解放
アグウィナス邸襲撃から数日後、ジークは晴れて自由の身となった。
冒険者としての功績と、今回のキャロライン救出の功が認められてのことだった。ジークはめでたく解放されて、同時にAランク冒険者になったのだ。
主が錬金術師だったこともあり、ジークの解放には引き続きマリエラの護衛を務めることなどいくつか条件が追加されたけれど、どれもジークの望むことだったので、手続きは何の問題もなく行われた。
ジークが自由の身になる『契約解除』の儀式の日、マリエラは朝からずっとそわそわしていて、奴隷商レイモンドの商館に行くだけだというのに、シャツから下着まで新しいものを下ろしてジークに着替えさせてみたり、靴や鎧をピカピカに磨いてみたり、忘れ物はないだろうかと鞄の中身を出したりしまったりおやつを入れて「いらない」と言われたり、万一に備えてと各種上級ポーションを背負い袋にたっぷり詰めては、「危険はないから」とジークに断られたりしていた。
当然ポーション作成などできたものではないから、今日のポーション作成はお休みだ。眼球特化型の特級ポーションどころか普通の特級ポーションもまだ作れるようにはなっていなくて、マリエラは何度もジークに「間に合わなくて、ゴメンね」と謝っている。
これほど落ち着かない様子でジークの解放を心待ちにしていたというのに、奴隷解放の儀式はびっくりするほど簡単だった。
「あぁ、これはほとんど解けかけていますね。《契約解除》。はい、完了です」
「え? 終わり?」
「……、特に変化はないのですが……」
契約をした時のように、炎舞い、風が渦を成して土を巻き上げ、杯から水が滴ったりするなか、「汝の血肉は汝のものなりー!」などと叫ぶものだと思っていたのに、奴隷商のレイモンドが、隷属刻印が押されたジークの胸元を、シャツの上からぽちっと触ってハイ終わりだった。
特にギャラリーなどもなく、ジークと付き添いのマリエラ二人が応接室らしき部屋に通され、書類にサインをした後、判子でも押すような気軽さでぽちっと解除である。
レイモンドにやる気がないのかと言えばそうではない。レイモンドは見たことがないほどにこにこと嬉しそうな表情でマリエラとジークを交互にみていた。
「変化がないのは、隷属契約が解けかけていたからでしょう。ジークムントさんの隷属紋にはマリエラさんの魔力がほとんど感じられません。ほとんど《命令》をしてこなかったのではありませんかな?」
「え、えぇ、はい」
そう言えば、ジークに命令したのは「錬金術師だと言わないで」という最初の一つだけだったなとマリエラは思い出す。マリエラとジークの暮らしには、《命令》なんて必要なかったのだ。それはマリエラにとって当たり前のことだったのだけれど、レイモンドにとっても一般的な事例においてもとても珍しいことだったようだ。
「おぉ。それは素晴らしい。隷属紋は人工的に付与したもの。自然の形ではありません。ですから、定期的に主の魔力を流さないと効力が薄く、弱くなっていくのです。耳飾りを付けるために耳に穴をあけたとしても、飾りを付けずに放っておけばやがてふさがってしまうでしょう? それと同じです」
隷属契約ってそんな簡単なものでいいんだろうか。《命令》しなければ薄くなるなら、勝手に解放されていたり逃げ出したりと、運用上問題が生じるのではなかろうか。
そんなマリエラの疑問に答えるようにレイモンドが話をつづけた。
「隷属契約の拘束力というのは、主が意識的に魔力を込めた《命令》だけに働くものではないのです。普段話す言葉には少しだけですが魔力が宿っているのです。相手を従わせよう、言うことを聞かせようと放った言葉は隷属紋を通じて奴隷の言動を縛ります。それが奴隷の意にそぐわないものであればあるほど強力に。そして隷属契約も深く根強くなっていく。
これは私の持論ですが、命令という物は言動を縛るだけではない。意思を捻じ曲げ行動を強制することで、その人の人となり、心のあり様を少しずつ歪めてしまうものだと思っています」
レイモンドの口調は穏やかだけれど、その言葉には強い思いが込められているとマリエラには感じられた。これが込められた魔力なのかもしれない。ちらと隣に座るジークを見ると、思うところがあるのだろう、レイモンドの言葉に熱心に耳を傾けていた。
「けれどジークムントさんにはそれがない。失礼ながら私が隷属契約を施させて頂いたときは、前の主の影響か随分と歪に感じられたのですが、それすら今は感じられない。あなた方の関係がお互いへの愛情で満ちていたからなのでしょうな。
隷属契約よりずっと強い絆で結ばれているならば、隷属契約など何の意味もなさないものです」
レイモンドは奴隷商などやってはいるが、根はとてもいい人なのだろう。隷属契約よりも強い関係を目の当たりにしたと大層嬉しそうである。愛情で満ちているなんて言われてしまって、マリエラはなんだかとても恥ずかしいのに、ジークまで「はい。俺はこれからもマリエラを守り続けます」なんて真顔で答えているから、マリエラは耳まで真っ赤になってうつむいてしまった。
そんなマリエラに優しい視線を向けた後、レイモンドは「ところで」と表情を引き締めてジークに向かい合った。
「こちらを。ジークムントさんの以前の主であった商人の罪状記録の写しです」
差し出された書類をジークムントは受け取ると、さっと目を通し始めた。
ジークの前の主であった商人親子は、迷宮都市でアグウィナス家の工房を襲撃し、捕縛された。それだけ見ても重罪だ。しかも、彼らが連れていた借金奴隷の状態から虐待その他余罪を追及した結果、多くの犯罪が明るみに出た。
その中に、商人の息子を救出した奴隷に、魔の森を抜ける隊商計画失敗の責任をかぶせ、商人の息子を危険にさらしたと虚偽の訴えを起こした件も明記されていた。
人権が保障された借金奴隷を多数死なせた、ポーションもなしに魔の森を抜ける隊商計画は、商人の立場を危ういものにしていたのだ。
「自分たちは一人の奴隷に騙されたのだ。自分たちも被害者だ。その奴隷のせいで息子まで大怪我を負ってしまった」
そんな無謀な言い分は、多額の金を積むことでまかり通った。死んだ奴隷に罪をねつ造するのは、いささか無理があったのだろうが、幸い一人生き残り、さらに都合よいことに高熱で意識が不明瞭な者がいたのだから。
そう、ジークムントだ。
「あなたの冤罪は証明されました。商人親子の私財から賠償金が支払われるでしょうが、この隊商計画の失敗以降随分と資金繰りが悪化しているようでして、今回迷宮都市に赴いたのも一攫千金を狙ってのことだったようです。他にも今回の襲撃を強制され殺されかけた奴隷など被害者は多くいますから、賠償金の額は期待できないでしょうな」
レイモンドが伝えたかったのは「冤罪が証明された」ということだけだろう。Aランカーの冒険者の稼ぎは良い。逆にその名誉は、多少の賠償金などで贖えるものではない。
「賠償金は結構です。その殺されかけた奴隷たちで分けてください。冤罪が証明されただけで十分だ」
ジークは静かにそう答える。その回答を試すかの如く、レイモンドはこう続けた。
「そうですか。ところでその商人親子ですがね、犯罪奴隷に堕とされまして、今この商館にいるのです」
――買いますか? 復讐できますよ。貴方の受けた屈辱を、恐怖を、時折その身を支配する御し難い憤怒をすべて晴らすことができますよ――?
レイモンドはそう尋ねているのだ。
商人親子の罪状記録がこの場に用意されたことも、商人親子の売買を持ちかけたことも、いや商人親子の余罪を追及しジークの冤罪を晴らしたことからして、キャロラインを助けたジークに対するウェイスハルトの計らいなのかもしれない。
けれど、ジークはわずかに躊躇うこともなく、きっぱりと答えた。
「いいえ。俺は今まで時間を無駄にしすぎた。もう、そんなことに構っていたくはありません」
「そうですか。これは出すぎた提案を。また人手が要りようになられましたら、ぜひとも当商館にご用命ください」
奴隷商レイモンドは慇懃に頭を垂れる。ジークはすでに奴隷ではない。Aランカーの身分を持つ冒険者で、奴隷商の顧客足りうる人物だ。
「帰ろう、マリエラ」
「うん!」
奴隷ではなくなってしまったジークの、変わらない「帰ろう」という呼びかけに、嬉しそうにマリエラが答える。
「あぁ、でもちょっと寄るところがあるんだなー」
そして、なんだかちらちら、ジークを見たりしている。さりげなさを全力で装っていて実に不自然だ。
「『ヤグーの跳ね橋亭』か?」
「う、うん。そうだけど……?」
もごもごと下手糞なごまかし方をするマリエラ。『ヤグーの跳ね橋亭』でジークの解放記念のサプライズパーティーを計画していることなど、ジークにはバレバレだ。決定的だったのは、いつもマリエラにくっついている師匠が、「先行ってるから、早くな!」などと言いながらウキウキ顔で出かけた点だ。ばれない方がどうかしている。
来た時と同じ距離感で帰っていく二人を温かく見守りながらレイモンドは、「またのお越しをお待ちしております」といつもの台詞で見送った。
『ヤグーの跳ね橋亭』へと向かう道すがら、ジークはマリエラにぽつりと話した。サプライズパーティーに合わせて家を出てきたから、日は沈みかけていて路上には二人の影が長く伸びている。
「マリエラ……、リンクスな……」
「うん……」
ゆっくりと二人並んで歩きながら、マリエラは長く伸びる影を見つめる。まるで、迷宮都市に初めて来た日、リンクスと二人歩いた時のようだ。
「リンクスは、マリエラのことが好きだったよ」
「うん……」
リンクスはAランカーになったら、マリエラに気持ちを伝えるんだと言っていた。だから、これは残された自分が、今伝えるべき言葉だとジークは思っていた。
マリエラは、じっと足元の影を見つめていて、どんな顔をしているのかはわからない。
「マリエラ。俺も、マリエラが好きだよ」
そしてこの気持ちも。きっと、今伝えなければいけないのだろう。
「ジーク……、あのね。キャル様をさがして、《命の雫》をたどったあの日ね……」
意を決したジークの告白に、マリエラはぽつりぽつりと言葉を繋ぐ。
「一生懸命キャル様をさがして、どうにか見つけたあとね、私、雨粒と一緒に地面に落ちていったんだ」
目的のキャル様はみつけたのだから、何度も空にもどる必要はない。そのまま雨粒と一緒に降り注ぎ、大地へ浸み込んでいったのだ。まるで、《命の雫》が地脈に還るように。
「その時、ちょっと思っちゃったの。地脈に行けばリンクスに会えるかなって」
マリエラのその言葉にジークは静かに息を呑む。
「……会えたのか?」
失った大切な人に再び会える。それはなんと甘美なことだろうか。
「ううん。会えなかった。でも、会えるかなって思ったら、どんどん、どんどん地脈の方へ沈んで行ったの」
薄く広がったマリエラの自我はとても希薄なものになっていて、記憶も感情もひどく不確かなものだった。このまま行ったら戻れないとか、キャル様を助けないととか、そういった明確な意思や思考は肉体に置いてきてしまったかのようにおぼろげでうまく認識することができない。ふわりふわりと眠りから覚める前のまどろみのような穏やかさだけが、深く沈み込むほどにマリエラを満たしていったのだ。
「でもね、その時、聞こえたよ」
ジークのマリエラを呼ぶ声が。
「帰りたいって、思ったよ」
それが、今のマリエラの精いっぱいの答えなのだろう。
あの時は、なんだかとっても気恥ずかしくて、「おにく」なんて言ってしまったけれど。
マリエラは気付いてしまったのだ。
けれど、だからどうしたいかなんて、まだマリエラにはわからない。
影を見ていたはずのマリエラは、いつの間にかジークの方を向いていた。照れくさそうに微笑む顔は、夕日に照らされて紅く輝いて見える。
「そうか」
「うん」
そんなマリエラの返事でさえも、ジークには満足な物だったのか、二人は再び『ヤグーの跳ね橋亭』へと歩みを進めた。
そんな二人を夕日が温かく照らしていた。
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しばらくしてから。
いつもと全く変わらぬ様子で『木漏れ日』で暮らすジークのもとに、一つの情報が寄せられた。どうやらこの街には、ジークを気に掛けるおせっかいが何人もいるらしい。
情報はアグウィナス家の工房を襲撃した商人親子のものだった。
奴隷に落ちた親子を買ったのは、商人の奴隷だった男だという。アグウィナス家の工房襲撃を命令されたその男は、商人の奸計によって本来の期間より長く奴隷の身分に据え置かれていた。商人の罪が明るみに出たことにより、解放された一人だという。
「俺にはもう、何も残されてはいないのだ」
奴隷商館を去る際にそう言い残した男に、一体何があったのか、知るものは誰もいない。
男は購入した商人親子を連れて迷宮へと入っていったという。
そして、その後、商人親子とその男を見た者は、ただの一人もいなかったという。
ざっくりあらすじ:1巻発売日にまさかのハッピーエンド!? ではありません。まだ続きます。




