赤竜
幾つもの魔力を持つ生き物が侵入してくる反応に、赤い翼をもつ竜は寝床である『歩く火の山』の火口から飛び立った。
家に虫が侵入してきたら、誰でも駆逐しようとするだろう。
赤竜のその反応はそういったもので、恐らくその力関係すらも人と虫がごときであったのだろう。
けれど虫を侮るなかれ。
ある者は病を媒介し、あるものは毒の針を持つ。大群で押し寄せて後には獣の骨しか残らない、そのような虫も存在するのだ。
単に小さき者だと言って、必ずしも弱者だとは限らないのだ。
迷宮第56階層の、階層階段から赤竜の居る広間へ抜ける洞窟の出口は一つしかない。
何度も赤竜のブレスを受けた衝撃で、埋まるどころかむしろ溶けて広がりつつあるその出口から、弾丸のように何者かが飛び出した。
赤竜のブレスが着弾するより早く出口から離れたそれは、真っ直ぐに赤竜でなく『歩く火の山』の方へと向かってくるではないか。
生じて以来この階層で暮らしてきた赤竜が、この生き物を見たのはこれが二回目だ。
前回と比べ物にならない速度で動くこの生き物は、初めて見る獣に乗っているようだ。
赤竜はその場にとどまるように翼をはためかせると、ぐわと口を開いて小さいブレスを幾つも吐き出す。この方が当たりやすいと前回で学習したのだ。この生き物は脆弱で溶岩溜まりには入れないから、溶岩溜まりへ追い立てるようにブレスを吐けば簡単に当てることができるだろう。
『歩く火の山』は赤竜が守るべきものだ。このような小さいものにどうにかできるとも思えないが、近づくことは許せない。
恐らく赤竜は、そのような思考でサラマンダーを駆るジークにブレスを吐いたのだろう。一直線に『歩く火の山』に向かっていたジークは、降り注ぐブレスに進路変更を余儀なくされる。
何度も『歩く火の山』を目指しサラマンダーを駆り立てるも、その先々に赤竜は回り込みゆく手を遮るようにブレスを吐く。
今もまた。人からすれば巨大な溶岩溜まりを避けるように、ジークは大きく迂回をしながら『歩く火の山』を目指す。そうはさせないと赤竜は大きく旋回しながらも、『歩く火の山』への近道にブレスを落としてその進路を妨害する。
この広間に飛び出した時は、『歩く火の山』へと真っ直ぐ向かっていたのに、度重なる赤竜のブレスと溶岩溜まりを避けるうちに進路は大きく蛇行して、『歩く火の山』への距離は近づくどころか遠ざかり、むしろ洞窟へと近づいてしまっている。
意のままに獲物を駆り立てる強者の行為に、赤竜は愉悦を感じただろうか。
逃げ惑うばかりで攻撃をしてこない不自然さに赤竜が気づきもしなかったのは、自らを強者と奢る赤竜の慢心ではなかろうか。
赤竜が獲物を追い立てた先には迷宮の壁。赤竜も旋回せねばぶつかってしまうが、その手前には池のような大きさの溶岩溜まりが広がっている。
逃げ場のない一本道に獲物を追い入れて、出てきたところに特大のブレスで止めを刺すつもりだろうか。
赤竜はサラマンダーを駆るジークを溶岩池への一本道へ追い立てるようにブレスを吐くと、尾を曲げ翼を傾けて、壁への激突を避けるため何度目かになる旋回を行った。
もしこの赤竜が老獪で、息の根を止めるまで獲物から眼をそらしたりしなければ、この先の展開をその目で見ることができたかもしれない。
ジークを乗せたサラマンダーは溶岩池を気にすることなく、まるで陸地を走るが如くその上を進んでいった。溶岩はサラマンダーの足が付くより先に冷えて固まり、足場となってサラマンダーの足元を支える。
サラマンダーは炎の精霊。熱も炎も彼の支配するもので、たとえ迷宮の支配下にあってもその体が触れる熱程度、制御できぬものではないのだ。
そしてもし、赤竜が冷静で、獲物を駆り立てる愉悦に冷静さを失っていなければ、きっと気付いていただろう。前回、雷帝の雷で地を這う屈辱を味わって以来、弓でさえ届くことが困難な高度を保ち続けていたというのに、度重なる旋回で徐々に高度を下げていたことに。
悠々と、見せつけるが如く広げた翼は、回り込み狙い定めるジークにとっては格好の的でしかない。
ギリリと弓を引き絞る。
つがえた矢はミスリル製。
弓に矢に魔力を込めて狙いを定める。
いつもの動作、いつもの狙いを精霊眼が補強する。
竜の翼はそのサイズには不釣り合いなほど小さく、その飛翔は魔力によって補佐される。
赤竜の体表に薄く張られた魔力障壁が、飛翔動作によってわずかに歪むその隙間が、今のジークには見て取れる。
「そこだ」
一射、二射。立て続けに放たれた5本もの矢は、露になった赤竜の左翼に一矢も外れることなく突き刺さる。
竜の翼に比べれば矢など針のごとき細さであるが、魔力をまとい精霊眼で強化されたその矢は、風圧を受ける翼膜には十分すぎる破壊の拠点となりえた。
特に赤竜は、左翼に一杯風を受け旋回をしていたのだ。その風圧に耐えかねて、矢を受けた翼膜は裂け、赤竜は大きくバランスを崩した。
ここでようやく事態を察した赤竜は、その首をねじるように曲げるとジークをねめつける。
その視線の先にあるのは、赤竜の顔面目掛けて鋼鉄の矢をつがえる精霊眼の男。
そんなちゃちな矢など、噛み砕いてくれよう。
射かけられた鋼鉄の矢を、赤竜がその顎に捉えたその時、天を突き、雷が降り注いだ。
《天雷》
空間を白く染め上げる膨大な雷のエネルギーは、たった1点、ジークが放ち、赤竜の顎に捉えられた鋼鉄の矢めがけて突き刺さる。
その衝撃、そのエネルギー。
白煙を上げて落下する赤竜の意識はすでになく、風を受け落下の衝撃を弱めるはずの左の翼膜は、裂けて風を掴むことは叶わない。
最早、巨大な肉塊と化した赤竜は、重力に引かれるままに速度を増して落下する。
もしこの赤竜が、小さな獲物を追うことに夢中にならず、周囲に注意を払っていたなら、自らが獲物を追い立てているのではなく、誘い込まれていたのだと気付くことができただろう。
けれど外界と隔たれたこの階層で、物言わぬ『歩く火の山』とともにただ生きてきただけのこの竜には、小さな獲物が飛び出した穴から何人もの人間が飛び出して、ここに潜んでいたことにさえ気づくことはできなかった。
ズズーンと階層を揺るがすほどの地響きを立てて、赤竜が地に落ちる。
「急げ! 恐らくすぐに目覚めるぞ!」
レオンハルトの号令で、潜んでいた岩陰から飛び出した戦士たちが赤竜めがけて走り出す。灼熱の階層の中、有毒なガスを避けるためマスクまで付けているのだ。息が苦しくないわけではない。けれどそれは、『氷精の加護』という特級ポーションの効果によって、ひりつくほどに暑い夏の日という程度のもので、溶岩の輻射熱は『氷精の加護』によって体表に張られた冷気のヴェールに阻まれて、皮膚を焼くことはないし、吸い込んだ熱風も肺を焦がしたりしない。
前回より、よほど素早く赤竜へと駆け寄ったレオンハルトらであったが、地に落ちたとて敵は上位の竜。前回の戦闘で《天雷》への抵抗が付いたのだろう。レオンハルトらが一撃加えるより早く、目を覚まし翼膜の裂けた左翼を薙ぎ払うかの如くレオンハルトらに打ち付けた。
「《破限斬》!!」
迎え撃つのはハーゲイの剣戟。しかし、赤竜の左翼を打ち返すように振りかぶられた剣の軌道は、どう見ても剣の長さが赤竜の攻撃軌道に対して足りない。
しかし。
ハーゲイの剣の先、何もないはずの空間が赤竜の左翼と打ち合い、ぎりぎりぎりと削り取るようにその身を削ると、見事左翼の軌道をそらしてレオンハルトらへの直撃をそらした。
「ふーっ、流石に硬いぜ! まともに剣で撃ち合ったら、剣の方が負けちまう!」
ハーゲイの二つ名、『破限』の由来となったのがこの剣技だ。手に持つ武器の長さの『限り』を超えて、攻撃を放つことができる。使う武器は何でもよいが、目視で測れる武器の長さと実際の攻撃が異なるというのは、相対する者にとって実にやりにくい物である。
これが魔力によるものか、いくつかの魔法を組み合わせているのかは、実は本人もよくわかっておらず、「気合いだぜ!」の一言で片づけられている。
事実、使う際の気合いの度合いで強度やサイズが変わって来るから、あながち間違いではないのだろう。
ちなみにハーゲイ曰くであるが、丸めた紙やスリッパで素早く動く黒い影をズビッシズバッシとやっつける奥様連中も、《破限斬》の素養があるらしい。「オレもワイフには勝てないんだぜ!」とハーゲイはイイ笑顔で言っていた。事の真偽はさて置いて、勝てるかどうかより、勝たないことが夫婦円満の秘訣と思われるから、ハーゲイには家庭の中ではこのまま負け続けていて頂きたい。あと、奥様連中が《破限斬》に目覚めたら、黒いアイツが出る度に迷宮都市の家屋が倒壊してしまうから、その素養は眠らせておく方が良いだろう。
赤竜の左翼を迎撃したハーゲイがサムズアップをかますより早く、今度は赤竜の右翼が振りかざされる。こちらの翼膜は無傷なままで、振りかざされる動きと共に魔法で集められた風圧がレオンハルトらを襲う。けれどその隙を逃すジークではない。
両翼揃っていたならば飛び立てるほどの風圧を受けた右翼に再びジークの矢が突き刺さる。そして追い打ちをかけるように突き刺さる一本の槍。
「《飛龍昇槍》」
ディックの槍とジークの矢を受け、ついに赤竜は空を行く翼をすべて失った。
「グオアアアァ!」
大地を揺るがす咆哮に、赤竜の怒りが物理的な圧力となってレオンハルトらを襲う。
「くっ」
地に剣を刺し、耐える一同。まるで赤竜の怒りに呼応するかのように、この階層が震えだす。
火山が、活動を開始したのだ。
ドドドドドドォッ、と吹き上がる溶岩に周囲の温度はさらに増し、『氷精の加護』に守られていても、その熱は刺すような痛みとして身を苛む。何より溶岩によって奪われた酸素と、噴き出すガスがマスクで何とか保たれる呼吸を一層苦しいものにする。
ズシーーーーン、ズシーーーーン。
遠くで響く火山の足音。こちらへと近づいて来るのだろうか。
見えるだけでも8本の足を、亀のように動かして頭らしきものもない丘ほどの小山は頭頂部より火山の煙を吹き出しながら、ゆっくりと、けれど留まることなくその歩みを進めている。
その中腹に、ウェイスハルト率いる5名の兵を張り付けながら。
「喰らえ!」
「うぉらぁっ!」」
山頂から三分の一ほどの場所に4人の部隊長たちが次々に巨大な鋼製のパイルを打ち込んでいく。その重量もさることながら、それを人力で打ち込むその技量こそ彼らの強さを裏付けるものであるのだが。
「なんっで、俺らが工兵みてーなマネしてんだろーね」
「しゃーねーだろ、っと。青年の仇討も兼ねてんだ。ディックに譲ってやろうぜ」
「それにあいつ、魔法よえーしな」
「無事帰ったらディックのおごりで祝杯だ!」
背負えるだけのパイルを全て打ち込み終わった4人の部隊長たちは、火口へと駆け上がる。そこにはウェイスハルトと魔法を得意とする5人目の部隊長が二人がかりで、大掛かりな魔法を練り上げていた。
「手伝います!」
合流した4人の部隊長も、魔力を注ぎ補助をする。練り上げているのはこの階層に満ちたあるものを大質量で集める術式だ。
いくらパイルを打ち込もうと、『歩く火の山』は意にも介さず歩みを変えない。ただ噴火の時を待つように、溶岩をその足から吸い上げつつ淡々と赤竜の方へと歩くだけだ。
そんな階層主を斃しうるのは、相当量の質量あるものだろう。
ズシーーーーン、ズシーーーーン。
地響きを立てて歩く火の山。倒しうるチャンスは恐らくは一度きりで、そのためには今しばしの時間が必要だった。
ざっくりまとめ:赤竜、地に落つ




