あの時、あの場所で
あの日、キャロラインに魔道具の相談をしなければ。
あの時、キャロラインの馬車に乗り込まなければ。
マリエラは、何も知らないままで、ジークと二人静かに暮らしていられたのかもしれない。
「うっ、ぐぁっ……」
夜も明け切らぬ薄暗がりの中、ジークの呻き声が静寂を破る。
「よく、この程度で護衛だなどと言えたものだ。」
立ち上がれなくなったジークを見下ろす男の目は、底冷えするほどに冷たい。
的確に人体の急所を狙う攻撃は、じりじりとジークムントの体力を殺いでいき、もはや立ち上がる力さえ残されてはいない。それでも、凍りついた大地に爪を立てるように何とか立ち上がろうともがくジークに、男は「ほう……」と感嘆とも取れる声を漏らした。
「もう……、もう止めてください。ジーク……、ニーレンバーグさん……」
震える声でマリエラが二人の戦いを制止する。吐く息は白く、この地の寒さを物語っている。うっすらとその身が震えているのは、外套もまとわぬ薄着のせいで凍えているからだろうか。
「もう、終わりにしてください。朝ごはんできましたから」
「む、もうそんな時間か。ジーク、続きは閉店後にな」
「はい、有難うございました。ニーレンバーグ先生」
「ジーク、寒かったでしょ。お風呂沸かしてるから、ぬくもってから来てね」
「うわー、外さむーい。パパ、スープは私が作ったのよ!」
「む、そうか」
「ほんと寒いねー。声震えちゃうよ。シェリーちゃん、早く中に入ろう」
ぞろぞろと『木漏れ日』の店内へと入っていくマリエラ及びニーレンバーグ親子。そしてよろよろと付いていくジーク。
アグウィナス家の一件以来、なぜか『木漏れ日』に新メンバーが増えてしまった。
あの時、アグウィナス家にいたせいで、マリエラの暮らしはますますにぎやかになっていた。
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ジャック・ニーレンバーグが『木漏れ日』に来た理由はキャロラインの虫除けなのだとマリエラは理解している。
アグウィナス家事件の数日後に、ウェイスハルト副将軍閣下自らがニーレンバーグと側近らしき一名だけ引き連れて、お忍びで『木漏れ日』にやってきてマリエラは心底驚いた。
閉店後の時間だったから、他にお客さんはいなかったけれど、つい数時間前までドワーフのゴードンが座っていた、ぽかぽかおっさんコーナーにキラキラしい王子様が座っているのだ。日は落ちていてそこは陽だまりではなくなっているのに、他より明るく見えるのだから不思議だ。
お付きの人の説明によると、キャロラインの兄、ロバートは長期療養が必要で、アグウィナス家はキャロラインが継ぐのだと言う。もちろん帝都の20歳年上の錬金術師との婚約は破棄。アグウィナス家を存続させるために相応しい相手をシューゼンワルド辺境伯家が探してくれるのだそうだ。キャロライン本人はこの決定に異論は無いらしいが、今後も薬師としての活動を続けたいと希望しているそうだ。
ポーションも新薬も提供できないけれど、薬師として貢献したいとは、実にキャロラインらしい願いだとマリエラは思った。
一つ問題なのは、ポーションに関する一件は表ざたにされないから、アグウィナス家が持つポーション利権や家督を狙って、フリーになったキャロラインにちょっかいをかけてくる貴族がいるかもしれないということらしい。アグウィナスの屋敷や公の場ではシューゼンワルド辺境伯家が目を光らせているから、よほどのことは起きないだろうが、庶民の店である『木漏れ日』はそうも行かない。
キャロライン自身、例の一件にマリエラを巻き込んでしまったことを後悔していて、あれ以来『木漏れ日』に姿を見せていなかった。
「気にしなくてもいいのに」
それはマリエラの本心であったけれど、それを口にすることはできなかった。
事件の詳細は知らされていない。地下室で沢山の空の棺とガラスの棺に眠っている女性を見て、この200年ポーションを供給し続けてこられた理由を察しはしたものの、結局新薬というのがどういうものだったのかは教えてはもらえなかった。
もっとも、キャロラインの父を助けた時点で、とても良くない物に手を出していたのではという予感はあったから、聞き出そうともしなかったけれど。「他言無用に願いたい」という迷宮討伐軍からの要請は、魔法契約を伴わない単なる口頭のものだったけれど、マリエラは誰かに話す気持ちは無かった。
あの日は結局、アグウィナス家に泊めてもらって、解放されたのは翌朝だった。マリエラとジークが『木漏れ日』に帰るや否ややってきたリンクスは安堵の表情を浮かべていた。
「別のトコから、情報は入ってたんだけどさ、やっぱ顔みねぇと、落ち着かねーや。」
昨日の納品ができなかったことには一切触れず、ただマリエラたちの無事を喜んでくれたリンクスを見て、とても心配させてしまったのだとマリエラは理解した。
だから、「キャロラインとこれからも『木漏れ日』で一緒に薬を作りたい」とは言えなかった。何の権力もない自分のせいで、今度はキャロラインにまで迷惑をかけてしまうかもしれない。
黙り込んだマリエラを見て、ウェイスハルトはゆっくりとこう切り出した。
「マリエラさんを巻き込んでしまったことは、申し訳なく思っている。しかし君とキャロライン嬢の仲は一部では知られた事実。キャロライン嬢が今後ここへ通おうが通うまいが、強硬な手段を取ろうという輩は現れるだろう。そこで提案があるのだが。」
折角『木漏れ日』に帰ってこられたのに、迷宮討伐軍へ連れて行かれるのかと焦ったマリエラに、ウェイスハルトが出した提案はとても意外なものだった。
「ニーレンバーグ治療技師の出張診療所を『木漏れ日』に開かせてもらえないか?」
「はい?」
かしげたマリエラの首がまっすぐに戻すより先に、ウェイスハルトの猛烈なニーレンバーグ・プッシュが始まった。
「ニーレンバーグは迷宮討伐軍の治療部隊の隊長でね、レオンハルト将軍の腹心でもあるから、顔も知れているし、凡庸な貴族よりはよほど立場が上だ。迷宮都市に住まう貴族連中の男子は、よほどの事情がない限り軍役経験が義務付けられているから、大抵の者は彼の顔を見ただけで背筋が伸びるはずさ。しかも、戦闘能力も高くてね、特に対人能力が素晴らしい。護衛として彼ほど頼りになる男はいないと請け負うよ。しかも本職は治療技師だから人体に詳しい。加減という物を誰よりわかっているから、過去に彼にちょっかいをかけた輩は彼がここにいるというだけで、はだしで逃げ出すに違いあるまい。そうそう、そこの彼、マリエラさんの護衛だね。失礼だが少し戦闘能力に不安があるのではないかな? 折角の機会だから、 ニーレンバーグに鍛えてもらうといい。ニーレンバーグが駐在している間は、護衛の任から離れて迷宮に潜るなり鍛錬の時間も増やせるだろう。マリエラさんの防衛力強化という面でも良い話だと思うのだよ。え? ニーレンバーグの顔が恐い? 大丈夫、これで女性には優しい男でね。とても可愛らしい娘さんもいるんだ。今回の件で標的となってね。彼女の護衛も強化する必要があるのだが、折角だから昼間は『木漏れ日』に来てもらってはどうかと思うんだ。とても気の利く御嬢さんだから、店の手伝いも捗ると思うよ。ニーレンバーグが診療所を開くことで集客も見込めるだろうし。ニーレンバーグの給与は今まで通り迷宮討伐軍が出すし、診療報酬は『木漏れ日』の利益にしてもらって構わない。あぁ、話がうま過ぎると警戒してしまうかな。実はこちらも頼みたいことがあってね。マリエラさんは“帝都の”地脈と契約した錬金術師なのだろう? だから、ロイス殿にルイス殿が憑依していることに気が付いたのだと私は思っているのだがね。もちろんそれを公にするつもりはないさ。“帝都の”地脈と契約した錬金術師がわざわざ“ポーションが作れない”ほかの地脈に来るなど、何かしら訳があるのだろうから、詮索など無粋なことをするつもりはないよ。ただ、その力を少しだけ我々に貸してほしいのだ。なに、大したことではなくてね。ロイス殿にルイス殿が混じっていたことを見抜いたように、迷宮討伐軍の兵士に何か混じっていないか見てほしいんだ。兵士たちはニーレンバーグの診察を受けにここに来るから、マリエラさんは今まで通りキャロライン嬢との薬作りや常連客との会話を楽しみながら、ちらと見てくれるだけでいい。もちろん診察費用は支払うつもりなのだがどうだろうか」
マリエラのかしげた首がそのまま肩にくっつきそうになった。反対側の首の筋が伸びる。首のストレッチが痛気持ちいい。
いつもなら、ジークが倒れた首をまっすぐに直してくれるのだが、さすがに迷宮討伐軍の副将軍の前なので、マリエラの後ろでおとなしく控えているようだ。仕方がないので、自分で首を起こしたマリエラは今の怒涛の説明について考えた。
(いっぱい言われすぎてよくわからない……)
ニーレンバーグの顔が恐いなんて言っていないのは確かなのだが。
ウェイスハルトをみると、感情の読めない穏やかな笑みをたたえている。隣の側近の人も同じような表情で、ニーレンバーグは……顔が恐かった。
口に出して言っていないからセーフだと思いつつ、視線をウェイスハルトに戻すマリエラ。
どうにも、「はい?」だとか「もう一度」だとか言える雰囲気ではない。
「えぇと、今まで通りキャル様と『木漏れ日』で働けると言うことでしょうか……」
「その通りです」
押し負けた感が半端なかったが、一番大切な『木漏れ日』で今まで通り暮らせるならば、まぁいいかと思ったマリエラは、「わかりました」と返事をした。
すると翌日、いつものドワーフ三人組が仕事道具を抱えてやって来て、物置と化していた食堂をニーレンバーグの診療所に改装したり、2階や地下室に部外者が立ち入らないように大層な鍵のついた内扉をつけたり、空いていた物置を収納力抜群の商品倉庫に改造してしまった。
代金は迷宮討伐軍から貰っているらしい。あっという間の早業でその日の夕方には診療所の準備が整ってしまった。
ウェイスハルトの話をあんまりわかっていなかったマリエラは、次の日からもあんぐり口を開けるハメになるのだが、マリエラがぽかんと口を開けるたびに、ニーレンバーグの娘、シェリーちゃんが、「マリエラ姉さま、またお口あいてる」と可愛らしく笑って、あいた口に飴玉を入れてくれるので、マリエラのあいた口はすぐにふさがったのだった。




