72.沼は謳う
前回までのあらすじ:ハイツェル、ジークの精霊眼情報を売る。
帝都を南に進むと、枯草とまばらな低木の窪地に変わる。
所々にあるくすんだ緑はどれも毒を持つ植物で、枯草の合間に見える土の色は肥沃さとは無縁の褐色をしている。帝都から流れる地下水が湧き出る、深い水たまり程度の浅いぬかるんだ湿地だ。
帝都の排水は浄水処理後に放水しているのに、ここの湧き水はなぜか毒素を含んでいる。だからこの湿地に集まって来るのは魔物か生命力の強い野生生物だけで、人間にはおよそ縁遠い土地だった。
コポコポコポ。コポコポコポ。
響いたそれは笑い声。
コポコポコポ。コポコポコポ。
愉しい、嬉しい、素晴らしい!
葦の髪を振り乱し、水草の服を纏って浮草の上でダンスするのは、この湿地の精霊だ。
すだれのような髪で顔を隠した陰気な彼女が、思わず踊り出してしまったのには訳がある。
――あの迷宮の魚が死んだ! この辺りの乏しい《命の雫》を独り占めしてニンゲンに貢いだ、哀れで愚かな魚が死んだ!
美味しい、みなぎる、湧き上がる!
もうずっと昔から、この辺りの《命の雫》は全部あの魚に奪われていたのだ。おかげで精霊の棲まう湿地は水たまりのように浅くなって、乾季などは水を求める魔物や動物に飲み干されてしまうんじゃないかとヒヤヒヤだった。
水を求めてきた彼らだって、水を舐めているのか泥を舐めているのかわからなかったに違いない。
けれども、あの魚が死んだおかげでこの湿地にも《命の雫》が流れてきた。
お陰で水が湧き上がり、いつにもなくお水はたぷたぷしている。
これなら、近くの動物たちにジャリジャリしない美味しい水を飲ませてやれるし、もしかしたら魚だって住んでくれるかもしれない!
ずっとずっと、このままずーっと水がわき続けたなら、湖にだってなれるかもしれない。
深い深い、遠いところで、微かにつながっている、あの深淵の水の精霊に、もしかして、もしかしたら、ちょっぴりだけ近づけるかもしれない!
コポコポコポ。コポコポコポ。
湧き上がる期待とともに、水も湧く。
湿地の精霊は嬉しくて、楽しくて仕方がないのだ。
コポコポコポ。コポコポコポ。
こぽこぽ、こぽこぽ。こぽぽぽぽ。
――ん? なぁに?
湖沼の精霊の声に交じって、聞いたことのない笑い声が混じった。
コポコポコポ。コポポポ?
こぽこぽ、こぽこ。ぽぽぽぽ!
――すごい、すごい、新たな仲間だ!
湖沼の精霊はすごくすごくうれしくなった。
だって、湧き上がる水に交じって、新しい精霊が生まれたのだ。
コポコポ! コポコポ!
こぽ! こぽ! こぽこ!
《命の雫》が巡ってきたおかげで、湿地の端に新しく黒い泉が湧き出して、ついでに新しい精霊も生まれてくれた。
なんだか真っ黒けでちょっと臭い子だけれど、精霊の仲間は初めてなのだ。
うれしい! うれしい! 最高だ!
コポコポコポ! コポコポコポ!
こぽこぽこぽ! こぽこぽこぽ!
湿地の精霊が大喜びで笑うと、生まれたばかりの小さな精霊も、軽やかな音を立てて嬉しそうに笑った。
それは、寂しく貧しい湿地で起こった小さな変化。
誰も知らずに済んだなら、こぽこぽ笑って暮らしていけたのに。
これが初めて友達を得た精霊の、物語の始まりだった。
【討伐日誌】帝都の南にある沼地は、遥か昔はバハラートと水源を同じくしていたと聞いたが、今はそれも枯れ、帝都の排水によって毒沼化したという説がある。byロバート




