海に浮ぶ柱
「これが魚人のポリモーフ薬か。」
マルローから受け取った30本のポリモーフ薬をレオンハルトとウェイスハルトが見つめる。彼らもポリモーフ薬の現物を見るのは初めてだ。
「は。効果時間はご要望通り最長の1時間に調整しております。」
今回集まったオーロラの氷果で作成できたポリモーフ薬は30本。オーロラの氷果を採取した32階層では100日毎に白夜と極夜が入れ替わるからこれ以上の本数を望むならばあと200日待つ必要がある。
素材の宝庫である迷宮であっても、この量しか作成できなかったのだ。ポリモーフ薬の貴重さがうかがえる。
ポリモーフ薬で水中散歩を楽しんだ、等というのは好事家の貴族でさえ長らく自慢話とするほどだ。それが30本。
53階層の呪い蛇の王は100人以上で戦いに望んだが、今回は更に人数を絞る必要がある。しかし、3週間にも及ぶ斥候の調査結果から得られた情報と30本というポリモーフ薬の本数は、レオンハルトとウェイスハルトに勝算有りと告げていた。
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「54階層階層主、識別名称『海に浮ぶ柱』の討伐を開始する! ポリモーフ薬摂取の上、順次入水せよ!」
54階層の海上、海に浮ぶ柱から1.2kmの位置に複数浮かべられた小型船上でウェイスハルトが指示をだす。果ての見えない海洋上だというのに波は穏やかで迷宮内に持ち込める程度の小型船でも柱から1km付近まで接近することが可能だった。
迷宮の外は冬だというのに、54階層の空は青く、気候は暖かで水中に飛び込むことに躊躇は無い。絶好の海水浴日和だ。迷宮討伐軍には女性もいるのだが、今回の動員条件から外れている者ばかりでこの場に男性しかいないのが悔やまれる。
どこかの錬金術師が言った『ガチムチ水泳大会』が図らずも実現してしまった形だ。せめて、黄色い声をあげてくれる観客がいればよかったのだが、船上に待機して水に濡れる男たちに向けられるのは、ニーレンバーグら治療部隊の凍てつくような視線だけだ。ただただむさ苦しいだけの水泳大会だ。いや違う、階層主の討伐だった。戦闘が始まる前から敵を見誤るところだった。何たる罠だ。危ない危ない。
今回の討伐に選ばれたメンバーは水中戦闘での優位性を考慮して槍使いを中心に、盾戦士、無詠唱が可能な魔法使い、治癒魔法使い、そして水中での索敵及び伝令役として音使いが参加している。みな泳ぎの達者なものばかりだ。
全員水の抵抗の少ないピタリとした革のズボンに、脛や腕、胸部や額といった限られた部分だけバジリスクの革で急造された防具を身に纏っている。盾使いのもつ盾も通常のシールドではなく、流線型をした突撃槍を短くしたような海中専用装備に持ち替えている。
槍使いたちも、トライデントを装備するものや、幾本もの銛を背負うものと水中戦に合わせて調整を行って来ている。その中に黒い槍をもつ大男が一人。
「良く来てくれた、ディック。」
レオンハルトの呼びかけに、黒鉄輸送隊のディック隊長が力強く頷く。
迷宮都市にディック以上の槍使いは存在しない。傭兵として作戦に参加して欲しいというレオンハルトの要請に、ディックは二も無く頷いた。そんなディックを彼の古巣は暖かく迎えた。親交のある者は再び共に戦えて嬉しいと言い、若い者達は憧れのまなざしをディックに向けた。
ディックは渡されたポリモーフ薬をぐいと呷る。
胸の中身が動いたような感覚に襲われる。腹を下したときに下腹の中がぐるりと動くあの感覚に似ているそれが胸部で起こる。腹を壊したときのような痛みは伴わないものの、急に息苦しさを感じて本能的に水へと飛び込むと、肋骨の隙間からひやりと水が体内に流れ込んだ。思わぬ感覚に、手を肋骨の辺りへあてがうと、肋骨の間に複数の切れ込みがはいっており、魚のエラが何枚もできていた。
どうなっているのかと覗き込むが、焦点が合いづらい。代わりに視野が広くなり、普段ならば見えないはずの後ろ側まで見えている。遠くは見えづらくなっているが、その分動体視力は上がっているようだ。これが魚人の視界か。
手に違和感を感じて持ち上げてみると、指の間に水かきができていた。手の甲には鱗も生えているし、触覚も異なるのか水の冷たさも感じない。
魚人に変身した兵達は皆、軽く水に潜ったりして体の動きを確かめている。水に浸かっているだけで全く息苦しさを感じないし、陸上にいるように体を自由に動かせる。海上に顔を出しているよりも水中にもぐっているときのほうが目も良く見えるようだ。
「ィィィィィイイイイイイ゛ウ゛ウウウウウゥゥゥゥゥ」
音使いが音波調整をする音を聴き、兵達は水中に整列する。
レオンハルトの号令を受けるために。
まるで宙に浮ぶように兵達の前、水中に立つレオンハルト。
その髪は、水中でたなびき獅子の鬣のようだ。
厚く肉感的な唇はその存在感を増し、良く通る声を発する口も横に大きく伸びていて、瞳はより大きくまぶたがない分丸い眼球が際立っている。眼球は広い視野を確保するため少し飛び出しているようだ。
うん。魚っぽい。
ディックや兵達は慣れてきた視界で周囲をうかがう。先ほどまでは水中で自由に動く体に夢中で気付かなかったが、みんな魚っぽい顔になっている。魚なのにレオンハルトとわかるくらいには面影が残っている所がなんとも言えずコミカルだ。美丈夫と誉れ高いレオンハルトでさえこの微妙さなのだから自分の顔はどうなのだろう、という点は考えないようにしているようだ。この作戦に女性が一人も参加していないのは、ウェイスハルトの配慮なのかもしれないと、ウェイスハルトの深謀に感心する兵もいるほどだ。まぁ、女性が参加していないのは単なる偶然なのだが。
少なくとも好きなあの娘には飲ませたくない薬ではある。あの娘のこんな魚顔はあまり見たくないものだ。金持ちになっても魚人系ポリモーフ薬で水中デートはしないでおこうと兵達は考えたことだろう。
何れにせよ今は作戦行動中だ。ポリモーフ薬の効果時間は1時間。変身した体に慣れる僅かな時間さえ惜しまねばなるまい。
兵達は広い視野のお陰で嫌でも目にはいる、面白おかしく変化した同僚の顔を見つつも、強い自制心でレオンハルトを見つめる。
作戦は既に頭に叩き込んである。あとはレオンハルトの号令を待つばかりだ。
兵達をぐるりと見渡したレオンハルトは皆に力強く頷くと、最後の檄を飛ばすため口を開いた。
「ぱく、ぱく。」
どうやら魚人の声帯は人とは勝手が違うらしい。
釣り上げられた魚のように口をぱくぱくさせるレオンハルトに、兵達のエラからぶばっと気泡が舞い上がった。
『作戦を開始します』
音使いのアナウンスで迷宮討伐軍が柱に向かって泳ぎだす。
光線を避けるため深度は20mを維持している。
柱までの距離があと500mというところまで進んだ頃、音使いが深海から急速に浮上してくる複数の物体を感知した。
(やはり現れたか。)
レオンハルトの合図により、迷宮討伐軍は迎撃体制を取る。
海上の鉄壁さに対し海中10m以深は安全すぎる。
確かに海中10mでの活動を可能とする方法は僅かしかなく、ポリモーフ薬の希少性を考えれば十分高いハードルではあるが、海中の障壁が深度10m以深にないと考えられるほど、ウェイスハルトらは安直ではない。
今までの迷宮討伐はどれも容易なものではなかったのだ。
深海からの敵は迷宮討伐軍が迎撃体制を整えている間に、その姿を目視で判別できるまでに至った。
遠くから見る姿は青い輝き。
近づくにつれその輪郭が露わになる。
薄暗い海の最中で眩いほどの青い髪がたなびいている。青白い肌、魚の尾をもつそれは、人魚と呼ばれる種族ではないのか。
顔は髪に隠れて良く見えないが、髪の間からのぞく大きな瞳、人と同じ位置に唇が確認できる。胸元の豊かなふくらみは人魚が女性であることを思わせ、下半身側に広げて伸ばした両腕には手首に向かって扇状に広がるドレスの袖のようなものがたなびいている。
海水を受けて広がる袖は恐らく胸ビレの様なものなのだろうが、髪と同じく金属を思わせる美しい青で、水中を舞い飛ぶように進む姿は熱帯に生息するという宝石のような青い蝶のようにも思える。
魚の尾びれは水を打つたび、広がりはためき、青い輝きは様々に色を変える。まるで情熱的なダンスに揺らめくドレスのすそのようで、夜会で人々の目を奪う美姫さながらだ。
人魚とはこれほど美しい生き物なのか。
むさ苦しい半魚人を歓迎するかのように、泳ぎ寄ってくる美しい人魚たち。その数は20を超える。その口元は皆微笑んでいるようにも見える。
美しいものをもっと良く見たいと願う人の本能なのか、迷宮討伐軍の武器を握る手の力が弱まる。近づく人魚は皆手を下げたままで、武器らしきものも持っていないし、魔法を練っている様子も見受けられない。
遠距離攻撃の射程圏内へと侵入してくる人魚たち。人に近い姿で攻撃態勢を取らない彼女らに、交流を試みようかと迷宮討伐軍の兵達が考えたその時。
《槍龍撃!》
一本の黒槍から繰り出された槍撃が、竜巻のように渦を巻きつつ先頭の人魚へと襲い掛かった。
識別仮名『茶柱』
そしてここで「明日お休みです」発動です。




