王国の落日
「一つ、昔話をしてやろう」
言葉を失う一同に向かって、炎災の賢者が語りだす。
それは、レオンハルトたち迷宮都市に生きる者には昔々の物語で、1年ほど前にこの時代に目覚めたマリエラにとっては、長く過ごした世界の、けれどここにいる誰よりも縁遠い人たちの話だった。
エンダルジア王国。
精霊が護るその国は、魔の森のほとりにあっても決して魔物を寄せ付けず、栄耀栄華を極めていた。特に王城で日々繰り広げられる様相は、熟れた果実のごとくであったという。
熟れ堕ちる前の果実と、腐りかけた果実の境界は一体どこにあるのだろう。
長い平和な世の果てに、人々は慢心し、奇跡を忘れ、感謝を忘れた。
煌びやかな王宮に集う人がかしずき持て囃すのは、家柄に付随した権威であり、財である。そのすべては長きに渡り作り上げられた国という仕組みによって、代々受け継がれてきた権益だ。それは貴族であろうと王族であろうと同じことで、家柄や血筋というものを除いてしまえば、当時のエンダルジア王国の栄華をほしいままにした彼ら一人一人は、怠惰に肥え太った凡百でしかなかった。
けれど人とは愚かしくも傲慢で、他者に頭を垂れさせるたび思い上がってしまうのだ。自分は選ばれた血統で、特別な能力を持つ者なのだと。
だから、血統上は第一王位継承権を有して生まれながらも森の精霊の女王エンダルジアの瞳とされる『精霊眼』を持たないゆえに王座を弟に明け渡し、宰相の地位を余儀なくされた男は、“たかが色の違う瞳”くらいで王座を失った事実に納得などできなかった。
ずっと自分が王座に就くと思っていた。しかし精霊眼を持っていた祖父が崩御した翌日に、精霊眼が右眼に宿り新たに王位についたのは、第一王子として生まれながらずっと王の補佐に甘んじ続けた宰相の父でも、その第一子たる自分でもなくて、年の離れた弟だった。
王位を信じていた宰相に「弟を支え国を守る」ことなど、いくら父の命令であっても承服できるものではない。
弟は優しく狩や歌に秀でたが、ただそれだけの愚かで凡庸な人間で、彼の美点とされる性格も能力も国を治めるのには不要な物だった。
「カビ臭い言い伝えなど時代遅れもいいところ。
能力のあるものが、国を統べればよいではないか」
宰相が幼い頃から皆はかしずき頭を垂れた。それは第一王位継承権を持つ彼の立場に対するもので、彼の能力にひれ伏したわけではないのに、額づかれるのが当然だった宰相にはそんなこともわからなかった。
自分が王になるために、宰相は時間をかけて準備した。
かび臭い言い伝えが邪魔をするなら、それ自体を歴史の中から消せばいい。
「精霊の眼だなどと、王の権威を貶めるもの。エンダルジア王国は精霊に愛されし“王”によって栄える国である。王にこそ栄光あれ」
宰相は、王の権威を高らかにうたい、歴史から、子供たちが読むおとぎ話からさえも『精霊眼』の存在を消し去っていった。
ゆっくりと着実に。宰相は人々の記憶を塗り替える。永い平和に人々はエンダルジア王国建国の物語を、ただの童話、作り話と認識していたから、あらゆる記録を塗り替えてしまえば、あとは時を待つだけだった。
幸いにも父は精霊眼を得られなかったショックと過労で間もなく世を去った。
精霊眼を持つ愚かで優しい若い王に国政を担う能力は乏しく、宰相は弟である王をよく助け、王は兄である宰相を頼ったという。人々は仲の良い兄弟であると褒めたたえ、王国の繁栄は約束されたものとばかりに栄華に酔いしれた。
すべて宰相の計画で、宰相が弟である王の命ごと王座を狙っているとも知らずに。
若い王が、帝都で一番とうたわれた美姫を王妃にと望んだ時も、宰相は親身で協力的なそぶりを見せて、若く熱心な一人の貴族に縁を取り持てと命じて話を押し付けた。
「美姫を妻に望むものは多く、けれど姫はそのすべてに首を振らない。しかるべき仲人を立てるよりは、熱意ある若者に王の気持ちを伝えさせるのが良いだろう」
「なるほど、流石は兄上だ。姫はドレスも宝石も飽きるほどに持っていて、今更送ったとして見向きもすまい」
無茶な話だ。誰もかれもが妻にと望む美貌の姫の関心を、ふさわしい立場も豪華な贈り物も持たない若い貴族がどうにかできるはずはない。
宰相にとって王の子供など邪魔以外の何者でもない。縁談を失敗させるべく仕組んだだけだ。たまたま目についた真面目で正義感のある若い貴族を不愉快に感じただけに過ぎない。
けれど、浅慮な思い付きが裏目にでることもある。若い貴族は見事、美姫と王の中を取り持ったのだ。
「あれほど貴重な虹の花を部屋いっぱいに下さるなんて。あの感動、あの美しさ。どんな宝石より尊いものでございました。王のお気持ちありがたく承りましたわ」
宰相の眼にたまたま止まったその貴族は錬金術師でもあって、その伝手とやらを使い、1本でさえ貴重なレインボーフラワーという虹の花を部屋いっぱい美姫に贈ったのだという。
仲人を務めた若き貴族、ロブロイ・アグウィナスはエンダルジア王国の筆頭錬金術師に取り立てられ、5年という婚約期間が過ぎた秋の日に、めでたく美姫はエンダルジア王国に輿入れを果たした。
「婚約の引き延ばしもこれまでか。穏当に失脚させた後にと考えていたが、世継ぎができては厄介だ」
ついに宰相は決意する。美姫を射止めた喜びに宰相に感謝する王の気持ちさえも疎ましい。
宰相の企みは誰に気付かれることもなく、若い王と美しい王妃の結婚に国中が湧きたった。エンダルジアの冬の日は熱狂の内に過ぎ去って、未だ喜び冷めやらぬ、ある春の日の夜、王妃は不思議な夢を見た。
片目しかない緑の瞳の精霊が、すぐさまこの地を離れよと王妃に言うのだ。
もう直ぐ、魔の森から魔物が押し寄せてくるからと。
夢に現れた精霊も、精霊が見せた滅びの様子も現実のように鮮明で、王妃にはそれがただの夢とは思えなかった。これは精霊のお告げだとどれほど王に進言しても、平和に染まり切った王は一笑にふすばかり。
夢は日に日に鮮明になって、王妃の不安は日増しに募る。
王妃の話を取り合ってくれたのは、王との仲を取り持った筆頭錬金術師だけだった。
「ロブロイ様。どうかわたくしを魔の森のそとへ連れ出して下さいまし」
輿入れ間もない王妃をそこまで駆り立てたのは、精霊の告げた一言だった。
『どうか、その身に宿る新たな王を守ってください――』
精霊の言葉に我が身に命が宿っていることに気付いた王妃は、“病床に伏した母を秘密裏に見舞う”という偽りの理由をでっちあげて、錬金術師ロブロイと輿入れの時に連れて来たわずかな供だけ引き連れて、まるで王国から逃げ出すようにエンダルジア王国を後にした。
王妃が魔の森を抜けたその日、宰相による簒奪はなされた。
精霊眼を持つ王の命が潰えた瞬間、長きに渡りエンダルジア王国を守り続けた精霊の加護は消え失せえて、魔の森から魔物が押し寄せた――――。
「これが200年前の魔の森の氾濫の真相さ。後はあたしも眠ってたからね、歴史が伝えて来たことなら、あんたらの方が詳しいだろう」
言葉を切った師匠。
彼女の語った内容は、歴史に語られることのない、レオンハルトたちさえ知らない魔の森の氾濫の経緯だった。しかもその内容には、恐ろしく重要な内容が含まれている。
場違いさに居心地悪そうにしていたロバートも、話の中で語られたアグウィナス家の成り立ちに、驚いた様子で師匠を見ている。
今語られた内容と、先ほど見た地脈の様子と、目の前に立つ精霊眼を持つ青年。
レオンハルトはしばらく思案したのち、師匠に問う。
「それが魔の森の氾濫の真相だとして、腑に落ちんことがある」
レオンハルトの疑問はウェイスハルトの疑問でもあったようで、ウェイスハルトは兄の言葉を継ぐと、魔の森の氾濫直後の歴史を話し始めた。
エンダルジア王国を呑み込んだ魔の森の氾濫の規模は大きく、王国の民を喰らいつくした魔物が迷宮を生み出すことは確実だった。
迷宮を放置しておけば、やがて人の手に負えない規模まで成長し、溢れた魔物は魔の森の魔物と共に帝都にまで押し寄せる。
これまでは、帝国からみたエンダルジア王国は、魔の森に隔てられた立地によって、攻めがたく、けれど攻撃される恐れの極めて少ない、豊かで友好的な隣国だった。地脈が異なるという点も互いの独立を強固なものとしていた。戦争という人間同士の争いは、治癒魔法やポーションという強力な回復手段がある場合、消耗戦になりやすい。相手の地脈に攻め入る側は相手方の地脈の錬金術師を相当数取り込まない限り、相当な苦戦を強いられる。
しかも帝国とエンダルジア王国の間には魔の森があったから、いくら魔物除けポーションを使用したとしても、なにもない平地ほど進軍はたやすいものではない。
更にエンダルジア王国側の特殊事情として、エンダルジア王国だけは精霊の加護によって魔物を寄せ付けず安全であるという事情もあった。エンダルジア王国は小国だが、土地は肥沃で作物が豊かに実り、周囲の山々からは鉱物資源が、魔の森からは魔物の素材が得られるたいそう豊かな国だったから、多大な犠牲を払ってまで魔の森を越えて領土を広げようという考えはなかった。
だから帝国はエンダルジア王国から馬車で1週間程度という近い距離に都を築いた。周囲を敵国に囲まれた帝国にとって最も安全な場所と言えたからだ。
しかし、エンダルジア王国は魔の森の氾濫に呑まれ、魔物の支配する地となった。
生じた迷宮を滅ぼし、国を取り戻したくとも、かつては両国間に程よい距離感をもたらした魔の森と地脈の違いという障壁が、難攻不落の城塞のごとく立ちはだかる。
せめて迷宮の周囲に討伐拠点を設けなければ、迷宮の攻略に着手することすらかなわない。
迷宮を攻略せず、万が一にも魔の森や迷宮から魔物が溢れでもしたら、帝都どころか帝国の存亡すらも危ういだろう。
こういった事情もあって、魔の森の守護を務めるシューゼンワルド辺境伯は、逃げ延びてきたエンダルジア王妃を保護し、王妃を連れて来たエンダルジア王国の筆頭錬金術師の嘆願を受け入れ魔物から王国を取り戻すべく兵を挙げた。
不休で魔の森を駆け抜けたシューゼンワルド辺境伯の一団がたどり着いたそこは、白亜の防壁麗しく、王城煌びやかな都ではなくて、魔物たちが死肉を漁る、おびただしい死に食い荒らされた、人の住みえぬ場所だった。
崩壊した防壁が、倒壊した建造物が、踏み荒らされ割れて露出した舗道の有様が、雪崩のように魔物が押し寄せたであろうことを物語っていた。偶然に他国へ、あるいは山脈へ逃げ延びて魔の森の氾濫を生き残れた人々がいたことが奇跡に思えるほど、亡びた国は荒廃していた。
魔の森から押し寄せた魔物は、逃げ遅れて王国内に隠れていた人々をことごとく喰い殺した後、魔物同士で互いに喰らいあったとされる。最後に生き残った一体が大地に潜り迷宮が生まれたのだという伝承だ。それが真とされるのは、シューゼンワルド辺境伯軍が王国跡地に到着した時、そこには魔の森の中と同じ程度しか魔物がおらず、王城跡には迷宮が生じていたからだ。
これだけの災害を引き起こした魔物だ。埋め尽くさんばかりにいてもおかしくはなかったのに。
しかし、魔の森と同程度の魔物の量でも、人が住める場所を確保するのに、相当の時間が必要だった。
そして迷宮の存在。
魔の森の氾濫の犠牲者の規模と生じた迷宮の規模には相関があるというのは、帝都の学者が提唱していた内容で、その推定に基づけば王国跡地の迷宮は稀に見る大規模なものだと考えられた。
再び魔の森の氾濫をおこさぬために、帝国の人々が生きていくために、この迷宮は倒さねばならない。いつか、この地を人の手に取り戻すため、迷宮の周囲に迷宮を討伐するための拠点が築かれ、やがて人が住む街ができた。
「こうして迷宮都市は作られた。魔の森の氾濫から200年経った今でも迷宮を倒せていないことからも明らかなように、決して容易な道のりではなかった。
案件が案件ゆえに、皇帝も助力を惜しまなかったというのに。
『エンダルジア王国を取り戻す』などという、弱い理由付けで続けられる事業ではなかった。もっと確かな大義名分が、悲願とも呼べる理由付けが必要だった。
だから、皇帝は亡国の王女を、我がシューゼンワルド辺境伯家に輿入れさせたのだ」
魔の森の氾濫の直前に、エンダルジア王国から逃げ延びた王妃は子を身ごもっていた。生まれた姫を迎え入れることで、帝国はエンダルジア王国跡地を辺境伯領に組み入れる名分を、シューゼンワルド辺境伯家は『祖国奪還』という命題を得た。
精霊の加護を失った迷宮都市は、食料すら満足に賄えない、魔物の闊歩する危険な土地で、たとえ亡国の領地を丸ごと手に入れたとしても、管理するための犠牲に見合う場所ではなくなっていた。シューゼンワルド辺境伯家も再び魔の森の氾濫がおこれば真っ先に犠牲になる場所に領地があるから受け入れたのだし、万一の場合に甚大な被害を被るであろう周辺諸国も同意を示した。
シューゼンワルド辺境伯家は、エンダルジア王国の血を引く正当なる後継だ。
だからこそ『祖国奪還』の悲願の下に、200年間血を流し、迷宮に挑み続けてこられたのだ。
しかし、そうであるならば、なぜ、王たる証は現れないのか。
シューゼンワルド辺境伯家には、この200年、精霊眼を持つ者はただの一人も現れてはいないのだ。
ざっくりまとめ:エンダルジア王国滅亡秘話。シューゼンワルド家、どうして精霊眼持ち生まれてこないん?




