人魚
(惑わされるな! それは、ニセチチだ!)
ディックの叫びは魚人の声帯と海水に阻まれ、幸か不幸か迷宮討伐軍の兵士たちには届かない。
けれどディックの放った一撃は、先頭の人魚を貫き海中を血に染める。容赦の無い一撃に仲間を討たれた人魚達は、討たれた仲間を気遣うでもなく、友好を踏みにじられたと怒るでもなく、静かにその口を開いた。
ぐばりと。
人魚の口は、口と思われた場所からその胸元まで裂けるように開いていた。
(胸、顎かよ!!!)
迷宮討伐軍の兵達の何名が心の中で叫んだろうか。
正確には下顎の顎関節下の出っ張った骨なのだが、胸じゃないならたいした差ではないだろう。
開いた口の中には、鋭い歯列が幾重にも生えていて、その巨大な口は人の胴を食いちぎれるほどに開いている。
人魚、いや巨大魚は武器をもっていなかったのではない。その口こそが武器であり、既に臨戦態勢にあったのだ。
噛み付かれるほど近くに接近を許して漸くその全貌が見て取れる。首やウエスト、胸の谷間と思われた場所には色の暗い鱗が生えていて、実際はくびれてなどいなかった。袖を纏った腕はトビウオのように発達した胸鰭で、手の位置には刃物のような骨が露出している。髪と思われたものは歪に発達した背びれや深海魚がえさを引き寄せる誘引突起のようなものだろう。
一度間近で全貌を把握してしまえば、けばけばしい色彩のグロテスクな魚にしか見えない。なぜこれを美しい人魚だなどと思っていたのか。
いくらポリモーフ薬で魚人に近い体になっていても、水中で魚の速度に勝てるものではない。大口をあけて迫り来る巨大魚の口めがけて槍を放ち、喰らいつこうとする口に盾使いが盾を噛ませて致命傷を避ける。胸鰭から突き出た骨の剣先が兵士たちの腕に、足に深い切り傷を負わせる。
海水中に漂う血は兵のものか魚のものか。
乱戦の最中、レオンハルトはウェイスハルトに合図を送る。
ウェイスハルトは頷くと、ディックと音使い、数名の魔法使いからなる遊撃部隊を伴って戦線を離れ、柱に向かって全速力で泳ぎだした。
ウェイスハルトを追おうとする巨大魚に銛を放つレオンハルト。
(お前の相手は俺たちだ。)
次々に繰り出される槍使いや魔法使いの攻撃は巨大魚を引き付けることに成功したようだ。レオンハルトら迷宮討伐軍の周りをぐるぐると旋回しながら、僅かな隙に食いかかる巨大魚たち。
なれない水中で、決死の戦闘を繰り広げるレオンハルト達から離れ、ウェイスハルトら遊撃部隊は柱を目指した。
『海に浮ぶ柱』は直径およそ5m、長さは海上に20m、水中は100m以上と目される巨大な柱で、上部に光線及び水弾を発射する竜のような頭部が四つ、それぞれ直角についている。柱の索敵範囲は海上部は竜の頭部より1kmで、盾すら瞬時に蒸発させる極めて高出力の光線を防ぐ方法は無い。
光線のインターバルタイムには強烈な水弾が連射され、海上からの敵の接近を許さない。
階層主である『海に浮ぶ柱』の海上での攻撃力は、今までの階層主の比ではない。
もう一つ、この階層の特徴として、その広大さが挙げられる。360度水平線が広がり、水深は1000mを超える。恐らく柱の強力な攻撃に耐えるために空間制御が行われているのだろうが、光線にせよ、空間制御にせよ、今までの階層と比べると使われる魔力量が大きすぎるのだ。
“光線と空間制御にこの階層の魔力の大半を使っている。”
それが斥候部隊の情報を元にウェイスハルトが出した結論だった。
通常の階層では階層主を守るための魔物が発生しているが、この階層には見られない。勿論、柱は敵味方の別なく射程に入った敵を攻撃するから同士討ちを防ぐ目的もあるのだろうが、魔物の発生に割り振れる魔力すらないと考えるべきだろう。
海中の備えが最も手薄なはずだというウェイスハルトの思惑は、彼らを追う新たな巨大魚が現れないことからも当たっていたというべきか。ならば、もう一つの推測もまた。
ウェイスハルトらは柱に急ぐ。
巨大魚達は恐らくバジリスクほどは強くない。しかし海中で楽に斃せる相手でもない。今回は兵士全員に上級ポーションを数本ずつ持たせている。ガラス瓶の口先を膠で固めたもので、飲むときは口の中で膠を噛み切ればのめるし、ポリモーフ薬の効果時間である1時間程度ならば、海中でも蓋の役割を果たしてくれるはずだ。治癒魔法使いが傷を癒し、間に合わないときは各自の判断でポーションを使う。
これでどれだけの時間稼げるか。
柱にたどり着いたウェイスハルトたち。音使いが柱に触れて内部の様子を探り、ウェイスハルトらに伝える。『推測通り』だと。
勝利を確信し、目を輝かせるウェイスハルト。
柱から最も遠い位置にいる盾使いが、盾に喰らい付いた巨大魚を力づくで水面へと押し上げる。水深10mより海面に近づいた時、ジュオッっと水を蒸発させて光線が発射され、巨大魚を盾ごと蒸発させる。
(ぐぁ、あっつ。)
光線の熱量に海水は蒸発し、海面で水柱が吹き上がる。高温の蒸気と熱水が水中をかき回し、迷宮討伐軍と巨大魚を散り散りにかき乱す。盾使いは盾スキルで身を守っていても尚、全身に深い火傷を負ってしまうが、すぐさまポーションを飲み干してその傷を癒す。
隊列の乱れた迷宮討伐軍を深海へ引き込もうと巨大魚が食いかかるが、これもまた想定の内。迷宮討伐軍は互いに援護しあい、再び迎撃体制を組みなおす。
柱の光線は合図なのだ。
合図を受けたウェイスハルトと魔法使いたちは、柱の一点に魔力を注ぐ。炎でなく熱量を。ガラスを溶かすように、鉄を溶かすように。温度をあげるのに酸素は必要ない。海中であっても正しく温度を上昇させうる魔法の使い手は多くは無い。その限られた数名は、柱のただ一点を加熱し続ける。
ぼごぼごぼごぼごぼご
湧き上がる気泡。それは、海水からのみ生じるものではない。柱からさえ気泡が上がっているではないか。
まさに、ウェイスハルトの推測が証明された瞬間だった。
柱の構造と材質、それは『海に浮ぶ柱』討伐において必須の情報だった。
柱の構造は想像に難くない。どれほど巨大であろうと1本の柱が縦に海に浮んでいるのだ。恐らく柱全体が浮力体、柱の中身は空洞で、下部に重石が搭載されているのだろう。重心を低くすることで、柱全体の安定性を確保しているものと考えられる。
では材質は。
あれほどの高出力の光線に耐えうる材質なのだろうか。
斥候の報告によると、『海に浮ぶ柱』は光線を放った後、射程圏内に標的が侵入しなくとも一定弾数の水弾を放出したという。幾度かの試みののち、水弾の水を入手することができたのは僥倖だった。54階層の海水とあわせてガーク薬草店に秘密裏に持ち込まれたそれらから、柱の材質を知ることが叶った。
ガークの鑑定によると、水弾として放出された水にはある成分が足りないそうだ。
それは貝殻を構築する成分で、海水中に多量に含まれている。
『海に浮ぶ柱』は貝と同じ成分で構築されていて、光線を放つたびに海水からその成分を吸い上げて光線で劣化した内部を修復しているのだろう。
貝を高温で焼成するとガスを生じてラム石と同じ成分となる。その際に体積は変化する。
どれほど柱が分厚かろうが、他の成分で補強が施されていようが、熱分解され体積が変化したその一点に強力な打撃が加えられたら――。
《槍龍撃!》
ディックの槍が魔法使い達が作った柱の歪みに穿たれる。
ビシリ
柱に生じた亀裂は、水圧に押されて見る間に広がっていく。ウェイスハルトの合図で柱から離脱する遊撃部隊。兵達が一定の距離を取ったことを確認し、トドメとばかりもう一撃を加えるとディックも柱から離脱していった。
音使いの確認によれば柱の中身は想定通りの空洞で、穿たれた孔は水圧に押され見る間に広がり、巨大な内部を水で満たしていく。
巨柱が沈没していく激流に巻き込まれないよう、ウェイスハルトら遊撃部隊はレオンハルトらの下へ退避する。『海に浮ぶ柱』はその最後に迷宮討伐軍を巻き込もうと水弾を発射するが、海水に阻まれ効果は薄く、むしろウェイスハルトらを遠方に逃がす役割しか果たさない。
『海に浮ぶ柱』の主砲である光線は、先ほど発射したばかりでまだ撃てるようになっていないのだ。
レオンハルトらはやはりというか傷だらけだが、誰も欠けてはいないようだ。
対する巨大魚は半数ほどに数を減らしている。巨大魚との戦闘はウェイスハルトやディックの加勢で優位に傾く。
迷宮討伐軍が巨大魚を相手取っている間にも、『海に浮ぶ柱』は果ての無い海底へと沈んでいく。水圧に柱が耐えられなくなるのが先か、気泡や破片を敵と認識した柱が次の光線を放つのが先か。
柱が沈んだ辺りから、ぼごぼごと気泡が浮かび上がった。
恐らく光線を放ったのだろう。光線の熱で急激に過熱された海水が水蒸気となった時の差圧で柱の竜頭が吹き飛ばされたのか、それとも周囲の水圧によって温度に変換された光線のエネルギーが竜頭周囲の水温を超高温まで昇温し熱と圧力により竜頭を分解してしまったのか、レオンハルトたちには確認できない。しかし、その瞬間、あれほど広大だった54階層は急激に面積を狭めた。より有利になった環境で迷宮討伐軍が巨大魚を殲滅した時には、54階層は通常の階層程度の大きさの、海岸洞窟を思わせる階層に変化していた。
54階層『海に浮ぶ柱』の討伐は、自らの能力が招いた自壊によって幕を閉じた。
階層間の階段がある場所は砂浜が広がっており、階下への階段も確認された。本作戦に新規階層を探索する斥候部隊は同行させていないから、探索は明日以降となるだろう。
斃された巨大魚を陸揚げしてみてみると、あの美しい青色は何処にも確認されず、僅かに青みがかってはいるが色あせた赤紫の鱗と茶けた肌をもつ口の大きいグロテスクな魚になっていた。首やウエストに見えた辺りは赤いうろこが生えている。
「海の深いところでは、赤は見えにくくなるそうですから。」
ウェイスハルトの説明を、レオンハルトは興味深げに聞いていた。美女と思えた人魚がこれとは。
「しかし、こいつらが人魚でないと良く分かったな……」
感心したようにディックに語りかけるレオンハルト。
レオンハルトの目にはこの巨大魚たちは麗しく友好的な人魚たちに映っていた。
ディックは巨大魚の下顎を一瞥すると、悟りを開いたような澄んだ目で、レオンハルトを見た。
「まったく揺れておりませんでしたから」
伊達にアンバーの胸部ばかりを眺めていない。彼は真のモニュリストなのだ。いや違う、ディックがもにゅっているのは主にクッションだ。クッションをもにゅらざるを得なかった悲しき日々が彼に真実を見抜く慧眼を与えたといえなくも無い。
「そ……、そうか。なんにせよ大手柄だ。……だが、どうやって見抜いたのかは、彼らには伏せたほうが良かろうな」
レオンハルトが視線を向けた先で、若い槍使い達がディックとレオンハルトを遠巻きに見ていた。
トン、とディックの肩を叩くと、レオンハルトはウェイスハルトの方へと去っていく。若い槍使いにディックと話す時間を与えたのだ。
巨大魚の擬態を見抜き、柱を沈めた功労者で、Aランクの槍使い。若い槍使い達は憧れに満ちた目で、ディックの傍に駆け寄っていった。
ちなみに巨大魚からはたくさんの「魚人の鱗石」がとれた。ポリモーフ薬の代金を支払っても十二分におつりが出るだろう。これで53階層の呪い蛇の王の皮で防具を調えたり、『海に浮ぶ柱』の残骸から回収した材料で、あの光線魔法を再現する魔道具が開発できるかもしれない。
ウェイスハルトは今後の展望に胸を膨らませていた。
本作戦に参加した兵士たちは、巨大魚から「人魚の涙」が出なかったことに胸をなでおろしていた。アレは人魚じゃなかったんだ。美しい人魚は他にいるんだと。
どこから光が差し込んでいるのか、海岸洞窟と化した54階層は青い光に満ちていて、美しい人魚に見えた巨大魚を思わせた。
擬態を見破るためだけに、ディック隊長を登場させました。
あと、人魚?の正体を知った兵士のガッカリが伝わればいいなと思い、へたくそですが挿絵入れました。
鱗や鰭の色はモルフォ蝶の美しさに脳内変換願います。




