最下層
微グロ注意
そこは、これまでの暗闇がただの悪夢であったかのような、光あふれる場所だった。
暗く長い夜を瞬時に塗り替える朝の光のような、身の内が癒され清められていくような神々しさと、暗闇に冷え切った体を芯から温めてくれる希望に満ちたぬくもりがその光にはあった。
迷宮の中だというのにその階層に果てはなく、自分が今床だと認識している場所以外は地面さえもあやふやだ。
まるで地脈に来たみたいだと、マリエラはそのように思った。
迷宮が、地下へ地下へと掘り進んでいったのは、ここへたどり着くためだったのだと。
エンダルジア王国の、防衛都市の人々を平らげ、共に攻め込んだ魔物同士が喰らい合い、最後に残った一匹が、ここを目指して王国の大地を喰らい進んだ。
地脈の力を吸い上げて、地下へ、地下へと魔物を生み出しながら。
その経路は迷宮となって、人の進行を阻んできた。
今ようやくその理由がわかった。時間を稼ぐためだったのだろう。
迷宮の主がここへ至るための。
途中、右脚を、左脚を棄て、腹を置き去りにし、両手さえ失って、ようやくここへ至ったのだろう。
今ここにいる迷宮の主は。
ここは、迷宮60階層は、地脈に届く深い場所。
50階層を超える成長した迷宮の魔力が、物理的な距離や次元を超越して、地脈に接続できる場所なのだろう。
迷宮の最深部に辿り着いたレオンハルトらの前に、200年の長きに渡る宿敵たる迷宮の主と、この地脈を統べる精霊・エンダルジアの姿があった。
迷宮の主とは、迷宮を討伐してきた者ならば相対するだけで、それとわかるものだと、そう言い伝えられてきた。
確かにその通りだと、レオンハルトは迷宮の主を見てそう思った。
最深部へとたどり着こうと進軍を続けるレオンハルトらを、拒絶し続けた迷宮の意思を、眼前の者から感じたからだ。
けれど、このような姿を想像しただろうか。
手もなく脚もなく、脊椎さえも覗かせた頭部と胴体だけの無残な姿で、迷宮の主はエンダルジアに喰らい付いていた。
温かな光を放つエンダルジアは、わずかに人の姿が認識できる程度の輪郭のあやふやな存在で、物理的な深さとは違う、人の測り知れない深層に存在する膨大な地脈の力の一部なのだと、マリエラは己のラインを通じて理解した。マリエラたちが存在する物質の世界と、見えず触れられずともそこに確かに存在する、精霊や魔力や命たち。世界と地脈の関係は、そういった一見異質で隔絶したようにも思える物質とエネルギーが、同時に変換し合いながらも存在している世界のありようそのものだ。
地脈と一体化し、管理者として存在するエンダルジアは、地脈と世界を巡るエネルギー、《命の雫》の流れを調整し、管理する存在なのだろう。彼女はその力を使って、愛した人間を彼らの住まう王国ごと守護し続けてきたのだろう。エンダルジアの瞳である、精霊眼を媒介にして。
けれど、今のエンダルジアは、今にも消えてしまいそうなほどに存在自体が弱々しい。肉眼では迷宮の主に“喰らい付かれて”いるように見えるけれど、ラインを通じてマリエラが感じ、ジークの精霊眼に映る今の状態は、迷宮の主が口を開ければ解放されるというものではない。
地脈の管理者としての力ごと、存在そのものが迷宮の主に取り込まれかけているのだ。
自らの存在ごと取り込まれ、消えかけていようとも、人を愛し共に在ることを選んだエンダルジアが、人を滅ぼしこの地を魔物の領地にしようと願う迷宮の主を受け入れることは無いのだろう。
エンダルジアに喰らい付き、地脈にまで侵食し、一体化しつつある迷宮の主の体は、迷宮の主を否定し拒絶するエンダルジアの意識によって、焼かれ、破壊されていた。
ただでさえ四肢をなくした痛々しい体であるというのに、迷宮の主の残された体躯は、血が沸騰し、肌は焼け崩れて炭化し、あるいは沸騰した体液にぼこぼこと膨れ上がっていた。体内で圧力が急激に変動しているのだろう、目玉は飛び出たり破裂して、喰らい付く口の端からはブクブクと血の泡が吹き上がる。
その激しい変貌ぶりに、この迷宮の主が元はどのような魔物であったのか、その面影さえ窺うことは叶わない。
けれど迷宮の主には、一体化した地脈から大いなる力も流れ込んでいる。自らのものとなった地脈の力で迷宮の主の体はどれほど酷い状態になろうともたちどころに回復し、そして相克のエネルギーによってすぐさま破壊されている。
延々と繰り返される破壊と再生。
その責め苦の果てに、受け入れられぬ悲しみの末に、迷宮の主は何を望んでいるのだろうか。
――とりもどさなきゃ――。
マリエラは、地脈とつながる太いラインを通じて、迷宮の主の想いを聞いた気がした。
(あのお話と同じだ……。エミリーちゃんたちが読んでいた『エンダルジアの物語』と……)
マリエラは、かつてエミリーたちが『木漏れ日』で読んでいた、『エンダルジアの物語』を思い出していた。
精霊エンダルジアや動物たちと静かに暮らしていたのに、にんげんの狩人がやってきたせいで森を追われた哀れな魔物。
自分たちの居場所を取り戻そうと、狩人の村を襲った魔物たちは、狩人を失ったエンダルジアの悲しみと子供を守ろうとする強い意志によって、魔の森へと追い払われ、二度とこの地に戻れなくなった。
魔の森は人間の領土となったエンダルジア王国よりずっとずっと広大で、魔物たちが暮らす場所は十分にある。こんな小さな土地にこだわらなくても十分生きていけるのに。
あの物語を聞いた時、マリエラはそんな風に思っていた。
けれど、迷宮の主の姿を見た今は。
(魔物たちが取り戻したかったのは、この土地じゃなくて、エンダルジアと過ごせる場所だったんじゃ……)
魔物を魔物たらしめる物、それはその身に宿る魔石だという。
この世の穢れと魔力が凝り固まって魔石になるとも、穢れた魔力が凝り固まって魔物が生じ、そこに魔石が生ずるのだともいわれているが、穢れとは人から生じるものだとされる。
人間の悪意が憎悪が嫉妬が恐怖が憤怒が欲望が。
餓え乾き満たされることの無い『穢れ』が凝り固まって生じた魔物は、人が憎くて仕方が無い。
人間さえいなければ、もっと穏やかな生き物のままエンダルジアや森の動物たちと一緒に暮らしていられたのに。
魔物は人と相容れない。
魔物と人が出会ったならば、どちらかが滅びるか隔絶するしか道はない。
エンダルジアは狩人を愛し、人間を選んでしまったのだ。
だからもう、魔物と共にはいられない。
けれど、魔物を滅ぼせなかった。かつての仲間を殺せなかった。
だから、魔物を隔絶した。狩人たちの村から。エンダルジア王国から。
それは、エンダルジアの思いやりでさえあったのだろう。
けれど、哀れな魔物にはそんな想いは伝わらない。捨てられたと、奪われたとそのように感じたのかもしれない。
――とりもどさなきゃ――。
狩人の村から締め出されても、魔の森でずっと機会を窺っていたのだろう。ずっと、ずっと、楽しかったであろう微かな思い出だけを種族を超えて引継ぎ共有し続けて。
――とりもどさなきゃ、エンダルジアをとりもどさなきゃ――。
今なおも、狩人の村を襲ったときと同じ感情だけでエンダルジアに喰らい付き、地脈もろとも同化しようとする哀れな魔物。
想像だにしなかった迷宮の主のありさまに、マリエラたちが言葉を失って立ち尽くしていた時、ふっと微睡から目覚めるようにエンダルジアの目が開いた。ジークの精霊眼と同じ、緑色の瞳は左目の一つだけしか開かない。けれどその瞳が開いただけで、冬の枯れ木に若葉が芽吹いたような優しい彩りに満ち溢れるように感じられた。
――よく、来てくれました。私の愛しい子供たち。
悠久の時間を生きる精霊エンダルジアにとっては、精霊眼を持つジークも、ラインを通し繋がるマリエラも、レオンハルトや迷宮討伐軍の兵士一人一人も、この地に住まう人間は等しく我が子なのだろう。その慈愛に満ちた微笑みは、全員に分け隔てなく降り注がれていた。
子供たちの成長を喜ぶ母親のような笑みを全員に向けたエンダルジアは、ひどく悲し気に表情を曇らせると、自らに喰らい付く迷宮の主に視線を向けた。
――この仔には、もはや……、いいえ、200年前のあの日から、思考と呼べるものは残されていないのです。
魔の森の氾濫の狂乱の日に、人間と仲間の魔物を喰らい個を超える力を手に入れた代償か、それとも200年もの長きに渡り、再生と破壊を繰り返してきた故なのか。迷宮の主には、「エンダルジアを取り戻したい」、という感情の残滓が残っているだけで、この先に、エンダルジアと暮らせる日々が来はしないことを、理解できてはいないのだろう。
手も足も胴もなく、エンダルジアに喰らい付くだけのこの魔物の生れの果て、迷宮の主には、エンダルジアを食い殺し、地脈の主に成り替わる以外の未来は残されていない。もし、地脈の主に成り替われたとて、ここまで擦り減り意識の欠片も残らぬものに、果たして耐えられるものなのだろうか。
――可哀そうなこの仔を、どうか解放してあげて。
エンダルジアは彼女の愛した狩人の血を最も色濃く引き継ぐジークムントと、ここまで彼らを率いて戦ってきたレオンハルトを順に見つめて、彼女の願いを口にした。その願いに答えるように、レオンハルトは力強く頷くと、宿敵たる迷宮の主をじっと見据えた。
「哀れな……。我らが宿願たる敵はこのようなものだったのか……」
恐らくは戦う力さえ持たない、エンダルジアを食い殺す以外の手段を持たない迷宮の主を前に、レオンハルトがぽつりと呟く。
こんな姿になってまで、エンダルジアを取り戻そうとした哀れな魔物に感じているのは、憐憫にも似た感情だろうか。
「ジークムントよ、奴をこの宿業から解き放ち、精霊エンダルジアを救ってくれ」
「はい」
レオンハルトの呼びかけに、ジークムントが応える。
このために、自分は精霊眼を取り戻し、この地にやってきたのだろう。
そんな確信が、この場に居合わせたジークムントにはあった。
「ジーク、これ」
「ありがとう、マリエラ」
マリエラは、木箱に入れられた一本の矢をジークに渡す。
師匠から「一番最後に使え」と預かってきた物でラプトルに括り付けていたものだ。
きっと、今使うべきものだろう。
金属の矢尻すらない木製の矢は、『木漏れ日』の聖樹から削りだしたものだ。
精霊エンダルジアは森の精霊の女王。
恐らくは聖樹の精霊たちの女王なのだろう。
だからこの矢はエンダルジアを傷つけない。
精霊眼を持つジークが使えば、同化しつつある迷宮の主だけを倒すことが可能だろう。
ギリリとジークが弓を引き絞る。
ジークの精霊眼に導かれ精霊たちが集まって来る。
精霊の女王・エンダルジアを助けるために。
(精霊エンダルジアよ、貴女が俺を導いてくれたのか……)
ジークは心の中でエンダルジアに問いかける。ジークがこの迷宮都市に移送されたまさにあの日にマリエラが目覚めたのは、彼女の導きによるものではないのかと。
マリエラに出会えたことだけではない。奴隷として傴僂の商人の息子に連れられ魔の森にやってきたあの日、森の精霊に導かれ命を救われたことも、もしかしたらワイバーンに精霊眼を潰されたあの瞬間に、偶然矢がワイバーンを倒し得たことさえ、ジークにはなにかあずかり知れない神秘的な導きのようにも思えた。
もしも、そうであるのなら。マリエラと出会えたことさえエンダルジアの、あるいは地脈の意志によるものならば。
(導きに、マリエラと出会えた己の運命に、深い感謝を――)
ジークムントは弓を引く。己の持てるだけの魔力と、深い、深い感謝を込めて。
その光景を見る者は、まるで虹のようだと、ジークの矢を取り巻く光を見て思ったという。
エンダルジアを、森の精霊の女王を助けたいという精霊たちの想いと力は、精霊眼の力で増幅されてジークのつがえる矢に集まる。人の身に御すことさえ困難な強い力の集積に、度重なる戦いで傷ついたジークの体は限界を超え、関節も筋肉も骨さえ軋むような悲鳴を上げる。
(この一矢だけ持ちこたえてくれ……)
修練の日々に鍛え上げられたジークの肉体は彼の願いに見事応え、ジークの射は、彼の血に連綿と受け継がれた狩人の正射を見事放った。
まるで虹色の巨大な彗星のように、光をまとって飛んでいく聖樹の矢。
正しく射られたその一射は、精霊たちの力を乗せて必中する。
エンダルジアに喰らい付く、迷宮の主へと。
――とりもどさなきゃ。
――もう、いいの。還ってしまってかまわないのよ。みんな、待っているのだから。
それは、魔物とエンダルジアの語らいだったのだろうか。
――みんな……?
――ずっと、寂しかったのね。もう平気、さあ、皆のところに還りましょう。
ジークの放った精霊の矢から溢れる光は、迷宮の主を包み込むように強く優しくあふれかえり、まばゆいばかりの光の中で、迷宮の主はほろほろと積もった雪が温かなお湯に解けていくように、光の中に消えていった。
――みんな……の、ところに、還……れる。
まばゆくて、眩しくて、けれど目をさすような強い輝きではない、ただひたすらにやさしい光が消え失せた後には、迷宮の主は跡形もなく消え失せていた。そして静かな光の只中に、穏やかな光に包まれて、精霊エンダルジアが穏やかに微笑んでいた。
ざっくりまとめ:迷宮の主、還る





