08.夢~ユーリケ~
どこまでも広がる空と、どこまでも広がる大地。
まばらに生える低木と、はるか遠くに見える山々。
無限に続くとも思える、広大な空と大地。
群れからはぐれた獣だろうか、一匹の草食獣が何匹もの肉食獣に貪り食われ、おこぼれを求めて痩せた鳥が空を舞う。
何ものにも縛られることのないその場所は、きっと過酷で残酷で、同時にとても自由に違いない。
幼い日に見たそんな場所。
目蓋に焼き付いたあの場所へ辿り着くため、逃げ出してきたはずだったのに。
「狭い空だし?」
「ギャウ」
建物がひしめく帝都のスラムから見上げる空はとても狭くて、この場所では空さえ満足に与えられないのかとユーリケは悲しくなる。
ぐぅ。
「腹減った……。ネズミ、捕まえに行くし?」
「ギュウ……」
初めて調教したラプトルと共に帝都に辿り着く前は、ラプトルさえいればあの場所に辿り着けると信じていたのだ。あの場所が、どこにあるのかさえ知らないというのに。
場所の情報を得るために帝都へやって来たユーリケだったが、乏しい路銀はとうに底をついていた。ラプトルをようやく調教できるかどうかの幼いユーリケに戦う力は乏しく、ラプトルと力を合わせてもまともな仕事は見つからない。
ラプトルと調教師の子供という組み合わせに、「ラプトルを売れ」と強要する者はまだいい方で、ラプトルを無理やり取り上げようとしたり、ユーリケを騙そうとするような大人ばかりが目についた。
ここが帝都ではなくて、どこか森に近い村だったなら、森の動物を捕まえて腹を満たすことができただろう。帝都に辿り着くまでユーリケとラプトルはそうして腹を満たしてきたのだから。
けれど、帝都は人間ばかりがたくさんいて、1日がかりで近くの森まで出かけても碌な獲物がいはしない。狩りやすい生き物はみんな狩りつくされてしまったか、遠くの森に逃げてしまったのだ。
帝都で狩れる獲物と言えば、スラムを這いまわる不衛生なネズミばかりだ。
そんなものでは、ユーリケはともかく体の大きいラプトルの腹はちっとも満たされはしなかった。
「ギュウ、ギュウ」
ラプトルがユーリケに顔を摺り寄せる。
“おなかがすいた、森にいこう、ここはイヤな人間ばっかりだ”
そんな気持ちが伝わってきて、ユーリケはぎゅっとラプトルを抱きしめる。
「そうだね、ここにはボクたちの求める場所じゃないんだし?」
けれど、どこへ行けばいいのだろうか。
今はまだ温かく、森に行けば今日明日の食糧には困らないだろう。
けれど、森には雨をしのぐ軒はなく、魔物から身を護る壁もない。
それに冬が来たら?
空腹と、先の見えない不安感。
幼いユーリケには、ラプトルに寄り添いスラムの片隅で身を丸めることしかできなかった。
*****
いつの間に眠ってしまったのだろう。
「ギャウギャウ」
と、ユーリケを揺り起こすラプトルの鳴き声に目を覚ましてみれば、そこには、嬉しそうな表情のラプトルと、丸々と太った鶏の死骸が転がっていた。
この肉付きの良さは、どう見ても野生の鶏ではないだろう。
食用に飼育された鶏に違いない。
「どうしたし? これ……」
調教のスキルでラプトルの思考を探ってみれば、どうやら夜明け前に帝都のはずれの農村を襲い、盗んできたようだった。
空腹に任せて何羽も食べてきたのだろう、ラプトルの口元は鶏の血にぬれていて、満腹感が伝わって来る。
「ギャウ!」
“おいしいよ! 食べて! 捕まえてきたんだ”
それが悪いことだと分からないこの獣は、空腹の主のために獲物を捕まえてきたのだと、褒めて欲しいと言わんばかりの無垢な様子でユーリケを見つめる。
「なんて……、なんてことを……。ボクが未熟なせいだ……」
幼いとはいえ、善悪の分からぬユーリケではない。
ラプトルのような獰猛な獣が主の命なく狩りをおこなう。それがどれほど危険なことか理解していた。いくらユーリケが眠っていても、勝手に他人の家畜を襲うなど、どれほど空腹だったとしても、たとえユーリケを思っての事でも許されることではないのだ。
充分調教された獣ならば、主の許しなく攻撃したり餌を食べたりなどしない。幼く孤独なユーリケの調教は、心を許すあまりに厳しさに欠けていたのかもしれない。
ラプトルの記憶を見る限り、幸い人間は襲っていないらしい。騒ぎに駆け付けた農夫に驚いて、この鶏を咥えて逃げてきたようだ。
(人の肉の味を覚えていないなら、殺されはしないと思うけど……)
ラプトルが襲った鶏を弁償するお金など、ユーリケが持っていよう筈はない。
捕まれば、ラプトルを手放すしか方法はなくなる。
「いたぞ! こっちだ!」
逃げようか、そんなことを考えていた丁度その時、犬の吠える声と共に冒険者らしき男たちの叫び声がユーリケの耳に届いた。
「ラプトル! 逃げるし!」
とっさにラプトルの背に乗りその場を離れようとするユーリケ。
「させるかよ! 鶏ドロボウ」
男の声と共に、ユーリケに石が投げつけられる。
「ぎゃっ」
男がどれほどの強さの冒険者かは分からない。けれど大人の男が握りこぶしほどの石を投げつけたのだ。まだ成長しきっていないユーリケの左肩は、投石を受けてゴキリと嫌な音を立て、ラプトルの背から落下する。
「ストライーク! もういっちょ!」
「ギャウ!」
主を攻撃されて怒ったラプトルが、冒険者へと駆け寄り牙をむく。この冒険者はあまり強くはなかったのだろう。ラプトルの速度と噛みつこうと開かれた口に対応できず、「うわぁ」と叫んで怯むばかりだ。
「だ、だめ……。《やめろ》、ラプトル!」
ここで人間を襲っては、このラプトルは戻れなくなる。主の命令なく人間を襲い、その血肉の味を覚え、己が人間より強いことを知ってしまえば再調教は難しい。いつかは捕まり殺処分されてしまうだろう。
必死でラプトルを制止したユーリケの思いなど知る由もなく、急に動きを止めたラプトルに冒険者は剣の鞘で殴り掛かり、駆け付けた仲間が逃れられないように網を投げる。
「コイツっ、驚かせやがって、この! オラ、どうだ! オラ、もういっぺん噛みついて見せろや!」
網をかけられ、身動きの取れなくなったラプトルを、冒険者が剣の鞘で打ちのめす。
「ギャ、ギャ、ギャッ」
「やめて! もう、動けないし! やめて、やめて!」
折れた左肩を抑えながら取りすがるユーリケの胸元を、冒険者は掴んで持ち上げる。
「なんだ、くそガキ。お前が飼い主か? この盗人が!」
「ちゃんと謝るし! ちゃんと弁償するし! だから、だから……」
「おい、そいつ、調教師のガキじゃねぇか? 売っぱらえばいい金になんぜ?」
「おぉ? 薄汚れてて分からなかったが、確かに。鶏泥棒の依頼賃よりよっぽど儲かるな」
「おれ、そういうのを買い取ってくれる奴隷商、知ってんぜ」
逃げなければ。
この冒険者たちは、ユーリケの話を聞く気はないし、このままではラプトルもユーリケもバラバラに売られてしまう。掴まれた手を振りほどこうと必死で暴れるユーリケに、冒険者の拳が振り下ろされる。
「暴れんじゃねぇよ」
ガツ、ゴツと容赦なく打ち付けられる男の拳に、着古したユーリケの服は破れそのまま地面に叩きつけられる。男の手から逃れることは叶ったけれど、ひどくぶたれたせいで、ユーリケは起き上がることもままならない。
「おい、こいつ、女じゃねぇ?」
「ん? おぉ、こいつぁ、儲けもんだ。まだガキだが女なら高く売れそうだ!」
ゲラゲラと、男たちの下卑た笑い声が響く。
(汚い、汚い、こいつらは汚い。逃げなきゃ、何としてでも逃げなくちゃ……)
ユーリケの霞む視線の先には網をかけられ倒れたラプトル。
「ギャウ……」
こちらも打ち据えられ、怪我をした状態でそれでもユーリケの方を心配そうに見つめている。
ゆっくりと、ラプトルの方へ手を伸ばす。
何度もぶたれ、地面にたたきつけられたユーリケの右手はどこで切ったのか血で濡れている。
延ばされる指先に、意図を悟ったラプトルが体をねじるようにして額をユーリケに突き出す。
冒険者たちはユーリケとラプトルを売る算段で忙しいのだろう。ユーリケの手がラプトルの額になにやら血文字を書きつけていることに気が付かない。
(できた……)
あとは、《命令》するだけだ。
ユーリケは調教師としてはまだ未熟だけれど、辺境の部族にのみ受け継がれるこの能力は、幼い頃に見たであろうあの景色と共に間違いなくユーリケに受け継がれている。
調教師の血に狂わされたラプトルは、こんな冒険者たちなどたちどころに喰い殺すに違いない。あとは、ユーリケが《命令》すればいい。
《狂え》と、この人間を喰い殺せと。
それを命じてしまったら、ユーリケも、このラプトルも、きっと戻れなくなるのだけれど。
「わ……が、我が仔らよ――……」
ユーリケの視界が霞む。
人を殺したくはない。ラプトルに、人を喰らわせたくはないのだ。
ただ、あの場所に――、唯一記憶に残るあの地平線に辿り着きたかっただけなのだ。
なのに、どうして。
「そこまでにしておいた方がいい」
ユーリケが《狂え》と命令する前に、スラムの路地から一人の人影が現れた。
「何だ、てめぇ」
「やろうってのか」
子供のユーリケと異なり相手は大人の男だ。冒険者たちは剣を抜き、現れた男を威嚇する。
「やめておいた方がいい。衛兵を呼んでおいたから、もう直ぐ到着するだろう。こんな子供を不当に奴隷にしようなど、捕まれば君たちが奴隷に堕ちるぞ」
武器も持っているようには見えないのに、剣を抜く冒険者たちに臆すことなく近づいて来る男。何より顔を面で隠し、フードを目深にかぶった男の様子は、ただの市民とは思えない。
その隙の無い様子に冒険者たちは目配せをしあう。どうせブラフだろう。こんなスラムに衛兵が来るはずがない。
けれど、遠くで「衛兵さーん、こっち、こっち」と叫ぶ別の声が聞こえるではないか。
「おい、行くぞ」
「ちっ、命拾いしたな!」
衛兵が嘘だとしても、他に仲間がいるようだ。騒ぎを大きくされるのは得策ではない。冒険者たちは剣を収めると、そそくさと撤退していった。
「やれやれ、命拾いしたのは彼らの方だというのにね。立てるかい? あぁ、肩をやられているのか。《回復》」
仮面の男はユーリケを助け起こすと、折れた左肩に治癒魔法を使う。
衛兵を呼ぶふりをしていたのはスラムの子供だった様で、仮面の男に駄賃を貰うとすぐに路地へと消えていった。
「……なんで、助けたし?」
訝し気に尋ねるユーリケ。助けてくれ、治癒魔法まで使ってくれた恩人で、なんとなく悪い奴ではない気がするのだが、ユーリケが何をしようとしていたかこの仮面の男は気がついていた。
「ここでラプトルを狂化されては困るからな。君はまだ未熟なようだし。スラムで騒ぎを起こされると、他の住人が迷惑だ。ほら、君のラプトル、随分威嚇してくるじゃないか。さっさと宥めてくれないか」
仮面の男に言われてみれば、ユーリケの怒気にあてられたラプトルは随分と興奮し、助けてくれたはずの男にまで見境なく襲い掛かろうと、フッフッと鼻息荒く牙をむき出しにしている。
「《鎮まれ》、鎮まれ、もう大丈夫。ありがとう、ボクを助けようとしてくれて。ありがとう、もう大丈夫だし……」
「ギュウ……」
ラプトルを宥め、網を外してたくさん頭を撫でてやるユーリケ。ユーリケもラプトルも殴られ打撲を負ってはいたが、仮面の男の簡単な治癒魔法ですぐに回復することができた。
あの冒険者たちは、ラプトルを捕まえて、売り払う事が目的だったから、ラプトルの価値が下がるような傷を負わせてはいないようだ。
「さて、そのラプトルが鶏小屋を襲ったやつで間違いないか? 君たちをこのまま逃せば、また似たようなことがおこるだろう。ここは大人しく弁償するのが得策だと思うがね」
仮面の男の言うことはもっともだ。けれどユーリケには支払えるものは己かラプトルしかいない。項垂れるしかないユーリケに仮面の男はこう続けた。
「なに、そのラプトルが働けば、すぐに弁済できるだろう。調教が行き届いていないようだから、調教師も一緒に働くことになるだろうが。そのつもりがあるのなら、交渉くらいはしてやろう。同じ少数民族のよしみでね」
仮面の男の計らいにより、ユーリケとラプトルは1月ほど、その農家で働くことになった。帝都のはずれにある畜産農家ではあったが、食肉に加工された家畜の内臓などがもらえたし、家畜を狙って稀に弱い魔物が襲ってきたから、倒した魔物を餌にしてラプトルは飢えることもなくなった。
弁済が終わるころにはラプトルの調教は完了して、もう、ユーリケがいなくても家畜を襲ったりはせず、農家の言うことにも従うようになっていた。
「ラプトルのこと、よろしくお願いします?」
「あぁ、大切に預からせてもらうよ」
「ギャウ」
帝都ではラプトルと共に暮らせない。今の自分では十分な餌さえ与えてやれない。
そう理解したユーリケは、是非にと請われたこともあり、その畜産農家にラプトルを預けて一人帝都に戻ることにした。
「やぁ、お勤めご苦労だったね、ユーリケ。“勤めを果たした後、行くところが無ければ、くればいい”とは言ったが、本当に来るとは……」
「よろしくお願いするし? フランツ」
スラムに戻ったユーリケは、仮面の男、フランツの下に身を寄せる。
ユーリケは調教師。獣と共に暮らす分、本能は発達している方だと思う。
(こいつは悪い奴じゃない)
なんとなくそんな気がしただけだけれど、二人の暮らしはそれなりに上手くいったから、ユーリケの勘はそれなりに当たっていたようだ。
ざっくりまとめ:ユーリケ、ツンケン方言女子だった!
「06 北東の塔」の分岐の結果を活動報告に掲載しています。次回、分岐(2択)あります!




