恐怖感
「お兄様、ところでここはどこですの?」
「迷宮都市の東の森にある、我が家の隠し倉庫だよ」
雨は激しく降り続け、止む様子も見えなかったけれど、日が暮れる前に無事を知らせるべきだという、キャロラインの主張に従いロバートとキャロラインは地下室を這い出していた。
地下室の急こう配の階段を上がった先は、古い竈の中のような、黒くすすけた場所になっていて、半ば崩れた材料の投入口から外に出てみると、どうやら放棄された炭焼き場のようだった。
山裾の斜面を利用して作られた、石と土で作られた炭焼きの窯が3基ほど並んでいて、一番右の窯の中が、隠し倉庫に繋がっていた。
どの窯も大層古く、煙突は崩れてふさがっている。迷宮都市では日常生活で炭など使わないけれど、昔はドワーフの鍛冶師が鋼を作る工程で炭を使っていたから、森の中に炭焼きの窯の跡が残っていても不思議ではない。
(それにしても、当家の地下室への隠し扉といい、この隠し倉庫といい、ご先祖様はこういった仕掛けを好みますのね。マリエラさんに見せてさしあげたいわ)
これほど凝った隠し倉庫だというのに、中に収められていたのはロバートが椅子代わりにしていた箱が幾つかあるだけだった。無造作に床に置き、尻に敷いていたくらいだから、大して貴重なものは保管されていないのかもしれない。
そんなことを考えながら、キャロラインは兄の後を付いて獣道を進んでいった。
ロバートが拝借してきた迷宮討伐軍の外套は雨を通すこともなく、キャロラインを大雨から守ってくれていたけれど、雨水でぬかるんだ道は、靴底が薄くかかとのあるキャロラインの靴ではたいそう歩きにくかった。
ロバートは背負うと言ってくれたけれど、意識のない時ならばいざ知らず、いい歳の令嬢が兄に背負われるなど恥ずかしくてとても頼めるものではない。
(そういえば、お茶を頂いた後、とても眠くなったのでしたわ……)
目覚めて兄を見つけて以降、兄を説得するのに必死で誘拐された時のことを思い出す余裕はなかった。
(わたくしはこうして無事でいるのですし、お兄さまのなさったことですもの、お父さまや護衛の方たちも無事でいらっしゃるとは思いますけれど)
悪路を進む疲れから、ついキャロラインはロバートに悪態をついてしまう。
「お兄様はお人が悪いですわ。眠り薬など盛らなくとも、こうしてお話すれば済むことでしたのに……」
けれどロバートの返事はキャロラインの予想もしないものだった。
「私は眠り薬など盛ってはいないよ。確かにお前を探して基地に忍び込みはしたが、迎賓館に着いた時には、護衛も父上も皆眠らされていたのだよ」
「え……」
「私がキャルを連れ出せたのは、この刻印の力と、わずかだけ賊より早く部屋に辿り着けた運あってのことだろう」
「お兄様、お父様は、お父様はご無事なのですか!?」
「確認したわけではないが、恐らくご無事だと思う。お連れする時間はなかったが、父上の周りには多くの護衛が付いていたし、異変に気付きやすいよう迎賓館の扉は開けておいたから」
人質としても見せしめに無残な死を与えるにしても、年老いた男性よりもうら若い娘の方が効果が高い。だからこそ、ロバートはわずかしかない時間の中で、キャロラインの身柄の確保を優先したのだ。
ロバートに索敵の能力などないけれど、きっとあの時すぐ近くにキャロラインを誘拐しようと目論む敵がいたのだろう。ロバートの左手に刻まれた刻印は高性能で、魔力を込めることによって気配も魔力も姿さえも完璧にくらませてくれる。透明になるわけではないのだろうが、路傍の石ころのように相手にとって意味のないものに思わせる効果がある様だ。何度か検証してみた結果、意識のないものを抱えていれば、同じ効果が得られるけれど、意識あるものを抱えた場合、効果はいくらか薄くなる。
キャロラインが薬を盛られて眠らされていたことは、ロバートにとってもキャロラインにとっても幸運だったと言えるのだろう。薬で眠らせてキャロラインを誘拐しようとたくらむ何者かの裏をかくことができたのだから。
ロバートでない何者かに、薬を盛られ、攫われかけた。その情報にキャロラインは急に恐怖に襲われた。目が覚めた時、そばにいたのがロバートだったから、驚き混乱したけれど、どこか安堵もしていたのだ。道に外れた邪法を行った兄であったが、キャロラインにとっては優しい兄に変わりないのだ。話せばわかり合うことができ、キャロラインを助けてくれる。その認識に間違いはなく、ロバートはキャロラインが本物の悪漢に襲われる前に救出し匿ってくれていたのだ。
覚悟はしていたはずだ。頭では理解をしていたはずだ。
しかし、自分が誰ともわからぬ襲撃者に襲われかけていたのだという事実は、キャロラインの心臓を強い恐怖で締め付けた。
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「ジーク、マリエラを呼び戻せ」
フレイジージャの鋭い声が、雨の降りしきる『木漏れ日』の裏庭にひびく。ジークはマリエラのそばに駆け寄ると、彼女の肩に手をかけて「マリエラ!」と名を呼んだ。
名前を呼ばれたマリエラは聞こえているのかいないのか、ふわふわと頼りなげな動きでジークの方へ顔を向ける。
「マリエラ、戻ってこい。見つけたんだろう、もう、戻って来るんだ!」
呼びかけるジークの声に、明確な反応は見られない。ぼんやりとジークを見つめるマリエラの瞳。
ジークはこの時初めて意識した。
いつも見ている筈のマリエラの瞳の色は、フレイジージャと同じ金眼なのだと。
そこに、マリエラの瞳をのぞき込むジークの顔は映っておらず、代わりにふわりふわりと湧き立つような淡く儚い光が灯る。
(これは、《命の雫》の光? いや、これはマリエラが言っていた地脈の色ではないのか!?)
見慣れたマリエラの瞳の色はいつもと変わりはしないのに、ジークも周りの景色も映っていない。マリエラはここにいるのに、彼女の心はどこか遠い場所にいる。
「マリエラ! 帰ってこい! マリエラ! 聞こえてるんだろ!?」
離すまい、行かせはすまいと、マリエラの肩をつかむジークの手に力が篭る。ここにいるのに、どこか遠くに行ってしまいそうなマリエラに強く強く呼びかける。
けれど、マリエラの金の瞳は、どこか知らない光の大河を映すばかりで、ジークの声が届いているのかさえも分からない。
「マリエラっ……! 約束したじゃないか! 果物も、菓子も、オークキング肉も! まだそろってないんだ! マリエラ! マリエラ!!!」
ジークはマリエラの瞳の中に、自分の知る彼女を探す。声の限りに呼びかける。マリエラ、マリエラ、マリエラと。その叫びが、求める想いが、大気を、雨を伝ってこの辺り一面に広く溶け込みそうになったマリエラに届いたのだろうか。
「……おにく?」
「マリエラ!?」
それとも、肉のお兄さんニークムントの日ごろの行いか、ジークの良く知るマリエラが金の瞳に肉、いやジークを映してえへへと笑って立っていた。
「……とりあえず、風呂入って果物な」
「おにくは?」
「今度な」
「約束したのにー!」
「あぁ、約束は守るよ。今度、必ず獲って来る。だから今は……おかえり、マリエラ」
「うん……。待ってる。ただいま、ジーク」
そんな会話を交わしながら、家の中へと入っていくマリエラとジーク。いつもよりほんの少しだけ距離の近い二人に暖かな眼差しを向けた後、フレイジージャは「じゃー、今日はジェネラルオイルで焼き肉な!」と二人の後に続いて家へと入っていった。
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「眠り薬の成分が判明しました!」
すぐに判明すると思われていた眠り薬の鑑定は、予想と反し数刻を要した。眠りの毒を持つ素材は何種類もあるのだけれど、眠らされた兵やロイスの容態、残されたお茶の状態を見れば、ある程度まで絞り込むことが可能だ。
あとは、候補に合わせて順に試験をしていけば眠り薬の種類が判別し、そこから手掛かりがつかめるはずだった。さほど時間のかかる作業ではない。迷宮都市で採れる素材ならば。
ガーク爺を招へいしてようやく判明した眠り薬は、迷宮都市で採れるものではなく、それ故、重要な手がかりを得ることができた。
「これは小規模国家群で多用されている眠り薬です」
不眠を解消するためでなく、人を陥れるために調合された眠り薬は水によく溶け色もなく、無味無臭で時間がたてば分解されて消えてしまう。ポーションではないから眠りに落ちるまでの時間がやや長く、眠る時間も短いが、繰り返し服用を続ければ重篤な後遺症を残しうる、謀略の為の薬だ。
今回も、ガーク爺の鑑定があと少し遅ければ、眠り薬は残らず分解されて何の薬が使われたのか知ることができないところだったという。
その回答に、会議室に小さなどよめきが起こる。
戦乱の絶えない小規模国家群のどこか一国、あるいは小規模国家群と取引のある帝国の領が、迷宮都市でのポーション市販を阻害する。
それは、何のためか。
街道を通じて運ばれる、何がなくなると困るというのか。
その答えに気づいたウェイスハルトは、マルローを呼び寄せると何やら小声で指示を出した。マルローは黙って頷くと会議室を後にした。
一方で、『腑に落ちた』という表情を見せたのは尋問に当たっていたニーレンバーグだった。この日、アグウィナス家の襲撃は3回あって、尋問の結果、それらは全く別の集団であることが確認されていた。もっとも捕縛した段階から、工房、アグウィナス邸、基地を襲った集団のレベルには明らかな開きがあったから、先の二つの襲撃は単独犯か雇われた陽動部隊と推測されていたのだが。
まず最初に工房を襲った3人の痩せた襲撃者は、居合わせた商人の奴隷たちだった。いわゆる自作自演というやつで、『悪漢に襲われたところを助けて恩を売り、ポーション利権に食い込もう』と考えたらしい。襲撃者役をさせられた3人の奴隷は、脅かして逃げるだけの簡単な芝居をするだけで、うまく事をなし終えたなら自由の身にしてやると言われていたらしい。もちろん商人側には生き証人を残すようなつもりは全くなくて、初めから3人の奴隷をガラの悪い護衛たちに殺させるつもりでいたのだが。
襲撃者が意識を失う前の様子に違和感を感じたマルローが、尋問役に奴隷商人のレイモンドを指名したことで、襲撃者の3人は商人の《命令》の拘束力から逃れて自供することができたのだ。
商人親子の尋問は簡単で、ニーレンバーグがやさしく質問しただけで、洗いざらい話をしてくれて供述にも偽りはないようだ。ただ一つ不明であったのは、襲撃の日が重なったという事実。商人も商人の護衛たちも、襲撃日は自分たちで決めたと言っていたし、この街に彼らを助ける知り合いはいない。商人達は単独犯で他の襲撃に関わってはいないし、誰にも雇われてはいないという。
次に、アグウィナス邸を襲撃した集団は、帝都で活動している窃盗団らしかった。
窃盗団と言っても、誘拐のプロ集団というわけではない。少し上等な盗賊団といったところで、多少痛みに強く強情ではあったけれど、ポーションのない迷宮都市でながらく治療技師をしてきたニーレンバーグに言わせると、「迷宮討伐軍の兵士のほうが余程骨がある」という程度らしかった。
ニーレンバーグは人体を熟知しているから的確に痛みを与えることができるし、何よりも怪我というのは治療魔法やポーションで治すというのが常識だと思っている者にしてみれば、獣でも捌くような顔をして生きた人体を切り開いて腑分けするニーレンバーグは、この世に現出した悪魔のように思えたのだろう。
襲撃者たちはすぐに素直になって、話をしてくれたのだけれど、彼らは人を仲介して雇われただけで、雇い主のことなど知らされてはいなかった。ちなみに命じられたのは、キャロラインの誘拐。交渉は帝都で行われ、細かい指示は決行前夜に迷宮都市の宿に手紙が届けられたのだという。身柄を拘束するはずの空き家はもぬけの殻で、依頼主に通じる情報は何も得られなかった。
ハズレが二つ続いたけれど、フレイジージャが捕まえた基地の侵入者は本命だと思われた。フレイジージャが失神させて捕縛した3人のうち、2人は目覚めるなり仕込んだ毒で自害して果て、残る1人の自害は阻止できたものの、ニーレンバーグの尋問にも何一つ語ろうとはしなかった。ニーレンバーグの尋問に、である。痛みに慣らされた一流の隠密部隊というわけだ。
小規模国家群からやってきたのであれば、納得がいくというものだ。
あの地域は、常に紛争が絶えない。戦争を生業にする集団が巣食っていて、紛争が終わらないよう調整しているのだと囁かれている。眠り薬にプロの間諜。基地にしのび込んだのだ。相当の手練れ、つまり高価な人員だとみていいだろう。
マルローに指示を出し、レオンハルトとなにやら囁き合うウェイスハルトを見る限り、真相にあらかた目星がついたのだろうと、ニーレンバーグは考える。
けれど、ウェイスハルトの表情は曇ったままで、迷宮討伐軍に出動の命令も下らない。基地へ忍び込んだのは、工房付近で捕縛された3人だけではないのだ。迎賓館で薬を盛り、キャロラインを連れ去ったものは捕まっていない。基地の扉は閉ざされており、内部はくまなく捜索されたが、キャロラインも侵入者らしき人影も見つけることはできなかった。
既に基地の外に移動したとみていいだろう。
一体どこに。
マルローが派遣された先に、手掛かりがあるのだろうか。
重苦しい雰囲気は続く。
(やはり、尋問では手ぬるいか……)
これ以上は、ポーションがあったとしても元に戻らなくなるかもしれない。そこまで苛烈な尋問は指示されていないが、こうしている間にも時間は刻一刻と過ぎている。今しがた手に入った眠り薬の情報で揺さぶりながら、何とか聞き出してみよう。
ニーレンバーグは、ふっと浮かんだ愛娘シェリーの顔を、意図的に心の奥底に封じ込めると、とらえた間者に情報を吐かせるために席を立った。
その時。
「申し上げます! 錬金術師から伝令が。令嬢の行方が分かったと!」
ディックがジークを連れてやってきた。
ざっくりあらすじ:犯人わかって居場所わからず




