29.閑話:泥濘の夢 後編
前回までのあらすじ:ゼントン、伝説を目指す。
――雨だ! 待ち望んだ恵みの雨だ!
久方ぶりの覚醒を、魚はそのように感じていた。
赤い石がもたらす抗えない眠りは、随分薄くなってはいたが、それでもわずかながらのまどろみと、人を喰らうなという自制心にも似た拘束を魚にもたらしていた。しかし、それもこれまでだ。
赤い石の軛から、魚は今、解き放たれたのだ。
――我が仔らよ! 沸き立つように溢れ孵って地に満ちよ!
それは、長らく意識と自由を奪い続けた束縛からの脱却で、抑圧され続けた本能の解放は、まさに歓喜と呼ぶべき感情だった。
――水だ、水だ、命の水だ! 喰らえ、喰らえ、餌ならば、我らが巣穴にいくらでもいる!
魚の歓喜に呼応するように、バハラート迷宮のそこここに茶色く濁った泥水が湧きたち、高価な香辛料を目当てに迷宮に潜っていた冒険者たちを、香辛料もろともに呑み込んでいく。
泥水の中には蛇とも魚ともつかない生き物が、幾万、いや幾億という数蠢いている。それらは小さな、けれど剃刀のように鋭い歯を突き立てて、泥水に呑まれた哀れな犠牲者に喰らいつき、あっという間に骨も残さず食い尽くしていく。
――おかしい、おかしい! 餌が足りない!
いつもなら、魚の巣穴を傍若無人に踏み荒らす人間たちが今日は少ない。
長らく眠り続けていた魚は、とても腹が減っていたのだ。それは、人を喰らわぬように課せられていた魔物たちも同様だ。全く喰らわなかったわけではないが、赤い石の制約はあまりに重く、彼らはずっと飢え続けていたのだ。
――どこだ、餌は。人間は! 餌餌餌餌エサエサエサエサエサエエエエエェェェェェ!
まさに、ちょうどその時だ。
バハラート迷宮の入口に、ゼントン伯爵と彼に率いられた人間たちがやってきた。
「我が勇猛なる兵士たちよ! おそれを知らぬ冒険者たちよ! 今こそ歴史に名を残す時! 迷宮の伝説を書き換える時だ! かのエンダルジア王国を滅ぼした迷宮さえ滅ぼすことができたのだ。奴らにできてこのゼントンが率いるつわものどもに、やれぬことはあり得ない!」
ゼントンがでっぷりとした腹を重い鎧に押し込めて、意気揚々と演説を垂れる。家令に命じたのと文句が似ているあたり、気に入ったフレーズなのだろう。
対して集まった兵士たちは集合を命じられただけの兵士や、金に釣られた冒険者ばかりだ。すぐに来いとかき集められたから、事前説明か何かだろうと、大して準備もしないまま何事かと耳を傾けている。
彼らの前方は迷宮の入口。巨大な砂岩が縦に真っ二つに割れた隙間の向こうにあるそれは、いつもは乾き、砂がさらさら舞い落ちるような場所なのに、今はじっとりと湿って固まり、むわりとした湿気た空気を吐き出している。
まるで、乾季の終わりに初めて降った雨のような。宵闇に忍び寄る肉食獣の呼気のような――。
集った兵士や冒険者の内、勘の良い者は、迷宮から噴き出すただならぬ空気に異変を察知しただろう。ごく少数の切れ者が、ゼントン伯爵の演説中にも拘わらず脱兎の勢いで走り出し、一歩遅れた腕の立つ者が武器を手に身構え、そして、それら聴衆の変化にすら気付かないゼントンが気持ちよく演説を続けたその時。
「見よ! このバハラートの迷宮を! 我らの雄姿におののき震えておるではないか! いざ行かん……」
――ミィツケタ。
ドッと、砂交じりの泥水がバハラート迷宮から噴き出して、迷宮の入口に集った者たちを呑み込んだ。
■□■
バハラート迷宮の魔物の氾濫のいきさつは、家令と生き残った冒険者たちから正規軍へと伝わった。
ゼントンが大勢の兵士や冒険者を引き連れて迷宮前に集結したことが、魔物の氾濫の誘発に繋がったのだろうというのが、大方の見方だ。
幸いというべきか、バハラート迷宮は集った人間をあらかた迷宮の奥へと引きずり込むと、魔物の氾濫は一定の収束を見たから、迷宮周囲に住む一般の市民に犠牲者はなかった。
そもそも、管理型迷宮から外された時点で、討伐の計画を立て実行に移していたなら、魔物の氾濫は起こらなかった。すべての咎は、管理を怠ったゼントン伯爵にあるのだが、彼はバハラート迷宮に喰われてしまって、もはや責任を取ることができない。
「ハイ、……ハイ。そのようで。ハイ……。誠に申し訳ございません、ハイ。ゼントン伯爵のご子息ですか? 今はお二人とも帝都に……。えぇ、奥様も」
代わりに大忙しなのは家令だ。かれは、帝都側の人間なのだが、事態を収拾できる者が他にいないし、事情を知っている者ばかりでもない。家令は当面、米つきバッタのようにペコペコと頭を下げ、働きアリの様にセコセコ働き続けるだろう。
「あのぅ、それでこの領地の今後はいかように……?」
おずおずと尋ねる家令に正規軍の将軍は、帝国評議会の決定事項を伝えた。ゼントン伯爵の犯罪――、緋色の宝珠奪取の証拠が揃った時点で、バハラートの今後は決まっていたのだ。
「そうですか。討伐対象迷宮として、正規軍の管理下に入ると。あ、奥様とご子息たちは爵位を剥奪、財産も没収。こちらは、迷宮討伐の資金に当てられると。あのう、もしよろしければ、今回の被害者家族への見舞金も……。あ、ハイ。リストは控えてございます。よろしいと。ありがとうございます、ありがとうございます」
家令の腐心と正規軍の適切な処置で、突入前に全滅という前代未聞の不祥事に終わったゼントン伯爵の暴走も、なんとか一旦の収束を見た。
数週間ほどたった後、帝国全土にバハラート迷宮が討伐対象迷宮になった旨の通達がなされた。かつての迷宮都市と同じく、バハラートでは冒険者たちはいくつかの優遇措置が受けられる。迷宮都市より迷宮の難易度が低く、帝都からの便もいいことから、多くの冒険者が押し寄せることだろう。勿論、深部の討伐は困難を極めるだろうから、迷宮討伐軍や迷宮都市の精鋭冒険者にも召集がかかるかもしれない。
■□■
そして、夢幻の一撃は。
「バハラートが討伐迷宮に指定されたそうよ! 今のねらい目はあそこね!」
ニクスに捕らえられ、緋色の宝珠奪取の依頼主に付いて洗いざらい吐かされたあとも、なぜか解散せずにいた。
アルアラージュ迷宮のお陰か、それとも事の重大性に気が付いたのか、夢幻の一撃の結束力は波打ち際に建てられた砂山のように脆く、減刑を求めて我先にと争うように情報を喋りまくった。
端から裏切られる前提で依頼を受けたジークたちに、夢幻の一撃を訴える意志はなく、むしろ減刑を望むくらいだったから、彼らが受けた罰はアルアラージュ迷宮への立ち入り禁止と案内人の依頼を破棄したペナルティーくらいのものだ。
とはいえアルアラージュ迷宮はその性質上、案内依頼のペナルティーは他よりもかなり高く設定されている。蓄えを大きく減らした3人にのんびり暮らす余裕はなかったし、ベテランと言った年齢の冒険者を迎え入れるパーティーも簡単には見つからなかった。
結果として未だに一緒に行動しているわけだ。
「バハラート? オイオイ、本気かよ、イヤシス。また一から情報集めなんて御免だぜ」
「あなたに他に何の取り柄があるっていうのよ、ミッテクール。情報なら売ってるわ。一から勉強しなおして!」
「お、おで、水っぽい所は盾が錆びるし」
「別にトゥユールでもいいのよ? でもあそこの魔物の攻撃はものすごく痛いらしいわ。フセグン、あなたに受けられるの? 盾が錆びるって言うなら油でも塗ればいいじゃない!」
「……俺は田舎に戻るつもりなのだが」
「リョウまで! あなたの田舎、弓が使えないと役に立たないんじゃなかったかしら? だから、あんなにジークに固執していたのよね? また赤毛の案山子剣士に戻るつもり?」
「「「イヤシス、おまえ……」」」
吹っ切れたのかブチ切れたのか、何かが切れちゃったままもとに戻らなくなったイヤシスは、今までかぶっていた猫――、いやそんな可愛いものではないから虎か何かだろうか、を脱ぎ捨てて、言いたい放題言いながら、新天地行きの提案をしていた。
「あのジークが迷宮都市で生まれ変わったのよ!? 私たちだってやれるに違いないでしょう!」
ぐぅ~~~~~。
言われっぱなしの男性陣が「ぐぅ」の音を漏らすより先に、誰かさんのお腹が「ぐぅ」の音を漏らした。
「へ?」「え?」「は?」
「ちょっ、私じゃないわよ!?」
息を吐くようにナチュラルに嘘を吐いているが、音の出所はイヤシスの腹だ。
アルアラージュ迷宮で3股がばれて以来、食事をおごってもらえなくなったからか、それともダイエットでも始めたのか、お腹を空かしているらしい。
「くくっ。……しゃあねぇな! あのくそったれなお坊ちゃんが変われたんだ。オイラに出来ねぇはずはねぇしな!」
「オ、オデ。痛いよりは我慢できる……とおもう。いや、我慢……する。して見せるよ」
「ふん。俺の剣の腕が田舎で錆びさせるにはもったいない代物だってことを、お前らに分からせてやる!」
「でも、湿気てるから剣は錆びるかもしれねぇぜ?」
「あ……油ぬればいいんじゃないかな?」
「……うるさいぞ」
「とりあえず、激励会を兼ねて食事にいきましょう」
「「「割り勘な」」」
長年行動を共にした気安さで、再び仲間らしい空気を取り戻す面々。
しかし、彼らがちょっぴり足りない残念パーティーなのは相変わらずで、バハラートが事の発端となったことには気づいていない。
ついでに言うと、罠さえ熟知していれば生命の危険が少ないアルアラージュ迷宮に慣れた彼らの実力はランク以上に低いから、彼らの困難は約束されたも同然だ。
頑張れ、夢幻の一撃!
君たちの攻撃が、「え、攻撃したの? 夢か幻かと思っちゃった」みたいなことになるかならないかは、君たちの成長と頑張りにかかっている!
迷宮都市を始め各地から迷宮討伐の専門家が集結する討伐指定迷宮バハラートでの、彼らの冒険は始まったばかりだ。




