34.炎の道程
かつて、人の心を持ってしまった炎の精霊は、湖の精霊を助けるための方法を必死になって模索した。
けれど、世界と共にただあるだけの肉体を持たない存在は、自ら世界に干渉し変革していく力を持たない。そこに灯った炎を掻き立て焼き尽くせたとしても、穢れに染まった湖の精霊を清めることも、今なお流れ込んでくる穢れを止めることさえできはしない。
だから、彼女は自らの炎で焼き滅ぼした数多の人間を糧に受肉を果たし、精霊でないものとしてこの世に有限の生を得た。
肉の体を得たフレイジージャは、炎と共にただあることはできなくなったが、供物と引き換えに精霊の力を借りることはできたし、何より己の意思を心に抱き、己の意思で行動し、世界に干渉する力を得た。
精霊のような生じることも消え去ることもあいまいで無限とも思える存在でなく、生と死が明確に定められた存在になった代わりに、精霊として長く世界を見つめた彼女は、世界の記憶という人では到底許容できない情報の奔流さえも受け流し、断片的ではあったけれど望みをかなえるために必要な手順を知ることができた。
それは、時折ひらりと眼前に舞い落ちた落ち葉に一片の詩が刻まれていたような、偶発的で断片的なものであったけれど、フレイジージャはそれに従いこれまで過ごしてきたのだ。
精霊であった影響か、人よりはるかに老いにくい肉体であったけれど、今のフレイジージャの命には限りがある。だから、人の世に在る必要のない間は、仮死の眠りで肉体を離れ、この湖の精霊の世界で穢れの浄化に勤めた。
そして為すべきことを得た時だけ目覚めて、人の世に干渉してきたのだ。
例えばエンダルジア王国末期にマリエラを弟子にし育てたり、今の世に再び目覚めてマリエラたちを迷宮の最深部に導いたことも、穢れた地脈を浄化する、その方法に至るために必要なことだったのだろう。
「エリクサーは迷宮の核の穢れを取り除き、作り上げられる至高の秘薬。それに至れたなら、この地脈を浄化する方法も知れると思ってたんだけどな……」
フレイジージャは寂しそうに笑う。世界の記憶から得られる情報は断片的で、すべてを見通せるわけではないのだ。リューロパージャを救うという物語を読んでいるようなものだ。ページをめくるごとに書かれた内容を実行しているだけで、物語の顛末は分からないし、ページを進めることさえ自分の意思ではままならない。
「錬金術の経験は、死ぬ前だったらむしろ活用してほしいくらいで、今だって、いくらでも協力したいんですけど……。
すいません。確かにエリクサーは地脈の核の穢れを還して作りましたけど、還した先は地脈なので……」
マリエラの答えも歯切れのいいものではない。
穢れを移しただけの話で、浄化したわけではないのだ。
「いや、十分だよ。マリエラたちが来てくれて、黒い魔物を散々焼き払ってくれたおかげで、溜まっていた穢れはほとんどきれいになくなったんだ。
リューロパージャとも久しぶりに話ができた。
夜は穢れが、昼は水が邪魔してなかなかここまで来られなかったんだ」
――この逢瀬のひと時を私からも礼を言おう。フレイジージャの弟子よ――
人間のせいで穢れに染まり、正気さえ失っていたというのに、リューロパージャは人を恨んだりはしないのだろうか。
“人が人を恨むのだ”
夢で見たそんな言葉そのままに、穢れのはれたリューロパージャはマリエラをフレイジージャの弟子として受け入れている。
「でも、新しい穢れは相変わらず流れ込んでくるんでしょう?」
フレイジージャが助けたい精霊は、穢れの吹き溜まりに宿っているのだ。マリエラたちが黒い魔物を倒したおかげで今までの穢れは随分浄化されたとしても、あの湖と共に在る限り、再び穢れてこの世界はこれから幾度も夜の闇に沈むのだろう。
世界の記憶に記されたリューロパージャの記憶につながるこの世界では、幾度正気を失っても穢れさえ祓えれば正気を取り戻せるだろう。
そうやって、いつか全ての穢れとその根源を祓いさり、リューロパージャを助ける方法を得るために、フレイジージャは今まで長い長い時間を生きてきたのだ。
「リューロをここから連れ出せるのが、今の時代じゃなかっただけの話さ。
方法はきっと見つかる。必ずあたしが見つけてみせる。
そんな顔するなよ、マリエラ。
あたしは長く生きてきて、これからもっと生きられる。
お前の子供や孫たち、その子々孫々にだって会えるかもしれないね。
人と関わり世界の移り変わりを見守っていくのは、とても楽しいものなんだ」
あの精霊が、この地脈に縛られた湖の精霊である限り、助けることはかなわない。
少なくとも、今、その方法は存在しない。
それを知っても、フレイジージャはいつもの笑顔で笑ってみせる。
よく知るいつもの師匠の笑い顔なのに、マリエラは胸が痛くてその顔を見続けることができなかった。
「……さあ、そろそろ帰る時間だよ。
帰りの道案内は、そこの覗き魔精霊に頼もうじゃないか。
でといで、イルミナリア。燃やすよ?
……なんだい? 顕現する力もないのか。ジーク、ちょっと魔力を分けてやんな」
師匠の視線がジークの背負った荷物に移る。
釣られて一同は、ジークが背負い袋から取り出した大きな瓶に視線を移した。
「え? スラーケン? っていうか、なんでこんなにでっかくなってるの!? あと、その枝なに!?」
「えぇと、マリエラ。説明するタイミングを逃したんだが、これには訳がだな……」
ジークの背負い袋の大半を占めていたのは、100倍くらいに膨れ上がったスライムの入った瓶だった。両手のひらに収まりそうな、可愛らしい瓶の中のスライムだったのに、今じゃ樽か風呂桶が必要になりそうだ。
巨大スライム再来だ。こんなサイズの軟体生物など、正直可愛いとは思えない。
そして、核は傷つけていないようだがその上部には二枚の葉を付けた聖樹の枝が突き刺さって、ぴこぴこと揺れている。
驚くマリエラに、『精霊眼』から聖樹の枝に魔力を送りながらジークが言い訳じみた説明を始める。
「スラーケンもイルミナリアも、マリエラの魔力に馴染んでるだろ? だからこうしてイルミナリアの枝を差したらな……」
――私が操って動かすことができるのよ!――
「スラーケンが喋った!? じゃなくて、その声、イルミナリア!?」
ジークの魔力を貰ったおかげか、スラーケンの頭に刺さった枝の先端に、親指サイズのイルミナリアが立っていた。
「ここへもイルミナリアに案内してもらったんだ」
――魔の森には聖樹が何本も生えてるからね! 聖樹ネットワークでマリエラの位置を把握したわけ。すごいでしょ?――
「その、な。マリエラには悪いと思ったんだが、迷宮の湖の底から採ってきて欲しいものがあって……。
イルミナリアと相談して、こうやって採ってきてもらったんだが、帰ってきたらスラーケンの体が……」
――久しぶりの外にはしゃいじゃってさ、この子。
ちょーっと暴走しちゃって、餌食べ過ぎちゃったんだわー。
クラーケン入ってるから、水の中じゃ結構やるのよね、この子――
ぴこぴこぴこ。
スラーケンに刺さった聖樹の枝が自慢げに揺れる。
――ちょ、揺らさないでよ、コラ!――
などとイルミナリアが怒っているから、えっへんとばかりに枝を揺らしているのはスラーケンの方らしい。イルミナリアの枝が刺さっていると、意思の疎通も図れるのだろうか。
「は!?」
衝撃的なシリアスな空気が緩んだのもつかの間。
聞いたことがないほど低くて不機嫌そうなマリエラの声が辺りに響いた。
その声に宿った怒りの強さに、ジークはもちろんイルミナリアも、スラーケンさえ枝を揺らすのを止めてピシリと動きを止めている。
「なに、勝手なことやってるのかな? ジークにイルミナリア。
誰に断ってスラーケンを連れ出したのかな?
しかも迷宮? 食べ過ぎたって、魔物がいたってことでしょ? そんな危ないところに!
それにスラーケンはさ、核に従属の魔法陣が刻んであるから、私が魔力をあげないと死んじゃうんだよ!? 知ってるよね!?」
マリエラが、ものすごーく怒っている。
ジークが言い訳をしようとちらりと視線をマリエラに向け、キュキューっと眉毛を吊り上げた激おこの表情に、さっと視線をそらしている。
マリエラの背後で表情が見えていないはずのフレイジージャさえ、なぜか姿勢を正して先ほどまでの会話を一時中断するほどだ。
普段温和なマリエラが怒るとこれほど怖いのか……。
『精霊眼』をもって生まれて、蝶よ花よと育てられたジークは坊やなものだから、パパにだってこれほど怒られたことは無かったのだ。
借金奴隷時代の主人には、めちゃくちゃな目に遭わされたけれど、それとこれとは次元が違う。かつてジークの『精霊眼』を奪ったワイバーンより、今日のマリエラは怖いかもしれない。
「何か言ったら!?」
「お、俺が悪かった!」
――ごめんなさい!――
ぴこぴこり。
マリエラの一喝で、そろって頭を下げる二人? と一匹、いや一枝か。
「お説教は後でたっぷりするとして……、スラーケン、魔力だよー。
お腹空いたよね? この二人には、しばらくご飯と《命の雫》入りのお水抜くからね。
あぁ、どうしよう……。こんなに大きくなっちゃって。
こんなサイズじゃ『木漏れ日』で飼えないよ……」
“ご飯抜き”の衝撃に、腰を90度に折り曲げて頭を下げたまま固まってしまったジークとイルミナリアを無視したまま、マリエラは巨大な瓶越しにスラーケンに魔力を与える。
どちらも地脈から吸い上げたり外食したりと、自分で供給できるのだけれど、マリエラから貰う食事はやはり特別おいしいらしい。
スラーケンは刺さったままの聖樹の枝をぴっこぴこと揺らしまくって喜んでいるから、お腹を空かせていたのだろう。
よく見ると、瓶の底にジークが大事に保管していたマリエラグッズの溶け残りが溜まっているから、魔力の移ったマリエラグッズやポーションを餌にもらっていたのだろうが、魔力はどんどん抜けていくから、とても足りなかったろう。ジークのマリエラグッズはおそらくスラーケンに食べつくされてしまっただろうが、自業自得なのでジークとセットで放置する。
――あのね、マリエラ。核は魔力不足で小さいままだから、体はちょん切ればもとに戻るよ――
「ちょん切るって、そんなことして大丈夫なの、イルミナリア?」
――うん。魔力をちゃんと与えてあげたら、死んだりしないよ!――
マリエラの役に立って、“ご飯抜き”を回避したいイルミナリアがせっせと情報を提供する。
「そっかー、良かった」
一度は激怒したけれど、スラーケンは無事で、ちゃんと元にも戻るらしい。
そこまで聞いて、ちょっと安心したマリエラは、ようやく周囲の視線に気付いて現状を思い出した。
「師匠、ごめんなさい。こんな状況なのに……」
「いやー、マリエラもなかなかやるじゃないか! さすがあたしの弟子だね!」
――炎のが人の子は面白いと言うておったが、確かに愉快な時間であった――
謝るマリエラに向けられた二人の言葉は、まるで別れのあいさつで、マリエラは己の無力を思い知る。
(リューロパージャさんが、この地脈に縛られた湖の精霊である限り、助けられないんだ……)
その視界の端に映っているのは、スラーケンの枝の先でマリエラの怒りがそれたとホッとしているイルミナリアだ。
生えている場所を動けない樹木の精霊だというのに、人のペットを勝手に遠隔操作して、聖樹を離れてトラベルだ。
(しっかり叱っておかないと、また勝手にお出かけしかねないな。
師匠だって、元炎の精霊なのにいっつも勝手にどっかに行くし。
勝手だし、無責任だし、受肉したり憑依したり、存在自体いい加減だし。
精霊ってそういうものなのかな……って、あれ?)
マリエラは、スラーケンとイルミナリアを見、フレイジージャとリューロパージャを順に見る。
「リューロパージャさんて、ここの湖に棲んでいるけど、湖の精霊っていうか、水の精霊さんですよね?」
――そうだが?――
リューロパージャの回答に、マリエラは浮かんだ疑問を口にした。
ざっくりまとめ:ジークは坊やなものだから。




