バジリスク
「53階層階層主、識別名称『呪い蛇の王』の討伐を開始する。雪辱を果たすぞ!」
「オォ!」
迷宮討伐軍より選別された百余名の精鋭が、金獅子将軍レオンハルトに応じる。
迷宮53階層は現在の討伐最前線。先の遠征でレオンハルトがバジリスクの石化の呪いを受けたため撤退を余儀なくされた因縁の階層だ。
通常種のバジリスクを斃しつつ通路を奥に進むと、人工物を思わせる石柱が建ち並ぶ広大な空間に出る。そこが呪い蛇の王、キングバジリスクの住処だ。
バジリスクは蛇を思わせる頭と尾をもつ魔物で、腹の辺りはトカゲのように横に広く膨らんで4本の短い足が生えている。バジリスクの瞳は石化の邪眼であると言われ、睨まれた者に解毒では癒しきれない石化の呪いをもたらす。ただし、石化の呪いの発症率はさほど高くは無い。万一発動したとしても、『聖なる護り』という呪いを防ぎアンデッドを退ける守護の魔法を掛けていれば防ぐことは可能だ。
鏡によって反射させることも可能で、盾職に鏡のように磨きこまれた盾を持たせておく事で、安定してバジリスクの呪いを防ぐことが可能となる。ちなみにバジリスクが自身の呪いを受けて石化することはない。
バジリスクは牙や爪、尾にも石化の毒を持っており、こちらの毒は恐ろしく強力だ。受けたら必ず石化が発動する。けれど呪いは孕んでいないから、解毒の魔法やポーションで治すことができる。
長い尾や頭から繰り出される攻撃は強力なSランクの魔物であるが、レオンハルト率いる迷宮討伐軍であれば斃しうる相手だ。
問題は広間の中央で鎌首をもたげている呪い蛇の王。通常種の数倍の体長を持ち口は人をたやすく丸呑みできるほどに大きい。その頭上には王冠を思わせる角のような突起が何本も歪に生えている。まるで喰らった獲物の肋骨が頭蓋を突き破って生えてきたようだ。
緑青色の鱗に覆われた体躯はあちこちに錆のような澱が浮かんでいる。その澱はまるで孵化する直前の繭のように蠢動し、時折はじけて大気に溶けては、迷宮の淀みに溶け合って新たなバジリスクを生じさせている。
通常種の倍、8本もの足が生えた腹が邪魔をして石柱が乱立した広間の端や通路には入ってこないが、戦いに入ったならば何匹もの通常種のバジリスクを生み出して、四方から石化の呪いを浴びせかけ、石像と化した者を飲み込み喰らっていくことだろう。
レオンハルトでさえ逃れられなかったのだ。一度に複数生じたバジリスクたちによって戦線は乱れ、撤退を余儀なくされた。レオンハルトを将と見定めたバジリスクから浴びせられた石化の呪いは、幾度も唱えられた『聖なる護り』の隙を縫ってレオンハルトに届いてしまったのだ。
けれど恐れることはない。
「聖水を。」
ウェイスハルトの号令に従い、全兵士が聖水を被る。続けて掛けられる『聖なる護り』。
聖水にも『聖なる護り』と同じく呪いを防ぐ効果がある。しかもバジリスクの石化毒の耐性も向上する。『聖なる護り』は重複して掛けられないが、聖水ならば重複可能だ。『聖なる護り』が切れてから掛けなおすまで、呪いを防ぐことができる。
「武器を清め、弾を篭めよ。」
今度は武器に聖水を掛ける。呪いにまみれたキングバジリスクへの攻撃力も増加しうる。
魔術師たちは詠唱を始め、聖水を核とした氷の槍を幾本も作り出す。
弓兵達は薄い金属の金型に聖水を流し込みシャフトを挿すと、氷魔法を使える者が急速に冷却し聖水の矢尻を製造していく。
何度も何度も挑んでは、敗れ続けた強敵だ。何人の仲間が餌食となったことだろう。けれど兵達の面差しに強敵に対する怯えの色は見られない。
この作戦ならば、必ず勝てる。副将軍を務めるウェイスハルトは確信する。
何しろ聖水を『樽で』準備したのだ。ポーション瓶にしておよそ800本。
日々100本の上級に加え、僅か2週間足らずでこれだけの聖水を用意するとは、恐るべき錬金術師であることよ。
ウェイスハルトは、兵達は、金獅子将軍レオンハルトの号令を待ちわびる。
あの日の雪辱を今こそ。
レオンハルトの号令に、キングバジリスクの討伐は今、幕をあけた。
話は2週間ほど遡る。
「えー、無理ですよ。上級特化型の解呪ポーション100本とか。材料足りませんよ。苔ですよ、プラナーダ苔。プラナーダ苔ってなんで迷宮で採れないんですかね?ガーク爺も扱ってないんですよ。無理です。」
珍しくマリエラがポーションの依頼にNOを出す。プラナーダ苔はポーション瓶を作った川原の岩陰で採取したものが残っているが100本にはとても足りない。生えていた苔もあらかた採取してきたから、100本分を追加で回収することもできない。購入したくともガーク爺すら「しらん」と言う物を入手できる見込みはない。迷宮のあらゆる薬草を網羅している(エルメラ薬草部門長談)『薬草薬効大辞典』にすら載ってないのだから、プラナーダ苔の稀少さがわかろうというものだ。
「大体、呪いを使う相手なら、聖水を準備しとけばいいじゃないですかー。」
何気なく漏らしたマリエラの一言が、キングバジリスク討伐作戦に大きく影響を及ぼし、マリエラが毎朝早起きするハメになろうとは、その時は思いもしなかった。聖水の注文がマリエラが入れそうなサイズの樽単位で入った時は、何度も聞き返したものだ。
「マリエラ、おはよう。朝だぞ。」
今日もジークは早起きだ。あまり寝なくても平気だとかうらやましすぎる。マリエラは眠い目をこすりながら何とかベッドから這い出す。外はまだ暗くて、朝日はまだ昇っていない。それもこれも、どっかの将軍様だか副将軍様だかが聖水を1樽とかわけのわからない注文をするせいだ。ポーション瓶800本分だ。ランク的には中級で難しいものではないけれど、材料を集めるのが面倒すぎる。言い出したのはマリエラだけれども、聖水の代金には盛大に色をつけてもらおう。時間外労働なんだから割増料金を請求するのだ。
「うぅー、さぶいー。」
季節は秋から冬に移ろうかという頃。日の出前の時間はとても冷え込み、手足がかじかむ。こんな時間に水撒きとかなんの罰ゲームだ。いや、仕事だけれども。
ジークが準備してくれた如雨露や桶に命の雫を篭めた水を溜め、二人して屋上へ上がる。マリエラの家のすぐ脇には聖樹が生えているから、屋上に上ると聖樹の上端近くに手が届く。聖樹の天辺は屋上に登ったマリエラの背よりも高いけれど、ここからならば問題はない。
屋上から聖樹に向けて如雨露で水を撒く。聖樹の葉全てにしずくが掛かるようにジークが風魔法で水滴を軽く吹き飛ばしながら、二人して満遍なくたっぷりと水を撒いていく。
たまに悪戯な風が、如雨露からこぼれる雫をマリエラの方に吹き飛ばしてきて冷たいったらないのだが、夜明け前に全部撒ききらないといけないからじっと我慢だ。
水を撒き終えると今度は1階まで降りて、たらいやら桶やら鉢やら皿やら家中の水を溜められそうなものを片っ端から聖樹の根元においていく。先ほど撒いた余分な水滴がぽたぽた梢から滴ってきて、これまた寒い。首に掛かるとひゃっと叫んでしまう。
容器を置き終わったなら、あとは、日が昇るのを待つだけ。
聖水の材料は『聖樹の朝露』。朝の光をたっぷり浴びた雫に聖樹の恵みが溶け込んで、邪を払う聖なる力が宿るらしい。大切なのは朝の光と聖樹の恵みで、別に結露でできた水でなくても、雨水でも散水でも水であればなんでもいい。命の雫を溶かした水なら効果も上がるし尚のことよし、ということで、手っ取り早く日の出の前に朝露を準備したというわけだ。
ほかほかと湯気をあげる砂糖がたっぷり入ったココアを飲みながら、暖炉の前で日の出を待つ。
ドワーフトリオが教えてくれた『家具市』で揃えるつもりでいたので、暖炉がステキなリビングに家具は揃っていないけれど、ふかふかの白い毛皮のラグが敷いてある。イエティーという雪猿の毛皮らしい。
迷宮都市には職人が不足しているから、毛織物等は手に入りづらいが、魔物の毛皮などは沢山出回っている。これもその一つで白くて毛足の長い温かな毛皮だ。一本一本の毛は見た目よりしっかりしていて、パンくずなどを食べこぼしても毛皮と一緒にダマになりにくく、しかも家で洗える、というご家庭向きの事情もあって人気のある商品だ。
朝から暖炉の前で、ふかふかの毛皮の上に座って寛ぐなんて、何て贅沢なんだろう。
家具がないからテーブル代わりに木箱をおいているのがなんとも貧乏くさいのだが、マリエラとしてはむしろ落ち着く。
「この木箱を越えるテーブルが売ってるといいね。」
「この木箱以下のテーブルが売っているのか?」
等といつもの調子で雑談をしている間に日が昇る。
朝日の中で聖樹がきらきらと煌いている。葉にたっぷりと蓄えた雫が朝日を受けているのだが、朝日と聖樹の恵みをたっぷり受けた雫は何処と無く神々しい。こういう姿を見るとやはり特別な樹なのだなと思える。
ジークが軽く風の魔法で梢を揺らすと、葉に蓄えられた雫は小雨のように下に並んだ容器に落ちる。
トン、トトン、タン、タタン
精霊たちがもしもこの場にいたのなら、きっと音にあわせて踊っていたろう。きらきら光る朝露が奏でる音色を堪能し、マリエラとジークは朝露を樽に集めて行った。
こんな地道な作業を毎日毎日繰り返し、2週間ほど掛けて漸く1樽分の朝露が集まった。
残る材料は、『精霊の炎で焼き清められた塩』と『乙女の髪の毛』。
『精霊の炎で焼き清められた塩』は久しぶりにサラマンダーさんに来てもらって焼いてもらう。『焼き清められた』とあるけれど、『溶けて固まった』と言う方が正しいと思う。
最後の『乙女の髪の毛』は清らかな女の子の髪の毛。ほんのちょっとでいいのだけれど、なるべく若い方が効果が高いらしい。かといって赤ちゃんは駄目。性別意識に目覚めていないといけないらしい。
丁度良いタイミングで、『ヤグーの跳ね橋亭』の看板娘エミリーちゃんが「父ちゃんが髪ぎざぎざに切ったー!」と泣きながらやって来て、揃えてあげたことがあったので、その時の髪の毛を使う。10歳だし、物凄く効果が高いと思う。自分の分のクッキーをお父さんにあげようとする位やさしい子だしね。
この作戦とやらが凄くうまくいったなら、隠れた貢献者はエミリーちゃんの髪をぎざぎざに切ってしまった『ヤグーの跳ね橋亭』のマスターだろう。
こうしてできた1樽分の聖水を元に、キングバジリスク討伐作戦は幕を開けた。
材料費が塩以外タダじゃないか、等といってはいけない。マリエラの至福のお寝坊タイムとエミリーちゃんの髪の毛はプライスレスなのだ。




