帝都の錬金術師たちや赤の新薬の『原料』から生き延びた奴隷達を食べさせていくには、財産を切り崩していくほか無かった。帝都の錬金術師は新薬、特に贄の一族の情報を知りすぎていて、帝都に帰すほうがよほど危険だったし、赤の新薬の『原料』には体の一部が欠損した者が優先的にまわされ、長らく寝たきりを強いられて肉体が衰えきっていた。そんな奴隷達に買い手などつかなかったのだ。
キャロラインは薬の収益で彼らを養おうと頑張っていたのだが、彼女一人の労働力で賄えるものではなかった。
だから迷宮討伐軍から『ゴキブリ駆除団子』の製造を受注できたのはありがたかった。迷宮討伐軍からの注文は一時的なものだが、迷宮都市にもゴキブリはいるからこの仕事が終わった後でも一定の収入が見込める。『殺虫特化』のポーションが無くとも、魔物ではない唯の害虫であればサソラル石から抽出した成分で十分効果が見込めるし、『ゴキブリ駆除団子』の製造には比較的高価なサソラル石の処理設備が必要だから迷宮都市に競争相手はいなかった。迷宮討伐軍の注文分で初期費用を賄えば、帝都の錬金術師や奴隷達を養うことも出来るだろう。
家の都合で二十歳も年上の男と婚約させられ、兄の失態から婚約破棄、収入の激減した状態で家督と帝都の錬金術師や奴隷達を養うハメになったキャロライン。それでも前向きに頑張る彼女に思うところがあったのか、被害者であるはずの帝都の錬金術師や奴隷達は皆前向きに協力していた。
「駆除団子の製造は順調ですか?」
キャロラインたちのところへ迷宮討伐軍の副将軍、ウェイスハルトが視察に訪れた。
「これはウェイスハルト様。ようこそお越しくださいました。サソラル石の処理は予定通りに進んでおります。団子の方も満足のいく出来に仕上がってございます。キャル、ご案内して差し上げなさい」
ロイスはウェイスハルトに挨拶すると、キャロラインに案内を任せる。マリエラの活躍によって憑依していた兄ルイスと別れ、回復しつつあるロイスだったが長年にわたる寝たきり生活のため、まだ車椅子での移動を余儀なくされおり、あちこちに道具や材料が散乱している工房内での移動はいささか不自由だった。
「ウェイスハルトさま、こちらへ」
案内を任されたキャロラインはウェイスハルトに工房内を案内する。生産能力に関するウェイスハルトの質問にもよどみなく答える様子から、彼女がこの工房を取り仕切っていることが見て取れる。
最後にキャロラインは工房内に設けられた小さな実験室へとウェイスハルトを案内した。ここで黒い悪魔が喜んで食べる団子を研究している。
「帝都の錬金術師にも協力いただいて調整を行って参りました」
マリエラを招き説明するキャロライン。身分は違えどマリエラはキャロラインの友人で、共に薬を製造販売する仲間だ。食い付きの良い団子の開発もずいぶん協力してもらっている。マリエラからすると仕事を押し付けてしまった上に《ライブラリ》の情報を提供しているだけなのだが、キャロラインはアグウィナス家の窮地に尽力してくれた友人にとても感謝をしていた。今回も、マリエラの手柄をウェイスハルトに正しく報告するために、キャロラインはマリエラを招き入れたのだ。
キャロラインに呼ばれてのすのすとやって来たマリエラに、ウェイスハルトは「協力に感謝を」と謝意を示す。工房内には多数の人間の目がある。迷宮討伐軍の副将軍が民間の協力者に示せる謝意としてはこれでも過ぎた部類だ。平静を装うウェイスハルトだったが心中では、迷宮都市の錬金術師に感服していた。
(サソラル石の処理と団子の作成を他でと聞いたときは、意図を汲みかねたが……。流石は200年の時を超えし明敏なる錬金術師。何たる慧眼か。殺虫特化型ポーションの製造の一部をもってアグウィナス家の技術者や材料とされていた奴隷達を救済するとは。この事業ならば殺虫特化型ポーションが無くとも家庭用の殺虫団子として事業が成立する。彼らは十分に生活していくことが可能だ。いや、彼らだけではない。この事業ならば、販路さえ確保できればスラムの住人を受け入れることすら可能かもしれない。)
ウェイスハルトは迷宮討伐にばかり気をとられアグウィナス家への配慮に欠けていた自らを恥ずかしく思った。この工房で働く人の多くは身体に欠損を抱えているが、それぞれが出来る作業を分担してサソラル石の処理を行っている。迷宮都市は魔道具の普及率が高く、魔道具を用いた製品製造も行われている。それでも"スキルによる生産"が主流だから、スキルの無い者がしかも分業して製品を製造するという工房は余り見られないものだった。
(この製造工程すら迷宮都市の錬金術師の発案とは……)
新しい生産方式を目の当たりにして、迷宮都市の錬金術師の深慮に震えるウェイスハルト。勿論、マリエラはそんな大層なことを考えていたわけではない。
「片手の無い方では石を割れませんわ」
そう言って相談してきたキャロラインに、「割れる人に割ってもらうか、魔道具でいんじゃないですか?片手の無い人は別のことすれば」と適当に言っただけだ。
「……、そうですわね。そういたしましょう!」
分業という概念が無いにもかかわらず、適当なマリエラの意見からこの工程図を引いたキャロラインは才媛と言っていいだろう。
(そーいやー、ジェネラルオイルはほとんどジークに練ってもらったなー。自分で練るとしんどいから。今じゃ攪拌魔道具ですぐだけど。今晩は久しぶりにジェネラルオイルでお肉食べようかな。)
キャロラインの横でオーク肉のことを考えていたマリエラもちょっとは貢献したのかもしれない。
そんなことなど露知らぬウェイスハルトの勘違いは止まらない。
(前回お会いしたときより、ずいぶんと、その、恰幅が良くなっておられるが……。これも何か深い考えあってのことに違いあるまい)
「うむ」と、何に対してかわからない返事をするウェイスハルトにキャロラインが殺虫団子の説明を続ける。
「お団子のサンプルも出来上がっております。頂いた作り方を元に改良を加えました。通常の種類でしたら間違いなくこれが一番かと」
「ふむ、開けてみても?」
キャロラインが渡した広口の瓶には人間が一口で食べられそうなサイズの団子が幾つも入っていた。開けてみるとツンと刺激のある臭いが部屋中に広がる。人間が美味しそうだと感じる臭いではない。甘酸っぱくて少しすえた、ウェイスハルトやキャロラインのように身の回りの一切をメイドが行う人間に馴染みの無い臭いだった。
「サイズの割にずいぶんと臭いが強いですね」
「はい。その臭いに誘われてやってくるのですわ」
かさかさかさ。
キャロラインの説明を裏付けるかのように、早速招かれざる客が来たようだ。55階層に住まう1mサイズのモノではない、ごくごく普通のありふれたヤツだ。当然その音はかすかなものだ。
けれど迷宮討伐軍の副将軍を務めるウェイスハルトの優れた聴覚がその音を聞き逃すはずはない。日々繰り返された55階層の悪夢がウェイスハルトの脳裏によぎる。てらてらと光る忌まわしい光沢が目に浮ぶようだ。表情筋の一切を動かさず、ピシリと固まったウェイスハルトに気付くものはいない。
(ヤツはいる。ナナメ後ろの壁面だ。音から推測するに高さは地上からおよそ1.5m。視界に入るまでの時間はおよそ3……、2……。)
ぺちこーん
ヤツがウェイスハルトの視界に入るよりほんの少し早く、キャロラインが動いた。手にはよくしなる乗馬鞭のようなものを持っている。乗馬鞭にしてはチップの部分が広く大きい。
貴族の令嬢とも思えぬ素早い一撃ではあったが、キャロラインはか弱い。その一撃はヤツを潰すことなく、僅かに動きをとめたにすぎない。
《アイス》
続けさまに氷の魔法を唱えるキャロライン。その威力は小さいがヤツを氷の粒の中に閉じ込めるには十分だった。
「お見苦しいところをお見せいたしました、ウェイスハルト様」
氷で閉じ込めたヤツを鞭の先で器用に掬うと、ぽいとスライム処理槽へ捨てるキャロライン。澱みない動きは優雅であり、どこか頼もしくもある。ヤツを片付けたあとウェイスハルトから団子の瓶を受け取ると、これ以上呼び寄せないように蓋を閉める。瓶を受け取る際に僅かに触れ合う指先、にこりと微笑むキャロライン。
きゅん
ウェイスハルトの中で、何かが始まる音がした。
(なっ、なんだ、これは……!?)
どきどきと高鳴る鼓動にうろたえるウェイスハルト。幼い頃から兄を補佐し迷宮を倒すことこそ全てと教育されてきた彼だ。こんな感情を彼は未だ経験したことが無かった。
兄レオンハルトは『獅子咆哮』という行軍に特化したスキルを持っている。こういった特殊なスキルは傍系より直系のほうが出現しやすいから、シューゼンワルド辺境伯家はレオンハルトの子供が受け継ぐ。ウェイスハルトにとってもそれは当たり前のことで、叛意など微塵も持ってはいなかったが、跡目争いが万に一つも起きないよう、レオンハルトの嫡子が成長するまでウェイスハルトは婚約すらも許されていない。レオンハルトの嫡子が成長し正式に跡目と定められた後、政略上都合の良い他家へ婿に出されるのだろうと漠然と考えていた。
「どうかなさいまして?」
様子のおかしいウェイスハルトを心配そうに覗き込むキャロライン。
(かっ、かわいい……)
ウェイスハルトは思わず奥歯を噛み締める。どんなときでも完璧に制御できた表情筋が言うことを聞かない。顔が紅潮しているのがわかる。キャロラインはこれほど愛らしい人だったろうか。
(いかん。落ち着け。一時の気の迷いに過ぎん! 他と比べて落ち着くんだ! 彼女が特別な訳ではないはずだ!)
工房に来て以降見た光景を、人の顔を思い出すウェイスハルト。
工房では沢山の者が働いていたはずだ。「研究が好きです!」と言い出しそうな陰気な技師に、「チンケなワルでございます!」と言った風貌の犯罪奴隷。少し前まで気が触れていたロイス・アグウィナス。
(やはり、キャロラインは愛らし……ちがう! 男と比べてどうする!)
顔を上げればキャロラインの後ろにいるではないか。もう一人女性が。……十人中九人は振り返らなそうな、いや、今は膨れ上がった体型から二、三人は振り返りそうな団子のような錬金術師が……。
(やはり! やはり! キャロラインは愛らしい……!!!)
なんと言う対比、なんと言う計略。まさかここまで計算のうちなのか。この為に菓子を食らって肥大化までしたと言うのか。迷宮都市唯一の錬金術師の策謀はこの迷宮よりも深くうかがい知ることさえできぬと言うのか――。
「あの、顔色が優れませんわ。やはりどこかお加減が……」
心配そうに近寄るキャロラインにウェイスハルトは何とか「きょ、今日はこれでお暇する……!」とだけ伝えると、供の兵士を引き連れてそそくさと退散して行った。
キャロラインの元を去ってもウェイスハルトの心臓はどきどきとうるさい。工房内をかさかさと這い回るヤツの足音も、もはやウェイスハルトの耳には届かなかった。
黒い悪魔のつり橋効果?




