50.怨嗟の壺
前回までのあらすじ:ガウゥ、闇落ち!
「……何かあったようですね」
地下へ続く階段の先頭を行くニクスが、マリエラたちに注意を促した。けれど最初に異変に気が付いたのは、ニクスではなくナンナだった。
「……ナンシーちゃん、大丈夫かい?」
エドガンが心配そうに声をかけたナンナは、自分を抱きかかえるようにしてブルブルと体を震わせている。
(ガウゥ、ガウゥが……。怒ってるなん? 泣いてるなん? ……なんな、ガウゥが真っ赤で、真っ黒で……)
ナンナには、ガウゥに何が起こっているのか分かるのだろう。
震えるナンナをマリエラが隣で支え、二人の前後をエドガンとジークが守る。
地下へと続く階段には照明の魔導具が灯っていて誰かいるのは明らかなのに、見張りの姿も物音さえなくやけに静かだ。
長く細い階段は途中から緩やかなスロープに変わった。人間が造るには非効率な長く細い通路はかつて迷宮だった名残だろうか。歪に曲がった通路を進んだ先で、先頭を行くニクスとエドガンに緊張が走った。
微かな血の臭いと、のたうつような人の気配。
マリエラが気付くほどの異常事態に、ニクスとエドガンが大胆に歩みを速める。
「おい、大丈夫か? ……こいつ、逃げてきたのか?」
這いずりながら逃げてきたのだろう、うつぶせに倒れた男の側に双剣を構えたままエドガンが近寄る。エドガンの問いに答える様子はないが、時折激しい痛みに襲われたようにビクビクと動くところから、まだ生きてはいるようだ。
「大丈夫ですか? ……わわっ」
倒れた男の側にしゃがんだマリエラは、状態を見ようと手を伸ばした瞬間に、何かに引っ張られるようにバランスを崩して後ろに尻もちをついてしまった。
「大丈夫か、マリエラ。……マリエラ?」
「……え、あ。うん、大丈夫。ちょっとバランス崩しちゃって。この人、多分、呪われてるね。触れたらダメだよ、これは感染する呪いだと思う」
「呪い……。バジリスクの石化みたいな?」
一瞬呆けたのちに返事をしたマリエラに、エドガンがさらに質問を投げかける。
魔物が与える呪いと言えば、石化だとか体の一部が魔物のそれに変じるだとか、姿が変わるものをまず連想する。あるいは能力が制限されるデバフ系、記憶を失うようなものもある。
しかし、そこに倒れた男の姿にその手の変化は見られない。強いて言うなら口からは苦痛の代わりに一筋の鮮血を垂らし、助けを求めるように伸ばされた両手に爪がないことだろうか。二枚貝が開くようにすべての爪が付け根を起点に跳ね上がっている。
「魔物の呪いじゃないと思う」
男の状態を見ながら答えるマリエラ。彼女の見立てを肯定するようにニクスが口を開く。
「これは魔物ではありません。本当に、マリエラさんが触れなくて良かった。
この爪を見てください。これは拷問の痕だ。声を上げないのは喉が潰されているからでしょう。この症状には心当たりがあります。オークションで扱ったことがある、これはおそらく怨嗟の壺の呪いです」
「怨嗟の壺?」
「商品として作り出された呪いです。あぁ、マリエラさん。すぐに死ぬわけではありませんから、解呪のポーションは……2本お持ちですか。それは取っておいてください。この方は大丈夫です」
――現在進行形で痛いですが、死ぬわけじゃありませんから。
”大丈夫”の後に続く言葉は口に出さず、腰のポーチから解呪のポーションを取り出すマリエラをニクスが制する。
リンクスを失って以降、主だったポーションを持ち歩くようになったマリエラだったが、解呪のポーションを持っていたのは偶然だ。
ロバートに頼まれて作った余りをそのまま持っていただけで、本数は2本しかない。ならばとっておくべきだ。すぐ先の扉の向こうに、呪いの原因がいるのだから。
「想定外のトラブルが起こった様子。ですが、怨嗟の壺だけなら対応のしようがあります。……怨嗟の壺だけならね」
ニクスがそう言葉を区切ったのは、扉の向こうから猛獣のような唸り声が洩れ聞こえたからだろう。
――ヴヴ、ヴルルルル……。
薄く開かれたままの扉から、猛獣の唸り声と黒い靄が漂ってくる。
(ガウゥ!)
駆けだそうとするナンナを必死に抑えるマリエラ。この時ばかりはマリエラに止められるほどにナンナが弱体化していて幸いだったかもしれない。
「ジークさん、弓はもってきていますか? では、壺の破壊をお願いします。これくらいの壺がどこかにあるはずだ。それを探して壊した後、中身に解呪ポーションをかければいい」
そして、怨嗟の壺について知っているニクスが同行していることは、何より幸運だったろう。
ニクスの作戦に従って、扉へと進む一同。
彼らの足元――、呪われた男に触れようとしたマリエラが尻もちをついた石の床にだけ、肥沃な土塊が落ちていたことに気付く者はいなかった。
■□■
扉を開けると同時に、動きの素早いニクスとエドガンが部屋に飛び込み左右に展開する。万一どちらかがやられても、もう片方が対処できるようにとの算段だ。
駆け込んだ内部は、これまでの通路とは打って変わった広い空間だった。
中央に置かれた大きな石のテーブルを、周囲の石柱に取り付けられた照明が煌々と照らしているが、その明かりだけでは広い地下室全てを照らすにはとても足りない。
不規則に並ぶ石柱が長い影を落とすその部屋は、青白い光に照らされた岩肌のじっとりと湿ったような質感と、長く伸びる柱の影が作り出す影絵でまるで牢獄のように思えて息苦しい。
思わず息を止めたくなったのは、テーブルの周りに複数の人影が倒れ伏しているからか。テーブルの上には壊れた檻らしき残骸と割れたポーション瓶、その横に人間の頭が入る程度の壺が転がっている。
あれが『怨嗟の壺』だろう。
ヒュッ。ガシャン。
扉の位置から壺の存在を認めると同時に、ジークが左腕に取り付けた仕込み短弓で“怨嗟の壺”を射抜いて壊す。壊れた壺から溢れ出したのは、真っ黒な腐汁とゴロリと転がる南瓜サイズの塊。
「目を合わせないように!」
ニクスの声にマリエラは思わず目をぎゅっとつぶる。
壺に納められていたのは、人間の生首だ。
ゴロリと半周転がってこちらを向いた二つの眼孔から、無いはずの視線を感じて背筋がぞっと寒くなる。
離れていても顔をしかめたくなる悪臭にも拘わらず、一匹の蟲も湧いていないのは、そこに封じられていたものが蟲さえ忌避する災いだからか。
「ほらよっと!」
間髪入れずエドガンが投げつけたポーション瓶が、壺の中身に当たって割れて解呪のポーションが降りかかる。
見た目に分かる変化はない。その理由を、薄く目を開いたマリエラの言葉が証明する。
「そこにはいません! でも、消えてない!」
その声に反応するように、生首の口がカパリと開いて、黒い腐汁がどろりと零れた。
――ヴルルルル……。
「ひっ、ぃぃぃ……」
「ぁぁっ、イギ……」
「……っっっ……」
怨嗟の壺への攻撃に怒ったのか、それとも無差別に人を攻撃する怨嗟の呪いの性質か、地下室に獣の唸り声が響き、同時に倒れていた研究員たちが激しい痛みに襲われたように体を痙攣させた。
パキ、ポキ、ペキ。
誰も触れていないのに、彼らの指が軽い音をたててあらぬ方向に曲がっていく。
かすれた悲鳴の代わりに口から吐き出された白い破片は、おそらく彼らの歯だろう。
その表情から、激痛に襲われているに違いない。けれど悲鳴はない。上げられないのだ。
怨嗟の壺――。
そう呼ばれる壺に込められた首は、重罪を犯した犯罪者のものだ。
生首の生前の姿をマリエラが視てしまったのは、それが呪いの素材だからか。
(うっ、なんて酷い……)
生首の生前の姿は、弱い女性や子供を狙って惨殺し、犯罪奴隷に堕とされた男だった。
犯罪者が犯罪奴隷に堕とされるのは被害者への賠償目的でもある。対魔物の肉壁や鉱山と言った危険度の高い仕事に就かせる事で罪の償いになるし、誰もやりたがらない仕事をさせる奴隷は相応の値段がつく。
しかし、それが償いであると言われて、家族を惨殺された遺族が納得できるだろうか。
やり場のない恨みと怒りと悲しみに囚われた遺族たちを人目に付かない地下室に集め、体の自由を奪った犯人を与えてやればどうなるか。
声が出ないのはおそらく最初の処置だろう。痛みを訴える叫びがなければ、荒事とは遠い者にどれほどの苦痛を与えているのか推し量ることは難しい。
憎しみに駆られ、暴力がどれほどの痛みを与えているか理解できない遺族の復讐はさぞや苛烈で執拗だったろう。満足するまで浴びるほどのポーションが使われたかもしれない。
罪のない弱者を虐げたとはいえ、私刑の末に死んだ犯罪者は、懺悔の念を抱いただろうか?
否。そんな感情を抱けるのなら、これほどの罪を犯しはしない。
死の寸前に犯罪者が抱いた感情は、私刑に興じる遺族と同じ、恨みと怒りに他なるまい。
――復讐を、報復を、この身に刻まれた以上の痛みを、自分以外のあらゆる者に。
そんな独善的な負の感情の内に死んだ者の首を、流した血と共に漬け込んで熟成させれば、犯罪者の穢れと被害者家族の怨嗟がないまぜになった呪いを生み出すことができる。
それが『怨嗟の壺』。
周囲に無差別な痛みをもたらす、商品化された呪いの壺だ。
呪いに変じて日が浅く質も悪い呪いだから、媒体なくして存在できるようなものではない。だから本来であれば壺を壊し、生首に解呪のポーションをかけた時点で呪いは消える。
しかし、今に限っては、霊体のまま顕現しうる存在に取り付き、力を得てしまったようだ。
チカ、チカと、照明の魔導具が点滅する。
――ヴルルルル……。
何処からともなく響く獣の唸り声。
乱立する柱の影がマリエラたちを取り囲むようにぐるぐる渦を巻くような錯覚を感じる。
複数の照明に照らされて一本の柱から複数伸びる影が交錯し、まるで夜の森に来たみたいだ。
――ヴルルルル……。
薄暗いモノクロームの森を渡るように周囲を回る巨大な獣の姿。
(成長してる? でもあの獣の影はガウゥだ。怨嗟の呪いと一体化しちゃってるんだ)
マリエラたちを取り囲むようにぐるぐる回り、隙あらば襲い掛かろうとする獣の影はとても大きく、子猫だったガウゥのものではないが、そう判断できたのはロバートから研究の話を聞いていたからだろう。
何の前触れもなく、呪われた獣が近くにいたニクスめがけて飛び掛かる。
「おっと。足音がないというのは存外やりにくい」
ガウゥの攻撃をひらりと躱したニクスだったが、すれ違いざまに放った剣戟は空を切るだけでガウゥに当たることはない。影に溶け込むように消え、今度はエドガンめがけて飛び掛かるガウゥ。
エドガンとニクスなら避けるのは可能だが、このままではらちが明かない。
解呪のポーションはまだ1本残っているが、実体のないガウゥに飲ませる事は不可能だ。時間をかけすぎターゲットがマリエラやナンナに移れば、二人に避けることはできないだろう。
「仕方ありません。魔法を使って弱らせましょう」
刀身に風魔法を纏わせたニクスを危険と見做したのか、今まで以上に大きく膨れ上がった獣の影が飛び掛かる。その影を呪いごと吹き飛ばすほどの風がニクスの刀身に渦巻き、ガウゥめがけて振り抜かれようとしたその時。
(ダメなんなー!!!)
我が身の危険も顧みず、ニクスとガウゥの間へとナンナが飛び出した。




