討伐の後
階層主が倒されて、戦いは終局を迎えた。
迷宮討伐軍にとってそれは、何度も経験したことだった。
階層主の討伐を幾度も成し得るなどということは、兵士や冒険者といった戦いを生業とする者にとってひどく名誉なことだと世間では評される。
果たしてこれがそうなのだろうか――。
レオンハルトは彼のいる本陣へと集まって来る兵士たちを見て思う。
手を失ったものがいる。脚を失い仲間に肩を借りる者がいる。それでも生きているだけましなのだ。これほど深い階層で、見上げてもまだ足りないほどの巨大な魔物に蹴散らされ、全滅せず倒しおおせた。これは、兵士一人一人の戦力がかつてないほど高まっていたからだろうし、各部隊ごとが一個の生物のように連携の取れた動きができた成果であろう。もちろん、討伐に参加した全兵士に十分なポーションをもたせることができたことも大きいと思う。大怪我を負い、体を欠損しても即死さえしなければポーションと治癒魔法で簡易の治療が施せたのだから。
それでも。仲間を背負いニーレンバーグら治癒部隊に駆け込んで、「こいつを助けてくれ」と泣いて請う者がいる。いくら熟練の治癒部隊でも、いくらポーションがあろうとも、死人を生き返らせることなどできはしないのに。耳を澄ませば失った仲間を惜しみ、すすり泣く声が聞こえてくる。
錬金術師の周囲は四方を垂れ幕で囲ませて、迷宮討伐軍の兵士でも決められた者以外立ち入らせないよう命令をしている。
年若い錬金術師にこの惨状を見せないためと、錬金術師の奇跡にすがろうとする者を遠ざけるためだ。
ポーションは万能の薬ではない。死人を蘇らせることなどできはしない。
そんなことは、長らくポーションに馴染みのなかった迷宮討伐軍の兵士たちにも分かり切ったことだ。けれど頭で理解していても感情が追随しないことはある。人は心で動くのだから。
この迷宮都市に錬金術師が現れたこと自体、奇跡のようだと全員が感じているはずだ。そんな奇跡的な存在ならば、もしかしたらと思ったとして何の不思議もないだろう。
事実、レオンハルトでさえ錬金術師の奇跡によって失われた兵士たちを取り戻せるのではと思ってしまっているのだから。
ピイイイィ、と空気る甲高い笛の音が、散り散りになった迷宮討伐軍の兵士に撤退を知らせる。笛の音を聞きつけた仲間たちの内、動ける者は音を合図に集まって来るだろうし、動けぬ者は笛で合図を送って来る手はずだ。この階層の刃脚獣はどうやって迷宮討伐軍の位置を把握しているのかはわからないが、この笛の音に反応しないことは確認済だ。階層に立ち込める靄こそが、感覚器官なのかもしれない。
その刃脚獣たちは、階層主である『多脚の刃獣』を倒した後は、階層をさ迷うように移動していて、偶然出くわさない限り襲ってくることは無くなっていた。『多脚の刃獣』が階層全体の感覚器官や司令塔の役割を果たしていたのかもしれない。
とはいえ、この階層の晴れぬ靄の向こうに、数多の刃脚獣が蠢いていることに変わりはない。
なるべく早くこの階層から脱出するに越したことは無いのだが、傷ついた兵士はなるべく戦闘可能な状態に回復させる必要がある。
隊列を整える迷宮討伐軍の中心付近では、ニーレンバーグら治癒部隊が兵士たちの手足を応急的に繋いだり、骨を繋ぎ、筋や臓器を再生し、兵士たちを何とか自力で動ける程度に治療していく。ポーションは行軍に支障のない最大限の量を持ち込んでいるし、マナポーションもあるから、魔力を気にせず治療ができる。足りない種類のポーションも、たいていのものならば垂れ幕の向こうの錬金術師がその場で作ってくれるのだ。
(《薬晶化》というらしいが……。これは兵士たちに口外せぬよう誓約させねば)
兵士や物資の状況をまとめるウェイスハルトは、その場で様々なポーションを作り続けるマリエラをみて、警戒を強めるべきだと襟元を正す。
薬晶という砂粒のような小さい粒子に材料を変換するなど、戦略上の優位性は計り知れない。一番かさばる材料は、小指の先ほどの大きさの地脈の欠片で、ポーション何百本分もの量でも背負い袋のような容量にたやすく積み込めてしまう。
ポーション瓶さえ割らずに使い回しをすれば、マリエラ一人連れ歩くだけで、何百本ものポーションを持ち歩かなくて済む。作製に必要な魔力さえ、マナポーションで補充できるのだ。
その能力、有用性に対して、彼女のなんと脆弱なことか。矢の一本ですら命を失いかねないし、その精神のあり様は見た目と変わらぬありふれた少女のそれなのだ。
そのことを決して忘れず十二分に配慮せねばとウェイスハルトは考える。それは、マリエラという一人の民を守ることでもあるし、迷宮討伐だけでなく兄レオンハルトが統べる迷宮都市の利益に繋がることなのだ。
ニーレンバーグたち治癒部隊があらかた治療を終える頃には、兵士はあらかた集合を済ませ、運搬してきた物を中心にポーションの補給も終えていた。
「帰還する」
号令をくだすレオンハルト。彼の率いる軍勢はこの階層に降り立った時より2割ほども減っていた。かつて『呪い蛇の王』と相対し、失い続けてきた人数に比べれば少ない犠牲と喜ぶべきなのだろう。あれほどの敵に対して、よくぞここまで犠牲を抑えたと生き残った兵士たちを鼓舞し、殉じた兵士の奮闘をたたえるべきなのだろう。
けれどそのような演説をこの場でする気にレオンハルトはなれなかった。
(このところ、兵を失っていなかったからだ……)
だから、兵を、民を、共に戦ってきた仲間を失う痛みを、これほどまでにつらく感じるのだ。
それは帰路に着く兵士たちも同じ気持ちなのだろう。
仲間を失った混乱から何とか立ち直り、今は皆、喪失の悲しみに静かに帰路を進んでいる。錬金術師に奇跡をせがむ者は、ひとまずはいないだろうと判断されて、マリエラも垂れ幕から出て第6部隊やジークに護衛されつつ静かに帰路に着いている。
階層主を倒したというのに、迷宮討伐軍の行軍はまるで葬列のようで、晴れぬ階層の靄のなかに重く沈んでいきそうだ。
そんな凱旋とも思えない静かな道行の先に、靄の向こうからこちらへ近づく人影が見えた。
「生き残りがいたのか?」
ひょこひょこと左右に揺れてゆっくり歩く人影は一つや二つではない。その不自然な歩き方に怪我をした仲間が合流したのかと皆が思った。
ピイイィ、ピッ、ピッ、ピー。
味方であることを知らしめる合図の笛を鳴らしても、近づいて来る人影から応答は来ない。あれほどの人数で全員が笛を失い、あるいは吹けない状態になる物だろうか。
「申し上げます! 前方から敵多数接近! 敵は死人です! ただいまマルロー副隊長らが交戦中。至急交戦準備を整えられたし!」
「死人だと!? この階層にそんな魔物はいなかったはずだ。階層主は倒した。新たな種の魔物が発生するはずはない。一体どこから……」
「第58階層、下階に続く階層階段からです! どんどん、どんどん溢れてきます!」
レオンハルトの疑問に対する斥候の答えは、極めて重要な一つの事実を告げるものだった。
「な……、魔物が階層を移動しているだと!? それは……!!!」
『それは、迷宮の氾濫ではないのか』と、その言葉をレオンハルトは口にすることができなかった。
「第6,7,8部隊および治癒部隊は防御優先! 残る全軍は我に続け! 目標は前方の死人の群れ! 数は不明! 決して、決して地上へ出すな!!!」
再び抜刀するレオンハルト。その気迫は、迷宮討伐軍の悲しみを吹き飛ばし、己らの戦う意味を、存在する意義を知らしめる。
『多脚の刃獣』の討伐に疲弊した心身に、再び力が、闘志が宿る。人は心で動くのだから。
「我らの街を守るのだ、今こそ我が名を示す時」
勇ましく上がる鬨の声。
立ち込める靄の向こうから雪崩のように押し寄せて来る死人の群れに、武器を手に取り立ち向かう迷宮討伐軍。
その姿は、後方から事態を見つめるマリエラの目には、200年前の魔の森の氾濫を思い出させた。
(あの時と同じだ……)
マリエラは、自分の体が恐怖で芯から冷えていくのを感じていた。
200年前の魔の森の氾濫の日、マリエラは逃げることしかできなかった。今だって、頼まれるままポーションを作りはしたけれど、多くの人が傷ついて、何十人もの命が失われた。マリエラの目に触れないよう、配慮してもらっていても多くの命が失われたことをマリエラは分かっていた。
200年前のあの日も、何人もの人たちが「さっさと行け」とマリエラが気兼ねなく逃げられるよう、背中を押してくれた。
今ならば、助けてくれたのだと理解できる。
口が悪くて乱暴で、その裏に隠された優しさに、心からの感謝を送れる。
だから、進軍する迷宮討伐軍が巻き起こす風に晴れた靄の向こうから、迫りくる死人の姿を目視した時、マリエラは声にならない叫びを漏らした。
今まさに、迷宮討伐軍と激突せんとする死人たちは、もげた脚の代わりに何者かの腕が、ちぎれた腹の下に魔物の胴がくっついた、歪でおぞましい姿をしてはいたけれど、彼らは紛れもなく、200年前の魔の森の氾濫に立ち向かい、呑み込まれた防衛都市の、エンダルジア王国の人々だった。
ざっくりまとめ:地獄の釜の蓋が、今開いた。




