76.沼地の願いの届く先
コポポポポ。
こぽぽぽぽ。
毒の沼地は今日もご機嫌だ。
ぼこんとあぶくが弾ければ、刺激的な異臭が漂い、ぽってりとした緑の藻を揺らす。
ハエの楽隊がわんわんと飛び回る楽しいコンサートを、新しい黒い友達と一緒に聞ける。
この黒い友達は、毒の沼地の上に広がって、お日様の光を受けて、てらてらと光る。その虹のような色合いも、ちょっぴり変わった臭いも全部、沼地の精霊のお気に入り。
一緒にいても消えたりしない、一緒にいても死んだりしない、大事な大事なお友達だ。
「うへ、くっせぇ。マスクしててこれかよ」
「気を付けろ。バハラート迷宮が滅んだ影響で、活性化しているって話だ」
沼地の精霊の素敵な時間を、二人の人間が台無しにした。
ぽってりした藻をぐじゃりと踏みつけ、マーブル模様の水面に汚い足跡を付ける二本足。
――ニンゲンだ。普段は近寄ってこないのに――
沼地の精霊は沼地の中に身を隠す。潜った時に浮かんだあぶくが、ポコリポコリと水面を盛り上げ、ぽふんと弾けて毒を撒く。
魔物でも嫌がる毒なのに、口元を何かで隠した人間たちは顔をしかめるだけだ。
こぽ、こぽぽ?
生物の少ない沼地でそんな人間が珍しかったのだろう。
黒い小さな精霊が、人間の近くに浮かび上がった。
「おい、こいつか?」
「……ずいぶん小さいが、精霊には違いない」
――だめぇ!――
沼地の精霊が慌てて浮かび上がった時には、黒い小さな精霊は大きなガラス瓶に掬いとられていた。
こぽ? こぽ! ぽぽ!
瓶の中で黒い小さな精霊が暴れる。けれど摺りガラスになった瓶の蓋はぴっちりと合わさって一滴の水も通さない。ガラス瓶なんてもの、宿った液体だけを残して逃げ出せるはずなのに、瓶底に刻まれたおかしな印が邪魔をして、黒い精霊は逃げられないのだ。
「こんな場所に長居は無用だ」
「あぁ、とっとと帰って報酬を貰おう」
足早に毒の沼地を後にする男たち。
――助けなきゃ。でもどうやって? 毒のあぶくは全然効かない――
助けなきゃ、助けなきゃ。助けられるモノを呼ばなくちゃ。
沼地の精霊は必死に叫ぶ。
貧しい沼地の乏しい精霊。長くこの地にいるだけの、力のない精霊だ。
沼地の精霊にできるのはコポコポと毒のあぶくを湧き出させるくらいのもので、マスクをしたニンゲンの足を止めることもできない。
けれど、沼地の精霊は長くこの地にあったのだ。
ようやくできた友達を連れていかれて悲しいと、助けて欲しいと願えるほどに、その精霊は深く、深くこの地に根づいていた。
――よかろう! 我らを呼ぶがよい。汝の源、ヒトの都に通ずる扉を我らに開け!――
待っていた、とばかりに応じた声は遥か東から毒の沼地の声に応じた。
毒の沼地は、帝都と魔の森の深淵を繋ぐ流れの上にあり、その水源は帝都から続く地下水。精霊たちから見れば帝都の裏口。
毒の沼地の精霊は、広義において帝都の一部だったのだ。
――お願いします。お願いします。どうか黒い友達を取り戻して!――
毒の沼地が扉を開けるや、ドゥッ、とおおいなるものが毒の沼地のずっと深くを遡り、帝都に通じた。
同時刻、迷宮都市。
『木漏れ日』の店内から二人の元精霊の姿は消え、迷宮都市から帝都に向けて黒鉄輸送隊の装甲馬車が出立した。
■□■
キャロラインは諦めていた。
兄ロバートに3次元は早かったのだと。
意中のソンブラムの精霊さん(仮)を、ゴリゴリのドワーフと見間違うなんて、目か脳ミソが腐ってるんじゃなかろうか……。
実際はそこまで言っていないが、エドガンがナンナの正体に割と長いこと気付かなかった事例もあるし、奥手なロバートがソンブラムの精霊さん(仮)の正体に気付くのはずっと先のことだろうと思っていたのだ。
その諦めきった雰囲気を、周囲はおろかロバート自身も感じ取っていたのだが。
光差し込む窓際で、ロバートを振り向くソレン・アルドリッチ。
その輪郭と雰囲気に、ロバートはあっさりとソンブラムの精霊さん(仮)の正体に気付いてしまった。
「ん? どうした、ロバート」
(ソ、ソ、ソ、ソンブラムの精霊さんんんんん……‼‼⁉⁉)
ソレン=ソンブラムの精霊さん。
みんな気付いていたことだけれど、ロバートからすれば晴天の霹靂。「ソ」しか共通点のないこの状況を、どのように処理したらいいか分からない。
(ソレンは精霊……じゃなくてソンブラムの精霊が人間で、ソレンは人間だった!?)
「顔が赤いよ、熱でもあるのかい?」
ひやり。ソレンの手がロバートの額に触れる。
(ててて、手が! 手がぁー!! ソレンは私を好きかもしれないーーーーー!!!)
今世紀最大の知能指数の低下を見せるロバート。
ロバートの脳内で白い花が咲き乱れ、リンゴンリンゴンと祝福の鐘が鳴りだす始末だ。もちろん白いタキシードを着たロバートの横では、ウェディングドレス姿のソレンが微笑んでいる。「オメデトー、オメデトー」という幻聴に、「ありがとう」と答えたくなる。
闇堕ちならぬ、不審者堕ち一歩手前の危うい状況。
だがしかし。ロバートは一度転落を経験し、不死鳥のごとく復活ファイヤーした男だ。
彼は奈落に堕ちるすんでのところで、ぐっと踏みとどまることができた。
すーはーすーはー。
吸ってー、吐いてー、吸ってー、吐いてー。
脳にたっぷり酸素を送ると、急低下していたロバートの知性がちょっとだけ回復する。
「ん゛っ、ん゛ん゛っ。問題ない」
「そう? 実験用のスライム持ってきたけど」
「あぁ、ありがとう」
「うん。じゃあこれ。またよろしく」
そっけない会話と共に去っていくソレンと、見送るしかできないロバート。知能がいくら回復しても、もとからゼロだった恋愛経験値が増えたりしない。
(まずい。何を話せばいいか分からない……)
ロバートの話題と言えば、呪いに関する研究内容か、口外できない迷宮都市ネタだけだ。研究の話題なら会話できるが、話が弾めば弾むほど別方向へと進むだろう。
一体、どんな会話をすれば、キャッキャウフフになれるのか。
(こういう時は、先人に習うべきだ!)
ロバートの知る仲良しさんと言えば、六本足の吊橋効果でコロッと落ちた王子様か、食べ物を貢ぎまくる眼帯狩人か、猫アレルギーの猿しかいない。
(だめだ、まったく参考にならない。いや、もう一人聞けそうな者がいた……!!)
思考は高速回転するけれど、同じ所を周回するばかりでちっとも前に進めない。
だがしかし。ロバートは非常に勤勉で、行動力もある男なのだ。
試験前にノートを借りる目的で友達が増えるノリで相談相手を増やしたロバートの血がにじむような努力は、どうにか実を結ぶことになる。
もっともロバートの努力の結果は、赤と黒の新薬のように斜め上にぶっ飛ぶのだが、今回ぶっ飛んでった先、所在地的に言うならシューゼンワルド辺境伯の帝都邸の食堂にいた被弾者は、これまた恋に悩む不運な狩人、ジークムントだった。
【帝都日誌】黒歴史職人の歴史に新たな一ページが……!?byキャロライン
10月のコミカライズはお休みだそうです。




