地脈の主
まるで月の光と共に舞い下りたかのように、緑の少女は佇んでいた。
驚きと共に少女を凝視するジークの視線に、一同はジークから眼を放して後ろを振り返り、ようやく『木漏れ日』の店内の異変に気が付いた様子だ。
「何者だ……?」
「この光は……?」
長く迷宮で魔物と対峙してきたレオンハルトたちには、月光の中佇む少女が悪しき者でないことが分かる様子で、正体を訝しみながらも、小さな光が舞飛ぶ店内を見回している。
店内の様子に眼もくれず、月光の中の少女を見つめていたマリエラは、少女の方へ一歩踏み出すと小さな声でつぶやいた。
「イルミナリア……?」
イルミナリア。それは200年前マリエラを地脈へと連れて行ってくれた精霊の名前だ。どうして今まで忘れていたのか。そして彼女は今までどこにいて、どうして今ここにやってきたのか。
聞きたいことはたくさんあるのに、状況を整理しかねた周囲の「何者か」という問いかけに、マリエラはうまく話を続けられない。
月光の中に立つ少女、精霊イルミナリアは名を呼んだマリエラを見つめ、嬉しそうににっこり笑ってみせたけれど、言葉を発しようという様子も、レオンハルトらの問いかけを理解している様子も見られない。
ただ彼女は、胸元で握っていた両手をそっと前に差し出すと、大事に抱えていたものをマリエラに見せた。それは、花を模した器のようなもので、けれど花びらの先はことごとく欠け、砕けないのが不思議なほどの亀裂が幾つも走っていた。
「それ、あの時の七枚花弁のお花の器……?」
マリエラはその器に見覚えがあった。地脈と契約をするために精霊公園へ行ったとき、イルミナリアと一緒に探した花だ。マリエラが見つけたときは確かに植物だったのに、イルミナリアが両手で包み込むようにして持ち上げると、花の形の器になっていた。
マリエラが問いかけるけれど、イルミナリアはマリエラの言葉さえ分からない様子だ。
「マリエラ、言葉は通じないよ。恐らくあの器のおかげで魔の森の氾濫を生き残れたんだろう。発芽したての苗だったから、器の中に隠れることができたんだ」
師匠が代わりに説明してくれる。七枚花弁の花の器が精霊にとってどういうものかマリエラは分からないが、そのおかげでイルミナリアが助かったのなら、一緒に探してよかったと思う。イルミナリアにとって七枚花弁の花の器は、ボロボロにひび割れていても大切な物なのか、もう一度大切そうに両手で包み込んだ後、マリエラたちに向かって両手を広げた。
ふわりと、タンポポの綿毛が舞うように、七枚花弁の花の器は光の粒子となってイルミナリアの手から部屋中に広がった。
広がった光の粒は、光る雪が舞うようにふわふわとゆっくり下に降りていく。
マリエラたちは『木漏れ日』の店内にいた筈なのに、いつの間にか夜の海の中のような暗い場所に浮かんでいた。
「ここ、地脈に向かう時の……」
200年前マリエラがイルミナリアに連れられて肉体を離れて潜った場所だ。
遥か遠くの深い場所に、地脈の光が見えている。
けれど、あの時とは違って、マリエラたちは地脈へと潜ってはいかないし、何より全員そろった状態で自分の肉体の中にいる。
「これ、イルミナリアが見ているものだ……」
マリエラの呟きに、状況を察したジークやレオンハルトらは、冷静に周囲を見回している。
何度見ても綺麗な場所だと、マリエラもあたりを見渡す。今もさらさらと光の粒子が地脈から立ち上ったり、還って行ったり。
遥か足元には、幼い日のマリエラを包み込むように迎えてくれた優しい光。
(……あれ? なんだろう、なんだか少し居心地が悪いような……)
小さな違和感を感じたマリエラ。ここは、誰もかれもを分け隔てなく迎え入れてくれるような、温かい場所だったはずだ。なのに、なんだか疎外感を感じる。遠巻きにして仲間外れにされているような、どうにも居心地の悪い雰囲気だ。
どういうことだろうとイルミナリアを見つめると、緑の髪の精霊は、地脈の深いところを指さしていた。
(あそこ、地脈と契約したところだよね)
マリエラは光の方に眼を凝らす。ジークたちもまんじりともせず地脈の一点を見つめている。幼い日、イルミナリアに連れられてあそこの奥深くに行ったのだ。周りじゅう豊かな光に包まれて、そこでマリエラは会ったのだ。
あれは、地脈そのものではなくて、地脈と地上を橋渡しする管理者のような者だと思う。だって地脈はエネルギーそのもので、そこに心は存在しない。
けれどマリエラに名前を教えてくれたあの人は、にんげんも動物も世界のすべてを愛しいと思っていた。地脈とラインを繋いだ時に、温かい思いが流れ込んできたのだ。
マリエラはあの時、教えてもらった名前を思い出していた。
少し前、エミリーたちが読んでいた物語を思い出していた。
あそこにいるのが何者なのか、マリエラはようやく理解した。
そうなのだと分かってしまうと不思議なことに、今までただの光にしか見えなかったそこに、彼女の姿が見える気がした。
あの人だ。
強く意識をするほどに、その姿が光の中で像を結ぶ。けれど、美しいはずのその姿は。
「なんで……、どうして……。エンダルジアが……」
彼女の名前を呼んだ時、マリエラたちは『木漏れ日』の店内に立っていた。
いつの間にか月の光は雲に隠れて、まばらについた照明の魔道具と、形も持たない小さな精霊たちの光以外は、『木漏れ日』の店内を照らすものはない。さっきまで確かにいたイルミナリアの姿も消えてしまって、集まった時と変わらず7人だけが、黙ってその場に立っていた。
「あれを見せるために我々を呼んだのだな、炎災の賢者よ。だが、あれは……。どういうことか説明願おう」
沈黙を破ったのはレオンハルトだった。
聞きたいことはたくさんあった。この不思議な現象を呼び寄せた精霊眼とは何なのか、部屋に舞飛ぶ精霊は。イルミナリアという精霊は何者でどこへ消えてしまったのか。
けれどそれは何れも些事で、聞くべきことは他にある。
迷宮都市の統治者として、迷宮を倒す一族として、知っておかねばならないことだ。
師匠は静かに微笑むと、ジークに向かって話しかける。
「ジーク、お前の眼ならばよく見えただろう。その目を持つお前なら、彼女が何者かわかっただろう。説明しておやり」
話を振られたジークは、一気に理解してしまった情報の多さに、少し青ざめながらもマリエラを見、そしてレオンハルトに向かいあう。
「あれは……、地脈にいたのは恐らく精霊エンダルジアです。そして彼女は……」
続きを口にするのが恐ろしいというようにジークは言葉を切る。話の続きを聞くのが怖いというようにマリエラがジークの手を握る。耳を傾けるレオンハルトもウェイスハルトも、さっきから沈黙を貫くニーレンバーグやロバートでさえ、エンダルジアの状態をその目で見てきたのだ。ジークが言葉を続けなくとも、その結末は分かっている。
けれど、受け入れたくはなかったのだ。
「彼女は、エンダルジアは、喰われかけておりました」
あれは、エンダルジアを呑みこんでその存在ごと地脈の主になり替わろうとしていたものは、恐らく迷宮の主だろう。
200年前の魔の森の氾濫の日、エンダルジア王国の民を平らげた魔物たちは互いに喰らいあい、最後に残った一体が地脈の精霊を呑み干して、跡に迷宮が生まれたと、王国滅亡のおとぎ話に語られている。あれは、作り話ではなかったのだ。
エンダルジアは精霊で、しかも地脈の主である。だから、か弱い人間のように魔物に食らいつかれたからと言って、すぐにその存在を消したりしない。エンダルジアに食らいつき、迷宮の主となった魔物は、200年の時間をかけて迷宮を地下へ地下へと喰い進めていった。
迷宮が成長するというのは、恐らく物理的に階層が増すというだけではなくて、前の地脈の主であった存在を取り込んで、主に成り替わらんと地脈に向かって侵食していく工程なのだ。
エンダルジアはまだ消えてはいなかった。一つしかない左の瞳で、じっとジークを見つめていた。消え失せそうな今であっても慈愛に満ちた優しい顔で、いとし子の成長を喜んでいるかのようだった。
けれど、彼女が完全に迷宮の主に呑まれたならば……。
「迷宮が50階層を超えるとは、そういうことだったのか……」
ウェイスハルトが言葉を無くす。
「迷宮の主が地脈の主になり替わったなら……」
エンダルジアは人も動物も魔物でさえも、あらゆる命を等しく愛した。
けれどマリエラたちが感じた居心地の悪さは、人間に対する憎しみの残渣だ。
魔物はひとと相容れないのだ。あんなものが地脈を統べたら、きっと――。
「この地に、人は住めなくなるね」
誰も口にできなかった一言を、炎災の賢者が静かに告げた。
エンダルジアは喰われかけ、その存在は風前の灯だった。
レオンハルトたち、迷宮都市に住む人々に、もはや時間は残されていない。
その事実は、先ほどレオンハルトらが体験した、どんな奇跡をも塗りつぶし、重く、重くのしかかった。
ざっくりまとめ:迷宮都市、亡びかけてた




