69.皇帝の判断
前回までのあらすじ:アントバレー深部、迷宮化していた。
「アントバレーで坑道蟻の異常発生だと!?」
執務室に持ち込まれた案件に、皇帝ヨハン=シュトラウス・レッケンバウエル・15世は、眉間のしわを深くした。
「調査団の報告書によりますと、すでに迷宮化の兆候があるとのこと」
「この場所は確かエーテリウム鉱脈があったな」
「はい。少量ですがソルダリウムの産出も確認されております」
「アントバレーではアクアグロブによる奇病が発生していたとのこと。現在は沈静化しておりますが、症例から推察しますにゴーラナイトもありますな」
エーテリウムにソルダリウム、そしてゴーラナイト。
どれらも魔鉱石に分類されるもので、魔鉄に配合することによって有益な魔鋼が製錬できる。特にゴーラナイトの産出量は極めて少なく、安定供給できればその恩恵は計り知れない。
迷宮というものは、その土地の特長を色濃く反映する場合が多く、内部で産出される様々な資源は迷宮が存続する限り枯渇することはない。つまり、廃坑寸前だったアントバレー鉱山が、恒久的に貴重な鉱石を産出する鉱山に生まれ変わったも同然なのだ。
もちろん相手は迷宮で、人間を喰らう危険な場所だ。しかも放置すれば成長し、迷宮都市のように国を滅ぼしかねない魔窟に成長してしまう。
普通であれば生じたばかりで階層が浅いうちに潰してしまうのが最良なのだが、帝都には若い迷宮を飼いならせる手段があるのだ。
緋色の宝珠。
あの奇跡の赤い石があれば、アントバレーの迷宮は、無限に鉱石を供給する鉱山になる。
「……ロキは、再誕したばかりではないか」
「再誕したばかりであっても、若い迷宮を調伏する程度の宝珠は得られまする。すでに、ゲニウスの左手はグランドへ帰ったと聞き及んでおります故、予定が少々前倒しになる程度。気を配られることもございますまい」
同席した老人――贄の一族、天翳の最高位導者デイラン・サクリマンテは枯れ木のしわのような口を開いた。
――何を愚かなことを。
そう吐き捨てたいところをぐっとこらえて、皇帝ヨハンは誰にも悟られぬよう唇を噛む。
皇帝の威光がたやすく捻じ曲げられるところを、例えここに居るのが帝国の中枢を担う少数に限られるとしても、さらすわけにはいかないのだ。
最高位導者デイランに乗じるように、大臣も言葉を重ねる。
「帝国の安寧と臣民の幸福のために、鉱山は必要でございます。迷宮都市の件が一段落した今、北部諸国ではシューゼンワルドの武力をけん制する動きも見えまする。
陛下が帝国のはるか先を見据えていることは重々存じ上げておりますが、何事も基盤が肝要なれば、今立つ足元を強固にすることこそ帝国永劫の繁栄につながるものと愚考いたします」
(今立つ足元、か)
皇帝ヨハンは嘲笑に緩みそうになる表情をぐっとこらえる。
帝国の足元に一体何が埋まっているのか。帝国繁栄を支える基盤が一体どういうものか、ここに居る人間が知らないはずはないというのに、それを知ってなおこの男はそれを言うのか。
(いや、大臣の言う足元とは、余の立ち位置のことであろうな)
「陛下、ご裁定を」
Yes以外の選択肢のない決定だ。
「蟻の迷宮は成長しやすく討伐難易度も高いと聞く。緋色の宝珠の設置も一筋縄ではいくまい。開発は慎重に、実力ある者を選定して当たらせ、不要な犠牲が生じぬように対策をせよ」
判断を仰ぐ大臣の体裁に白々しい気持ちを感じながらもヨハンは重々しく返事をする。
帝国を帝国たらしめているのは、量産型錬金術師に支えられた大量生産システムによる帝都の高い経済力と、敵国への侵略を容易にし同時に強いけん制効果を持つグランドポーション、そして、迷宮を従え無尽蔵の資源を得られる鉱山へと変貌せしめる緋色の宝珠だ。
そして、その全ては帝都を統べる大地の精霊、ゲニウス・ロキ無くしては成り立たない。
では、それほどの力を持つ古く強き精霊を、帝都と言う人の社会にとどめる軛は何なのか。
「我が民のため、ロキに再誕の儀を願うとしよう」
皇帝ヨハンは席から立つと、宮殿の奥にある石造りの神殿へと向かう。
ただ一人、ゲニウス・ロキをこの世に止め、願いを伝えうる存在。
それこそが『ヨハン』であり、ゲニウス・ロキが『ヨハン』と認識する者こそが、この地、帝都クアドラの王であり、帝国全土を統べる皇帝なのだ。
帝国の皇帝は世襲ではない。
この国の根幹を担うゲニウス・ロキに選ばれた者こそが皇帝であり、ロキが『ヨハン』と呼ぶ限り王権神授に近しい絶対の権力を有する。
とは言え、皇帝に何の弱点もないわけではない。
長い帝国の歴史の中で、ゲニウス・ロキが『ヨハン』と認識する条件はすでに明らかになっている。
今では条件を満たす候補者を有力派閥が擁立し、熾烈な権力闘争が繰り広げているあり様だ。
血族という縛りがないぶん、その争いは苛烈とも言えた。
皇帝が定まった後であっても、亡き者にして都合の良い候補者を新たな皇帝に据えようと画策する者も少なくない。
だからこそ、形代という身代わり人形が必要なのだ。
現皇帝ヨハン=シュトラウス・レッケンバウエル・15世が帝位に就けたのは、先代の形代が急に崩壊した故だ。予想より早すぎる先帝の崩御に、形代を準備できる皇帝候補が彼しかいなかったからであり、それ故に、彼の支持基盤はぜい弱だ。
さらには、形代は本来時間をかけて準備されるものなのだ。急ごしらえでしつらえた彼の形代は、ひどく脆い。皇帝という絶対の地位に就きながらも、明らかな国益を前に、彼は無理を通すことができない。
(アントバレーは確かヴィンケルマン家の所領であったか。今では小さな領地のはずだが寄親は大臣か。管理型迷宮から外れ氾濫に至ったバハラートも大臣の寄子だったか。新たな資金源に目がくらんだのだろうよ)
皇帝ヨハンは向かう先、冷たい石の神殿で静かに彼を待っているであろうロキの姿を思い浮かべる。そして、再誕の儀に選ばれるだろう、子供たちのことも。
(彼らこそ、余が守るべき民ではないのか……)
こんな時、いかんともしがたい心情を誰かに吐露したくなる。
皇帝ヨハンは余りに孤独で、積みあがる課題はどれも困難なものばかり。
先細る未来しか見えない状況に、この感情を共有し皇帝としての自己を再確認したくなる。
そんな相手は、皇帝ヨハンの周囲には、ただの一人もいないけれど。
「ふー……」
一人、深いため息を吐く。
皇帝ヨハンは、若き日に肩を並べ理想を語り合った、友人のことを思い浮かべた。




