33.記憶の保管庫
「脅かしたって無駄ですよ」
しかしマリエラは、いつもの調子で師匠に応じる。
「我らの領域も何も、ここは世界の記憶なんでしょう?」
その答えが正しいことを示すように、真っ暗だった部屋には次々と明かりが灯り、ジークたちの姿も、壁面を書物が埋め尽くす部屋の様子も、元通りに見えるようになった。
「マリエラ!? ここが?」
マリエラの答えに一番に反応したのは、書庫に入ったあたりから怪訝そうにあたりを見渡していたジークだった。彼の『精霊眼』には、周りがただの本の山には見えなかったのだろう。
「うん。たぶんね、ジーク。
どうやったかは分かりませんし、今の湖の精霊さんがどうなっているのかも分からないですけど、世界の記憶になら、正気の湖の精霊さんの記憶もあるはずですもんね。魔の森の地脈を統べる湖の精霊、リューロパージャの記憶が」
マリエラがその名を口にした瞬間、どうと風が吹き抜けた。
正しく鍵が差し出され、そして扉が開いたのだ。
書棚に収まりきらずにそこここに置かれた本がバラバラとめくれ、風の強さにページがちぎれて何枚も舞い飛んでいく。
まるで木々の間を吹き抜ける突風に、木の葉が舞飛び運ばれていくようだ。
予想もしない強い風に、マリエラたちが思わず目を閉じ、そして再び開いた時にはそこは今までいた書庫のような場所ではなくて、深い森の中だった。
マリエラたちのよく知る魔の森の木々は苦痛に身を捩るように幹や枝がねじれ、木々の葉はどこかくすんで薄暗いけれど、ここの緑は真っ直ぐ光を求めて伸びていて、深い緑に見る者の心が洗われていくようだ。
木々に囲まれるようにマリエラたちの前に広がっているのは、ひどく凪いだ神秘的な湖。
その湖面は先ほどの突風が嘘のように、さざ波さえもたってはいなくて、周囲の森を映し込んでまるで足の下にも森が広がっているようだ。
深い森に横たわる湖。
それは、今までいた水の世界よりも、魔の森よりもずっと正常な自然の光景だったけれど、マリエラたちの目にはそのどれよりも神秘的な光景に見えた。
「こここそ、私の探し求めた……」
「フランツ!」
ふらりと湖に向かって歩き出したフランツの腕にユーリケがしがみ付く。手を取られ正気に返ったフランツは「ユーリケ、すまん。大丈夫だ」とつぶやいたけれど、その目は湖から、正確にはその中心に立つ人影から離すことができなかった。
「リューロパージャ。久しぶりだね」
湖の精霊に話しかけるフレイジージャの声は、嬉しそうにも悲しそうにも聞こえる。
マリエラたちに背を向けたフレイジージャがどんな表情をしているのかは、リューロパージャ以外誰にも見ることはできないけれど、湖のほとりに佇んで手を伸ばすその姿にマリエラは、なんだかとても切ない気持ちになった。
――炎のよ、久しいと思うほどの時を私のために使ったか――
静かな声だ。岩間を糸のように流れ落ちる滝のような真っ直ぐな髪は湖面にまで広がり水と一体になっていて、男性とも女性ともつかない中性的な顔立ちを一層引き立てている。
全ての穢れを祓えたわけではなかったのか、最初に夢で見たような透き通るような色合いではなくて、夜のせせらぎのような黒とも紺とも思える深い色に染まった髪は、リューロパージャを清らかな水のような無味の物ではなく、どこか生き物然とした温度を与えているようにマリエラには思えた。
落ちていきそうな深い淵を思わせるリューロパージャの瞳がフレイジージャからマリエラに、そしてジーク、フランツ、エドガンたちを順番に映していく。
――人の子と共に、この身の穢れを祓ったか。お前は昔から人が好きよな――
「うん。あたしの弟子とその仲間だよ。識っているだろ? みんなとてもいい子だ」
久方ぶりの逢瀬。
静かな湖畔の、二人の世界――。
何人も邪魔することは許されないような、近づくだけで壊れてしまいそうな、繊細なガラス細工のような光景。
そんな、呼吸さえ忘れてしまいそうな空気を、全く読まずに破って割って入ってきたのは、やっぱり我らがエドガンだった。
「えぇと、そちらの美しい人は、フレイジージャさんのお姉さんかなにかでしょうか?」
さすがはエロガン。彼にとっての最重要事項は、リューロパージャの性別とフレイジージャとの関係らしい。
「空気読めよエドガン」
「ホント、サイテーだし」
「人生諦めが肝心ですぞ」
ジークが慌てて止めに入り、ユーリケが氷の視線を送り、グランドルにまで止めを刺される中、フレイジージャはエドガンの方を振り返る。
「精霊には本来性別なんてないよ」
にやりと笑うその表情は、マリエラのよく知る師匠の顔で、そのことにマリエラはなぜだかとても安堵した。この笑顔を浮かばせたのが、エドガンの空気を読まない一言ならば、エドガンの猿属性もなかなか役に立つものだ。
「逢瀬の邪魔は心苦しいが、できればご説明頂けまいか。ここが世界の記憶と言われても、非才の身には理解の追い付くものではありません」
場の空気が変わったことを幸いと言葉をつづけたのはフランツだ。その言葉のはしばしに湖の精霊、リューロパージャに対する敬意の念が込められていて、その手を握るユーリケは不安そうにフランツを見上げている。
「説明と言ってもねー。んー、マリエラ、説明してやんな」
恐らくフレイジージャにしてみれば、フランツたちが何が分からないのかピンと来ていないのだろう。彼女にとっては、ここも人の暮らす世界も等しく当たり前の世界で、彷徨い人の疑念に想像が及ばないらしい。
対応を丸投げされたマリエラは、あごに人差し指をあてて「んー」と少し考えた後、世界の記憶について説明を始めた。
「えぇと、世界の記憶というのは、世界のあらゆる情報が記録された場所? みたいなもので、鑑定スキルはここにアクセスしてるんだって言われてます」
「情報? では、我々のこの肉体は実在していないのか?」
しどろもどろとしたマリエラの説明にフランツの鋭い質問が飛び、途端にマリエラは「えぇと……」と口ごもる。
「あー、正確には、世界の記憶にあるリューロパージャの情報を核にして、お前たちの暮らす現実世界に固定化した空間な。だから、その体は本物だし、ここは時間の流れも違ってる」
師匠の追加説明は、さらに分かったような、深く考えるとサッパリ分からないようなものだけれど、「ほら、世界って隔たってるように見えても連続してるから」と言われてしまうと、傾げた首をそのまま前に倒して頷いてしまう。
「じゃあ、わしらの居たあの塔は? 見覚えのあるもんが転がってたぜ。大したモンじゃねぇけどな、人の記憶を形にすんのはいい趣味とはいえねぇぜ」
そう言って苦言を呈したのはドニーノだ。
マリエラたちと合流した時、ドニーノは記憶を覗かれるのを拒んでいたけれど、目覚めた塔を調べて何か気付いていたのかもしれない。
「ドニーノは見た目に寄らずシャイなんだね。ふふ、そんなに睨むもんじゃないよ。
来客なんて想定してなかったからさ、お前たちがここに居られるようにするには、記憶の塔に送るのが一番確実だったんだよ。
世界の記憶にはあらゆる情報があるけどね、だからってそれら全てが得られるわけじゃない。
異国の言葉で同時に何十人もが話す内容を理解なんてできないだろ? そんなのただの騒音と変わらない。騒音は慣れてしまえば気にならなくなるもんだ。
そんなうるさい音の中でも、名前を呼ばれたら聞き分けられる。
お前たちが知っている、馴染んだところから繋ぎ合わせて、お前たちがここに居られるようにしたんだよ」
どうやら人数分あったやたらと高い塔にも、マリエラたちとこの世界を繋ぐ役目があったらしい。
「ギャッフ、ガッフ」
言葉の分からないクーだけが、マイペースに湖の水を飲んでいて、それを見たフレイジージャが「お前の記憶は塔にするほどなかったからな、一番苦労したんだよ」と笑う。
「黒い魔物が記憶を盗っていったのは、世界の記憶の情報を蓄積する性質ゆえということですか……?」
「取り返した記憶は、あたしが夢を通じて返したけどね。
まだ戻ってない分も、ちゃんとあるから安心しな」
理解の早いジークの問いに、記憶は戻るとフレイジージャが答える。
「エドガンの記憶はそのままでいいし」
「ユーリケ、おま、オレのめくるめく愛のメモリーが失われるとか人類の損失だろ!」
「そのメモリー、フレイ様に見られていいのか?」
「はっ! ジークお前賢いな! ……うわ、めっちゃ迷うわー」
ユーリケのいつもの冷たい一言に、エドガンとジークが何やらひそひそ話しているが、フレイジージャはおろかマリエラにまでまるぎこえだ。フレイジージャとリューロパージャは顔を見合わせて微笑んでいるから、エドガン劇場を楽しんでくれているらしい。
「じゃあ、1階と2階の錬金術師の工房は、もしかして《ライブラリ》ですか?」
マリエラの質問に、フレイジージャが頷く。
「《ライブラリ》も世界の記憶の一部なんだ。
世界には色んな知識が溢れてて、知りたいことはそれなりに入手できるけれど、全く知らないことは知りようがない。
海の向こうに大陸があることを知らなければ、そこに異なる民族が住み、異なる言葉や文化を持ってることだって想像もつかない。
人間が知っていることなんて、世界のほんのちょびっとだけで、自分が何を知らないのかさえ分からないんだからね。
《ライブラリ》はそんな情報の海から錬金術関連の限られたものだけ、錬金術スキルを介して閲覧できるものなんだ」
師匠の説明にマリエラはなるほどと頷く。
「つまり、外郭の1,2階は《ライブラリ》、3階以上と塔は私たちの記憶が強く影響していたわけですね。
それで、1,2階に飢餓や疫病の記憶がいたのか……。
師匠、あれが倒れた後もせっせと燃やしてましたもんね。
あと、たくさん倒すと朝が来て世界に水が来たのって、穢れが減ってリューロパージャさんが正気に戻ったからなんじゃ?」
マリエラの解説に、師匠がぽかんと口を開けている。
「……マリエラが、賢くなってる……!!!」
絞り出すように吐き出された、師匠の失礼な台詞。さらに大変残念なことに、ユーリケたちだけでなくジークまでもがフレイジージャの発言に同意するようにうんうんと頷いている。
マリエラは「しつれいな」と口では言っているけれど、口の端が笑顔の形に上がっていて、かなり嬉しかったのがバレバレだ。
「ふふーん。私だってですね、師匠が迷宮を斃して迷宮都市を助けるためだけに、生きてきたわけじゃないことは気が付いてたんですー。
迷宮都市を助けてくれたのは、ついでだったのか、師匠の目的のための手段の一つだったのかは分からないですけど。
ずっとね、師匠が別れる前に言っていた言葉が気になっていたんですよ。“生きてる間にもう一度会える”ってやつ。そっか、《ライブラリ》に錬金術師。そういうことだったのか……」
マリエラの言葉に師匠は気まずそうに視線を逸らす。
「いいんですよ。本当に死ぬ直前のつもりだったんでしょう? だったら何の問題もないじゃないですか。でもね、水臭いですよ。話して欲しかったし、他の事だって、もっとたくさんお話したかった。何回も会ってくれてもいいじゃないですか」
「うん、マリエラ、ごめんな」
何のことか分からないといった表情のジークたちを見て、マリエラは笑う。
「ほら、迷宮の最深部で、師匠が私に錬金術の経験値をくれたでしょう? それと同じことをね、かつての師匠の弟子たちは、皆死ぬ前に師匠にしてきたんだよ。そして私も」
「どうしてそんなことを……」
その答えは一つしかないだろう。
「湖の精霊の穢れを祓うために――、ですよね? 師匠」
そう言ったマリエラの顔は、いつか自分の錬金術の経験を持ち去るフレイジージャを咎める様子は微塵もなくて、そのありのままを受け入れる精霊の微笑みのようだった。
ざっくりまとめ:世界の記憶の水は飲める。




