32.魔の森の由来
「昔、人間が国という単位を作るよりもずっと昔、ここは魔の森なんかじゃなくて、普通の豊かな森だったんだ」
見上げるほどに巨大な神殿の扉は、フレイジージャが手をかざしただけで音もなく静かに開いた。
入ってすぐの場所は、幅5メートルはあろうかという広い廊下が左右に続いていて、正面、つまり入り口から入って廊下の向かい側には室内であるのに水路と草花で彩られた庭園のような場所が広がっている。
この廊下は庭園の周りを囲むように配置されていて、途中から壁で仕切られた部屋になっているようだ。庭園を隔てた向こうには神殿の入り口と変わらないほどの立派な扉が見えるから、あそこが神殿の中心部分なのだろう。
廊下の天井は普通の家より高いけれど、ホールや集会場の天井くらいで、上の階がありそうだ。高い天井を支えている幾本もの柱はどれも石造りで、赤っぽい部分、黒っぽい部分と上下で色合いが変わっている。そのグラデーションはまるで地層のようで、魔の森の足元深くに横たわる大地の記憶のようだなとマリエラは思った。
けれど庭園は吹き抜けになっていて、天井部分は空が描かれているのか見上げると外に出たような気分になる。廊下と庭園とは腰丈くらいの壁で隔たれていて、乗り越えて庭園を横切れば最短で中心部の扉に辿り着けそうだけれど、まるで絵画のような静かな風景に踏み入るどころか手を伸ばすこともはばかられる。
本当に、なんて静かな場所だろう。
この水の世界自体、騒がしい場所ではないのだけれど、それでも魔物たちの気配が感じられた。この庭園は花咲き乱れる美しい世界だけれど、葉の一枚、花びらの一片さえそよぐこともなく、小鳥のさえずりも蝶の羽ばたきさえ感じることはできない。
土の匂いも、緑の香りも、水の流れる音さえも聞こえてこない庭園は、まるで精巧な模型、立体の図鑑を見ているようだ。
庭園を見つめるマリエラたちに、フレイジージャは「こっちだよ」と声を掛け、すたすたと廊下を進んでいった。
「お前たちが辿り着いた沼地はね、あの頃はとても澄んだ美しい湖だったんだよ。それこそこの庭園なんて及びもつかない荘厳な美しさだった。遠くから見ると湖面は鏡のように深い森を映したし、近くで見れば底まで見通せるほど澄んでいた。湖に光の差すさまなんて、神々しくてどんな炎もその美しさに己を恥じて、身を潜めたほどだった」
ジークやユーリケたちは、フレイジージャの話す幻想的な美しい光景など、あの陰鬱な沼地からは想像もつかないという表情をしていたけれど、マリエラはその美しい姿を、師匠の夢の中で見て知っていた。
「そこにはこの地脈、つまりは魔の森の地脈を統べる湖の精霊がいた。
エンダルジアが迷宮都市付近の地脈の主になるよりずっと昔の話さ。
魔の森も迷宮都市のあたりも同じ地脈なのは知ってるだろ。
なのに、迷宮都市では精霊の言葉が分かって魔の森では分からないのは、おかしいと思わないかい? 地脈が同じでも場所によって管理者が異なるからなんだ。
まぁ、よくある話なんだけどね。
広い範囲を管理するのは精霊にだって大変だし、そもそも、精霊はいい加減だ。
あの頃はもう、この湖の精霊は魔物の側の存在になり果ててしまっていたから、人間の居場所を与えたいというエンダルジアがあのあたりの管理を引き受けたってわけさ」
フレイジージャの話は帝都の学者が聞けば長年の論争に終止符が打たれるほどの重大な情報なのだけれど、ここに居合わせた者たちにとっては、ピンとこない様子で、観光ツアーの御一行様のように、あたりの様子を珍しそうに見回しながらぞろぞろと後をついて歩いている。
「そういえば、200年前、魔の森は魔物の領域で、エンダルジア王国は人の領域で、違う領域のはずなのにどっちでもポーションが作れるのが不思議だなって思ってたんですよね……」
錬金術師であるマリエラでさえこの調子だ。
「あー、マリエラ、そんなこと言ってたっけな。“エンダルジア王国の近くだから”って説明したら、なんか納得してたけど。素直な子で助かったよ!」
あははと笑う師匠に、褒められているのかアホの子だと笑われているのか少し複雑な気分になったマリエラは、話をもとに戻そうと「それで?」と続きを促した。
「ここは、完全に独立した湖で、どの川にもつながっていない。実際は、地下水脈が湧き出してる場所なんだけどね。
ほら、採砂場のある辺りから川が地下に潜ってるだろ? ここはそのずっと下流側だ。その水脈が岩にぶつかって一部湧き出してる場所なんだ。
砂で濾された水だからとても澄んでいるし、地下水脈は豊かで何より精霊が棲んでいる。
だから森に恵みを与えるこの湖は水が枯れることもなかった。
でも、そんなこととは思いもよらない人間たちからすれば、ここは、とても神秘的な、すべてを清めてくれる場所に見えただろうね」
マリエラは最初の夢を思い出した。まだ未熟な人間たちが飢餓の穢れを祓いに来た夢だ。
「だから、ここに穢れを祓いにきたんですね?」
マリエラの問いかけに師匠は静かに頷いた。
「飢饉が訪れるたび、病魔に襲われるたび、様々な厄災に苛まれるたびに、人間たちは森を越えてこの湖へ穢れを清めにやってきて、そうして生き延びてきた」
廊下の突き当りにある扉に手を掛けたフレイジージャは、そういうと、ちらと視線を庭園へと向けた。つられて庭園を振り返ったマリエラは、庭園の様子が先ほどとは全く違っていることに気が付いた。
季節どころの話ではない。美しい庭園だったその場所は、先ほどの話から連想するような、深く、薄暗く、けれど荘厳な雰囲気の森へと変貌していたのだから。
「さあ、中へ」
フレイジージャにいざなわれるまま、くぐった扉の先は、左右の壁が天井までびっしりと本で埋め尽くされた巨大な書庫だった。
広い廊下の真ん中にも所狭しと大小さまざまな本棚が並んでいて、床にもたくさんの本が山積みになっている。
「これは壮観ですな!」
文学に多少の嗜みがありそうなグランドルは口髭を引っ張りながら豊かな蔵書に目を見張り、エロ本以外の本など、広げたら3秒で寝るであろうエドガンは立ち込める紙とインクの匂いに、本を手にすらしていないのに眠そうに大あくびをしている。
ジークは両目で室内を見渡し、少し怪訝そうな表情をマリエラにむけていて、マリエラはなにか気付いているのか、軽く頷き返していた。
「帝都の人間はもう誰もこの湖の事を覚えちゃいないけどね、何度も何度も穢れを祓いに来たせいで、道筋が定まってしまったんだ。
穢れの流れる道がね。
だから、帝都あたりで生じた穢れは、最早何もしなくても勝手にここへ流れて来る」
フレイジージャはいくつもの部屋を通り抜けながら話を続ける。扉を抜け、階段を上がり、あるいは下りて。どの部屋も大量の本で埋め尽くされた書庫で、たくさんの本があるということは認識できるのに、どれか一冊を認識しようとすると文字がぼやけてしまったり、知らない文字に見えたりして、ここにどんな本が収められているのか、マリエラたちは知ることができない。
「ここは、どこよりも美しい湖に違いなかったけれど、穢れを癒やし清める奇跡の湖なんかじゃないのに。
どんどん、どんどん、流れて溜まって、穢れの吹き溜まりになってしまった。
この森も生き物も、湖を抱くこの地ごと穢れを負って、魔の森になってしまった」
「では、ここの湖の精霊殿は!?」
魔の森の成り立ちに驚く一同の沈黙を破ったのは、フランツだった。この神殿に入ってから誰よりも落ち着かない様子で、ゆっくりと話しながら歩くフレイジージャに焦れた様子で問いかける。
「問題ないよ。そう、問題はなかったんだよ。
精霊も、魔物も。穢れがあろうとなかろうと。
知っているだろう? 雨が降れば大地は潤い、干上がれば命は尽きる。
精霊はただあるがままを受け入れる。
穢れがあればそれを宿してゆっくりと地脈に還していくだけだ。
穢れが溜まり過ぎれば魔物が大量発生し、人里を襲うけれど、それは疫病が流行ったり飢餓が訪れたりするのと、そう変わるものではないんだ。
穢れの持つ思念に呑み込まれて、正気を失ってしまうことになってもね。森の魔物も精霊も、老いた人が忘我の末に生を終えるのと変わらないと、ただただ受け入れるだけなんだよ。
だから、湖の精霊にしてみれば、何の問題もなかったんだよ」
フレイジージャは立ち止まり、フランツの方をゆっくりと振り返った。
「フランツ、お前の心配も憤りも、それは人間の価値観だ。
わかるだろう? 精霊とは本来そういうものなのだから。
でもね、いやだと思ったやつがいたんだ。
“清廉で清浄で穢れなき姿を取り戻したい、正気の貴方と共に在りたい”
そんなことを、願った者がね」
フレイジージャは両手を広げる。
その姿は炎に照らし出されたように赤く輝いていて、マリエラたちはいつの間にか辺りがみとおせないほどに薄暗くなっていることに気が付いた。
近くの本は照らし出されて微かに浮かび上がっているけれど、今いる場所はどれほどの広さがあるのか。先ほどまで通り抜けて来たはずなのに、果てのない広大な広間にいるような気持ちになる。
「さあ、マリエラ。魔の森のいと深き場所へ辿り着きし我が愛弟子よ。
私が導けるのはここまでだ。
ここが中心。ここが真相。
ここに真理はあるけれど、知識とは己が何を知らぬかさえ分からぬ者には、暗闇で見る本に等しく、何の導も与えはしない。
さあ、答えを示せ。
この場所がどこなのか、この世界が何なのか。
お前が得てきた全てをもって、出口へ続く鍵を差し出せ」
風もないのに広がる髪が、燃える炎を思わせる。
辺りはすでに真っ暗で、フレイジージャ以外、ジークの姿さえマリエラには見ることができない。
爛々と輝く瞳が、その細い瞳孔が、フレイジージャを得体のしれぬ存在のように思わせた。
ざっくりまとめ:答え合わせの時間。師匠「ここ、どーこだ?」




