48.ゲニウスの思惑
前回までのあらすじ:コネコチャン、いじめちゃったのですぞ。
走っている。まるで、風のように。
帝都の硬い石畳をまるで羽がなぜるような軽やかさで蹴り、つむじ風よりも速く、速く。
風が草葉の隙間を吹き抜けていくように、人々の合間を抜け、石畳の目地のように複雑に張り巡らされた帝都の路地を、たった一つの場所をめがけて進む、進む。
あぁ、なんて自由なのだろう。大地を駆ける獣というのは、こんなにのびやかなものなのか。
今なら分かる、行くべき場所が。今なら聞こえる、求める声が。
奪われようと、隔たれようと、繋がっているのだ。片割れに、半身に。
――ガウゥ、ガウゥ、待ってるなん!
まるで自分が一匹の白い獣になったような錯覚にとらわれていたマリエラは、ガウゥを求めるナンナの声に自分が何者なのかを思い出した。
――いけない、ナンナに引っ張られてた。
肉体を持たない精神体というものは厄介だ。こうしてナンナにくっついているだけで、たやすく呑まれそうになる。自己というものは肉体という器があって初めて成り立つものなのだろう。今のマリエラは自分というものを保つのがとても難しいのだ。
ナンナの方はというと、肉体の軛から解き放たれたとたんに、伸びたゴムが縮むようにガウゥの方に引き寄せられている状態だ。
やはり守護精霊と獣人との間には半身と言ってもいいほどの絆があるのだろう。
――ここは……?
落ち着いてくると、今のマリエラは大きな白猫に騎乗したような状態だとわかる。ナンナは輪郭さえあやふやな獣のような状態だが、マリエラは自分が自分であることを認識できているからだろうか、手も足も、いつもの自分を認識できるし、今どこにいるのかくらいも理解できた。
来た道を振り返れば、帝都は濃密な《命の雫》の気配に、生身で見るよりはるかに煌めいて見えた。
いつの間に越えたのか、背後に見えるのは帝都の中央区画を囲む外壁。ここは外縁部なのだろう、《命の雫》の煌めきはずっと薄いが、所々噴水のように湧き出す場所が確認できる。あれはキャル様が見学したという大規模工房だろうか。たくさんの量産型錬金術師が《命の雫》を汲み上げているからあれほど輝いているのだろう。
肉体から遠ざかるほど景色はどんどん色あせ、貧しくなっていく。
そう、“貧しい”という表現がこの景色には相応しい。家々が立ち並び物質的に豊かでも、土地が持つ《命の雫》が薄いのだ。
“ここは本来、農業には向かない荒れた土地”
そんな話を聞いた覚えがある。この話をしてくれたのは、一体誰だったろう。
貧しいモノクロームの世界の中で、マリエラは世界の輪郭をおぼろげに知覚する。
ナンナが向かっていく先は、外縁部が見下ろせる小高い丘だ。
たちまち頂上に辿り着けば、ずいぶん広い公園だ。古いモニュメントのようなものや、建物も幾つか建っている。
――古い建物、石柱が並んで。でも芝生は手入れされていて、建物も。人が今も出入りして……。……礼拝堂? 慰霊碑?
実体のないナンナとマリエラを止める者はいないし、おそらく誰にも見えてはいない。ナンナが礼拝堂の裏を進むと古い墓地が広がっていて、身分のある人の者だろうか小さな家のような霊廟が立ち並んでいる。今では参る者は少ないのだろう、人気のないこの場所を周囲の木々が隠すように生い茂っている。
この場所を目指して一目散に走ってきたナンナだったが、ここで道を見失ってしまったようだ。あたりをうろうろ、ぐるぐると回っている。
――ガウゥ! ガウゥ! ガウゥ! ガウゥ!
ナンナに意識はあるのだろうか。ガウゥを求めるその声は、名前の響きも相まって獣の叫び声のようだ。
――たぶん、地下にいるんだ。この地下に……。
ナンナには地面の中に潜るという発想はないのだろう。しかし、マリエラは違う。その先に抗いがたい光に満ちた温かい場所があることを知っている。
そこまで行くのは危険だけれど、大地の薄皮をめくった先くらい、容易に覗けてしまうのだ。
地下の様子を確認しようと意識を向けたその瞬間。
――うわっ、な、なに……!!?
地の底にわだかまる、真っ黒な何かにマリエラは身の毛がよだつのを感じた。
真っ暗なのではない。真っ黒なのだ。
その漆黒の何かに質感はなく、立体なのか平面なのかもわからない。
堕ちてしまいそうな、引きずり込まれてしまいそうな、そんな黒。それが帝都一帯の、しかも地脈よりずっと浅い位置に広がっていた。
何よりどうしようもなく恐ろしく感じたのは、そこに意思のようなものを感じたからだろう。
――見られている。
あの漆黒か、それともそれに紛れる何かか。得体の知れない何者かがマリエラを認識している。
怖い、怖い、怖い、助けて。
あまりの恐ろしさにマリエラは縋りつくように両手を強く握ると、次の瞬間、ナンナとマリエラはオークションハウス『テオレーマ』の床にへたり込んだ状態で目を覚ました。右手はジーク、左手はナンナの手をぎゅっと握りしめている。
「な……ん、な?」
「戻って、こられた……?」
本能的に身を守ろうとしたからだろう。精霊に導かれるのとは違って、アストラルポーションは夢を見ているのに近いというか、なんだか“浅い”感じがする。悪夢でも落下するとか衝撃的なシーンで目を覚ますのはままあることで、それに近い現象ではないか。
こんなもので、果たして地脈まで行けるのか。あの漆黒は何なのか。そしてマリエラを見ていたモノは……。
疑問は尽きることはないけれど、ガウゥの居場所はおおよそ知れた。
隠し扉の場所は不明だが、当初の目的は達成できたのだ。
帝都の地下にわだかまる漆黒の正体は気になるが、今はガウゥ救出が先決だ。
マリエラは一息つくとガウゥの居場所をジークに告げた。
「ジーク、外縁部にお墓がある丘があって、その地下にガウゥはいる」
■□■
子供部屋というよりは神殿と呼んだ方がふさわしい部屋で、その部屋の主である少年は重い目蓋をゆっくり開いた。
床はマロンマリナスと言うのだろうか、大地を思わせる茶色の大理石で舗装され、磨き上げられた表面に、いくつも灯るろうそくの明かりが映って厳かな雰囲気を醸し出している。
壁面も大理石だが、豊穣の祈りが込められているのだろう、複雑で美しい植物の文様の彫金で飾られている。
座る椅子は翡翠やターコイズで飾り付けられ、皇帝の玉座より価値があるかもしれない。
しかし、いくら高価な部屋だと言っても、人が住むのに適しているとは言い難い。子供の部屋にはなおさらだ。
分厚い大理石の床も宝石の玉座も、使う者の体温を吸い取るばかりだし、柔らかな敷物一つない場所など、本来くつろげる場所ではない。この部屋を暖めるものは天井からつるされた巨大なシャンデリアに灯る百を超えるろうそくだけだが、そのわずかな熱量さえ高い天井へと昇って、住む者を温めてはくれないのだ。
住人の生命活動を鈍らせるようなそんな部屋。
けれど、この部屋の主――ゲニウス・ロキにとってはそれすらも都合が良かった。
この仮初の肉体が僅かだけ長く持つからだ。
――気分が悪いね。
ロキがそんな気持ちになったのは、肉体が冷え切っているせいではない。
ついさきほどまで視ていた光景に、腹立たしさを感じたのだ。
無垢な幼獣の鳴き声は、いたぶる者には聞こえないだろうが、ロキの耳には今も遥か遠くに聞こえてくる。
人間が人間を虐げ犠牲にすることに、特に思うことはない。
彼にとって、人間とは『ヨハン』かそれ以外かの2種類しかいないし、そもそも人間とはそういう生き物だと認識している。
例えるなら蟻や蜂のようなものだ。外敵の襲来に際し捨て身で攻撃――つまりは、死ぬことを役割付けられた個体がいるように、人間という集団にも集団のために死ぬ役目の者がいるだけで、生きるために獲物を食うような生命の営みの一環に過ぎないとロキは認識している。
だから、そこまではいい。
勝手に喰らい合えばいいのだ。
この帝都を支える因習も同じだ。歪められてしまったとは言え『ヨハン』との契約の延長であるのだから、ロキにはどうすることもできない。
しかし、精霊を、あんな稚い存在を、物のように消費し犠牲にする行いを必要だからと容認できるほどには、ロキは人間を好いてはいない。
――本当に忌まわしい。
ロキは年齢にそぐわぬ表情で、不快気に眉を顰める。
この帝都にはあんな場所がいくつもあって、それを命じている者は別の安全な場所にいる。精霊を崇めるエルフがいくつ潰しても、この帝都に代わりの人間はうじゃうじゃいるからキリがないのだ。
甘露に集る蟻のようにどこからともなく湧き出る様子も厭らしいが、何より人間が忌まわしいのは、人間たちのためなら犠牲を他の生き物に強いることを当然だと考えているところだろう。
――本当にヨハンの民とはとても思えない。ヨハンの願いは美しかった。ヨハンの……あぁ、なんだっけ。どうして僕はヨハンに惹かれたのだっけ……。なんでもいい。もう、なんでも。これが本性、この醜さこそが人間の真実だ。
――契約など、結ぶのではなかった。あぁ、か弱き者の鳴く声が耳に障る……
狡猾で強欲な人間どもが我が身のみでは飽き足らず、幼い精霊を物のように消費する様は、腹に据えかねる。けれど、あれらもヨハンの民ならロキに手を出すことはできない。
だが、今回は。幼い精霊を助けようと動く者たちがいる。
ロキは先ほど視た光景を思い出し、服に付いた埃を振り払うように、軽く身を震わせる。
あの娘――マリエラは、かつてヨハンの民の多くを燃やした炎の精霊の弟子だけれど、同時に帝国の民である。それならばヨハンの民だ。ならば手を差し伸べてもいいし、あるいは――。
――ヨハンの民を助けるならば、契約からは反しまい。ふふふ、あの娘を招いてよかった。
ロキは先ほど地の底から見た光景を思い出す。精神体となってナンナと共に帝都を駆け抜けていった姿を。
――あんなにはっきりしているなんて。あんなに強く護られているなんて。
あの娘なら、きっと至ってくれるはず。ならば今は力を貸そう。
大切にするがいい。絆を深めていくがいい。仲間たちを愛するがいい。
そうすれば、君こそが……。
ロキは、冷たい石の床に左手を付くと、再び目蓋を閉じる。
見る者がいたならば、床の冷たさを確かめているような、そのような動きだ。
しかし、ちょうど同時刻、外縁部にある丘の上の霊廟で、墓石にカモフラージュされた隠し扉が誰に気付かれることもなく静かに開いた。





