黒い悪魔
【後半注意】黒い悪魔がカサカサゴソゴソ大ハッスルです。
「マリエラ、地下室は冷える。休憩にしよう」
地下室で作業するマリエラをジークが呼びに来る。小さな暖房の魔道具の横で作業に没頭していたマリエラの手はかじかんで、指は赤くぷっくりとしもやけになっている。
暖炉の前でこすこすと手をすり合わせて温めるマリエラ。
ココアを飲む前にジークが地下から持ってきた低級ポーションを手にとって指先に塗り合わせると、しもやけはたちどころに治ってしまう。残ったポーションを手にとると顔にも塗りつける。
「下から上にー、下から上にー、リフトアーップ」
帝都などポーションが安く手に入る地域では良く見かける光景だ。
ポーションは怪我を治す。肌荒れも軽微な肌の損傷だから低級ポーションで治すことができる。生活に困らない程度の家庭であれば、子供がちょっとした怪我をしたら低級ポーションで治してやって、残ったポーションを母親が顔に塗るといった光景はよく見受けられる。
勿論毎日使えるほど庶民の暮らしは楽ではないから、普段使う化粧品といったものも出回っている。低級ポーションはいわゆるスペシャルケアというやつだ。
「はい、ジークも。顔の傷跡、なかなか消えないねぇ」
そんなことを言いながらジークの手にも低級ポーションを垂らすマリエラ。
「この傷が消えたら不自然だろう。むしろ残っていて良かったと思うよ」
そう答えながらジークはニーレンバーグの稽古でついた擦り傷にポーションを伸ばしたあと、ココアの入ったコップをマリエラに渡した。
低級ポーションを塗ってつやつやになったマリエラがほかほかと湯気を上げるコップに顔を近づける。
ほかほかつるん。
まるで剥きたてのゆで卵みたいだ。今日もマリエラは素材の味が活きている。
暖炉のある居間には長椅子と対になった一人がけの椅子、テーブルにいくつかの家具が置いてあった。ジーク達がアーリマン温泉に出かけてすぐに開かれた家具市で購入したものだ。どの家具もマリエラが見つけ、シェリーがデザインをチェックしてキャロラインが品質を見定め、アンバーが値切った一品だ。余りにピンポイントでよい品ばかりをハントするので四人セットで家具商に就職しないかと持ちかけられたくらいだ。
どれも貴族家から払い下げられた品だけれど、落ち着いたどこかかわいらしいデザインのものばかりで、『木漏れ日』の居間にとても良くあっている。お役ごめんになった机代わりの木箱は、地下室で箱としての職務を全うしている。
「ちょっと家具市で使いすぎちゃってね。ジークが出かけている間に使っていいって言った分、ほとんどなくなっちゃってさー」
ジークがいない間、冷凍の魔道具にしまわれたオーク肉と薬草園の薬草、メルルさんから届けられる『試供品』のお菓子を食べて暮らしていたらしい。
「マリエラのお金なんだから、臨機応変にすればいいのに」
「そうなんだけどね。それよりこの椅子、キャル様の家の椅子みたいにふかふかだよー」
嬉しそうに笑いながら長椅子の上で跳ねてみせるマリエラ。
ジークは知らない。この長椅子でマリエラがこんなに跳ねるのは、今日が初めてだということを。
ぽよんぽよんぽよんしょぼん
跳ねても誰も何も言ってくれない『木漏れ日』は、一人で暮らすには広すぎる。
「スラーケン~、聞いてよ~」
ジーク達がアーリマン温泉に出かけている間、お客やニーレンバーグが帰った後のマリエラは、お菓子の箱を掴んで工房に篭り、瓶の中のスライムことスラーケンに話しかけながらお菓子を齧りポーションを作っていた。
家具市で使いすぎてしまったけれど、お金が無かったわけではない。一人で作って食べる食事が寂しかったのか、単に億劫だったのか。そんな話をマリエラはしない。けれど、「ジークのココアは美味しいね。マシュマロもう一個お代わり」とねだれば、「……甘やかしすぎか……? 今日だけだぞ?」などとぶつぶつ言いつつもマシュマロを足してくれるジークと過ごす時間はとても暖かい。帰ってきた日常をマリエラは噛みしめていた。
「で、今回は何を作っていたんだ?」
「うん。殺虫特化型のポーションが大量にいるんだって」
マリエラはジーク達がアーリマン温泉に出かけていた間のことを語って聞かせる。
ジークの訓練が無くともニーレンバーグは朝早くからやって来て、開店までの短い時間にマリエラにポーションについて質問したり、マリエラの体調を確認したりしていた。
「虫を殺せるポーションはないか?」
「虫除けも殺虫もありますよ。でも虫の種類によって材料が違うんです。代表的な殺虫ポーションなら5種類くらいかな。あとよく効くやつでも中級だから魔物にどこまで効くかどうかわからないです」
「む。そうか」
そんな会話をした後、ニーレンバーグは何やら書状をしたためると診察に来た兵士に書状を渡す。そして夜にポーションを引取りにやってきたマルローが「マリエラさん、次は殺虫ポーションを5種類各10本お願いしたいのですが」と注文してくる。
黒鉄輸送隊に守秘契約を求めたのはマリエラだから文句は言えないのだが、実に回りくどくてまどろっこしい。未だに「帝都の錬金術師」を強調するニーレンバーグに、(もしかして、本当に帝都の錬金術師だと思われているのかも)などと考えながら、マリエラは5種類の殺虫特化型ポーションを作成していった。
マリエラが殺虫ポーションを納めた数日後、そのうちの1種類のポーションの大量注文が入った。
(よりによってこれ!? うわ、最悪!)
ポーションが良く効いたらしいと話すマルローに、ポーションが効くならまだましと自分に言い聞かせながらもマリエラはこれだけの量のポーションが必要な状況に顔を青くした。
昆虫と人が共生できるのは昆虫が小さいからだとマリエラは思っている。
(だって、よく見るとキモチワルイんだもん)
学術的な理由ではなく完全に個人の嗜好だ。眼がいっぱいあったり、脚が何本も生えていたり。逆に目や手足が何処にあるかわからないイモ虫みたいなものもいる。どうなっているのかじっくりと観察したいのに、やたらと動きが素早くて確認することが出来ないか、じっくり見てもわからないままだったりする。しかも潰すと汁がでる。
虫からすると「動物のほうがよっぽど汁っぽいだろ!」と思うのかもしれないが。確かに動物や食肉できる魔物を解体すると大量に血が出る。気持ちのいいものではないけれど、それは痛そうだとか残酷だとかいう気持ちの悪さで、虫から出る汁の気持ち悪さとは違うとマリエラはある昆虫を思い浮かべながら考えていた。
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七つの罪源というものがある。「暴食」「色欲」「強欲」「憤怒」「傲慢」「嫉妬」「怠惰」が人間を罪に導くのだと。ならば奴らは最も罪から遠いと言えるはずだ。
なぜなら奴らは暴食はせず、節制を知っている。僅かな食べ残しや、食べ物とさえ呼べないゴミでさえ食事とすることが出来る。しかも驚くほどに少量の食料で命を繋ぐことが出来るのだから。
なぜなら奴らは色欲が薄く純潔でさえある。雌が3匹以上存在すれば自ら子を成す事が可能な生き物が色欲で身を滅ぼす愚行など起しはすまい。
なぜなら奴らは強欲ではない。ほんの僅かなぬくもり、温かさを望む謙虚なものだ。温かなぬくもりはきっと救恤しあうに違いない。
なぜなら奴らは憤怒に任せ、人を襲うことをしない。稀に向かってくるときは生き残りをかけた知略に満ちた冒険だと言われている。病を媒介するモノ達に比べればよほど慈悲深い生き物と言えよう。
なぜなら奴らは怠惰ではない。夜を通して働き続け、糧を得る勤勉さを知っている。
なぜなら奴らは嫉妬から遠い。喪服を思わせるシンプルな黒の衣を身にまとい、しぶとく生きる様は忍耐の化身とも言えよう。
なぜなら奴らは傲慢な人間のすぐ傍でひっそりと生を繋いでいる。望まれないと知っているのか人目を避け、日陰の身をよしとする生き様は謙譲の美徳と言っても過言ではない。
これほどの美徳を備えた奴らであるというのに、人は奴らを時に「黒い悪魔」と呼んで蔑むのだ。
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「ぎぃやぁぁ、でたー!!!」
出たもなにもここは彼らの住処だ。闖入者は迷宮討伐軍の方だと主張したいに違いない。サーチ&デストロイを運命付けられた奴らの無念がそうさせたのか、迷宮第55階層の『黒い悪魔』は酷くでかく、タフで凶悪だった。
「うううあぁぁぁ! こないでー! ファイヤーウォール!」
錯乱した魔道師兵の放った火魔法は黒い悪魔に燃え移る。ぬらぬらと脂で照り光った表面に着火した炎は見る間に燃え上がり、火達磨になった黒い悪魔は何のダメージも受けていないかのように着火したままカサカサと走り回る。
体長1mを超える黒い悪魔が燃え盛りながら走り回る様は、否が応にも目を引くものだ。ムダにサイズが大きいせいで翅の質感や脚の動き、生えた毛までも鮮明だ。迷宮討伐軍の兵士たちは皆身体能力が高く、動体視力も発達しているから、細かい動きまでこれでもかと把握できたことだろう。
「あ、とんだ」
ブブブブブ
「退却! たいきゃーく!!」
着火したまま走り回っていた黒い悪魔は、ついに飛翔個体に進化した。
アイキャンフライ。我こそがこの大森林の王なり。
迷宮第55階層の大森林を縦横無尽に飛び回るバーニングな黒い悪魔によって、大森林はあっという間に火の海に変わる。
ウェイスハルトがくたりと倒れているのは、煙に巻かれたためか、それとも黒い悪魔の視覚効果か。迷宮討伐軍全員が上の階層に逃げ延びたときには第55階層は炎に包まれていた。
「急ぎ点呼をとれ! 負傷者の治療、いや精神状態を含め安否確認を急げ」
レオンハルトの呼びかけに各隊に配属された治癒魔法使いが続々と報告に集まる。
「身体損傷は全て回復済み。問題ありません。ただ……」
「コワイコワイコワイコワイコワイコワイ……」
「飛ぶとか……、飛ぶとか有りかよ……」
頭を、膝を抱えてうずくまり、ブツブツつぶやく複数の兵士たち。
「またか……」
この階層に来てからと言うもの、休養を必要とする兵が増えていた。
海に浮ぶ柱討伐から一ヶ月は優に経過していて、黒の新薬の影響が残る兵士達の治療は順調に進んでいる。
しかし55階層の攻略は難航し、迷宮討伐軍に深刻なダメージは出ていないものの解決の糸口は未だ見えない。日に日に憔悴していく弟ウェイスハルトにレオンハルトの焦りは募る。昔からこの弟は虫が大嫌いだったのだ。
アグウィナス家の地下で眠っていた錬金術師たちは仮死の眠りから覚めた者でも極めて短命で、魔力切れや過労と思われる状況で塩と化して亡くなったと聞く。最後の地脈契約の錬金術師がそうならない保証は無い。あの一件以来、怪我の度合いに応じたポーションの使い分けを徹底させ、下級、中級のポーションを注文することで、地脈契約の錬金術師の負担低減に努めてきたし、ニーレンバーグに魔力の乱れを確認させて異常が無いか見させたり、栄養価の高い菓子を頻繁に差し入れてきた。その甲斐あってかずいぶんと血色が良くなってきたと聞く。
余り負担をかけてはならぬと迷宮討伐軍だけで討伐できぬか模索を続けてきたが、そろそろ限界かもしれない。200年かけて52階層までしかたどり着けなかったことを思えばこの数ヶ月の攻略速度は異常と言って良いほどだ。けれど慢心できる状況でもない。
「ニーレンバーグに連絡を」
そう命じたレオンハルトの元に、数日後に届けられた5種類の殺虫特化型中級ポーションのうち、1種類が驚くべき効果を発揮したことで、ウェイスハルトは奇跡の復活を遂げた。若干まなざしが恐いから斜め上に成長したのかもしれない。進化したウェイスハルトによって、迷宮第55階層の討伐は迷宮都市を潤す大掛かりな作戦へと発展するのだった。




